第8話 消えた男
雑居ビルにある地方新聞社の事務所で、ズレ落ちた眼鏡を直しながらつたない手振りでひとりの男がタイプを叩いている。やがて、最近入社した新人記者が社に戻るなり嘆いた。
「先輩は信じられますか!?『ある日突然、自宅で目を覚ましたら其処は知らない家だった』なんて話!」
「なんだい。記憶喪失かい? 今度の事件は面白そうじゃないか」
揶揄して囃したてると新人記者は顔から火を噴きそうな程、不機嫌な面持ちで食って掛かった。若さって奴はいいものだな。
「冗談はよしてくださいよ! 旦那さんが突然そんな事になって、奥さんはとても苦しんでいるんですよ!」
「なんだい、えらく御注進だな」
「そりゃあそうです。あんな良く出来た奥さんは滅多にも居ませんよ。心配して脳神経外科を駆けずり回り、検査も存分にしたそうなんですが、まったくの正常らしいんです。それなのに旦那ときたら、ふらりと家を出て行ったかと思うと、何日も家を開け、外に女まで作ったって言うんですから始末におけない。そんな旦那の事ですよ。きっと記憶喪失だって嘘をついたいるに違いありませんよ!」
「随分と奥さんに入れあげている様だが、まさか変な関係にはなってないよな?」
「冗談はよしてください。奥さんはそんな浮ついた人じゃありません。それだけ旦那さんを愛しきっているんです。だから傍から見ていても辛いんですよ」
新人記者の話を聞いた定年間近の老新聞記者の脳裏には、ふと古い記憶が思い出された。記憶の奥底に沈殿していたいた若き日の苦い思い出を噛締めるように、老記者は一度奥歯をかみ締めると若い記者に昔話を始めた。
それこそ、俺が新米だった頃に経験した話しだ。丁度、戦争も終わって戦地からの復員者も大勢居てな。その中のひとりが、突然家をふらふらと出て行ったっきり帰らないって事件があった。
男は田中一郎(仮名)という。田中一郎は戦地に旅立つ直前に結婚式を上げて、顔さえ碌すっぽ覚えない内に戦地に送られ、それっきり終戦で引きあげてくるまで、なしの
ところがだ。ここからが埒もない、男に騙された、よくある女の話とは違う所だ。よくある話とは違ったから大騒ぎになった。
「こっちの話とよく似ては居ますが、何故です? いったい何処が違うって言うんです?」
老記者は、老いた体には長話はキツく感じたのだろう、渇いた喉を潤そうと湯飲み茶碗に口をつけて、記憶を手繰る様に、静かな口調でゆっくり話を続けた。
「そっちの男は記憶が無いと言うんだろ? そして他人として他の女と暮らしていた」
「そうです。だから都合が悪くて嘘を吐いたんですよ」
まぁ、そうかもな。昔の話しだ、MRIだのCTスキャンなんて便利な機械ななんぞ無い時代だから、医者も仕方なく記憶喪失ではないかと診断した。本人が知らぬ存ぜぬではお手上げだからな。復員者が亡くなった戦友と入れ替わっていた。なんて、小説みたいな話も無いとも限らない。だから、様々な人物が軍の記録や戦友たちを
「じゃあやっぱり、田中一郎は噓吐きの犯罪者で、奥さんは悪党に騙された被害者じゃありませんか!」
「確かにな。皆そう思い、頑なに記憶が無いと訴える田中一郎は非難され糾弾もされた。正義感にかられた輩に脅迫事件まで起されたそうだ。そんな社会問題にさえなってしまったものだから、警察も思い腰を上げ、事件の解決に乗り出したって訳だ。ところがだ、結局、警察は逮捕は愚か送検さえも出来なかったんだ」
若い記者は、老記者のもったいぶった言い回しに痺れを切らし食って掛かった。
「だ・か・ら、それは何故なんです!?」
「病気だったんだよ!」
「脳のですか? 戦争の後遺症とか? しかし、こっちの話の男は検査でもまったくの正常だったんですよ!?」
「田中一郎も正常だったろうよ。病気といっても田中一郎の病気は精神病だったんだ。見た目は普通でもある条件下でのみ発症する。精神科で今で言う所の、解離性同一性障害と診断された。
「じゃあ今回の事件も二重人格だと言いたいんですね?」
「その可能性は高いだろうな。だから一度、精神科の診療を受けるといいだろう。ただ、……。」
「ただ、何です? 二重人格なら治療の方法もある筈です。よし! これで奥さんに喜んで貰えますよ!」
嬉しそうに朗らかな微笑をたたえた新人記者に対し、老記者は申し訳無さそうに目線を外し呟いた。
「ところがだ、田中一郎は離婚し、子供を作った新しい女と再婚をした。その訳は、田中一郎が二重人格になった原因が、独占欲が強く、表裏が激しい奥さんから受けたストレスだったからだ。治療して人格統合をしても、一緒に暮す事は出来なかったんだよ」
老記者の話を最後まで聞いた新人記者は、今まで意気揚々としていた両肩を下ろし、
「物事に強く執着するのは病気とまでは言えないが、現代では境界性障害と呼ばれているな。誰しもが持っている人間らしい感情ではあるが、件の夫婦の場合、取り合わせが悪かったのかも知れない」
「では、別れた方が良いと言う事ですか?」
「そうだな。場合にも拠るだろうが、奥さんが依存していたのならそうかもしれない。俺が担当した件は、離婚後二人とも再婚して幸せな家庭を作れた様だしな」
少し落ち着いてきた若い記者は、机に体を任せ小首をかしげてリラックスしている。
「別れた方が幸せって事もあるのかも知れませんね」
〈了〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます