第9話 記憶を辿る道3
「こんばんは、お邪魔します。子猫ちゃん……いや可愛い魔女さん、かな?」
疲れもあって、部屋のベッドでぐっすりと寝ていたロゼッタは声をかけられるまで彼の存在にまったく気づかなかった。
寝ぼけた目を擦り、上半身だけ体をゆっくりと起こす。寝る前にほどいた灰色の髪が顔を覆って視界を狭くする。
ロゼッタが声のした方を見ると、ランタンをぶら下げてリウトを背負った青年が開かれた窓に腰をかけ、彼女を見つめていた。もちろん窓の鍵はきちんと掛けたはずだった。
夜中に男が侵入したら普通なら大声を出して叫ぶところだ。けれども、ロゼッタには声を出すこともできなかった。彼と自分に圧倒的な実力差があることを本能で理解して、彼女は死を覚悟した。
「そう、いい子だね。そのまま静かにしていなさい。……僕は君に聞きたいことがあるだけなんだ」
ロゼッタは別にいい子だから声を出さないのではない。恐怖で声が出ないだけだ。青年は大人しい彼女の様子を満足そうに眺めて微笑む。
「ねぇ、魔女さん。君の名前は?」
「ロゼッタ・デュ……トワ……」
不法侵入の不審者に名乗る名前などない。そう思うのに、ロゼッタの唇は彼女の意思とは関係なく言葉を紡ぐ。
ランタンの明かり一つ、薄暗い室内でも青年の瞳はぞっとするほど澄んでいて、ロゼッタはそれに囚われていた。朝方、彼に会ったときは汚ならしい男だと感じたはずだった。けれど、ベッドの上で動けずにいるロゼッタを見下ろすかたちで微笑む青年は、同じ姿のはずなのに、別人のように見える。
髭に隠れて顔立ちはよくわからないが、切れ長の目、その中心で輝く青い瞳から目をそらすことは彼女にはできなかった。
「デュトワ? ああ、それなら納得。君の母上はどこかな?」
「南の……街道で……」
(なに、なにこれ、とまってっ! なんで!? 怖い! 怖いよ!!)
「抵抗しない方がいいと思うけど?」
「……いや、レオさ、ん……たす……」
明らかに魔法が使われている。おそらく暗示のような魔法で、青年はロゼッタが予想したとおり、魔法使いなのだとわかる。青年に『視』られなければ、口が勝手に動くことはない。そうだとわかっていても、ロゼッタはどうしても視線を逸らすことができない。
「レオさん? ふーん。兄妹って言ってなかった? ねぇ、君は彼の手のひらになにがあるか知っているの?」
「!!」
「そう……知ってるんだ。じゃあ親切な僕が一つ忠告を。現在、実質的に政務を行っているのは病弱な王ではなく、王太子。それは知っているよね? ヴァルトリの領主は三年前から王太子と折り合いが悪くてね。……だから信用しないほうがいい」
ロゼッタの家があるレストリノや、今いるソルラータはヴァルトリという領に属する。治めているのは『十六家』の一つスピーナ家。
三年前の内戦後にあった食糧難を乗り切るために、王命で国内の各領にも協力要請があったのだが、紛争地域に最も近いこの領の負担が一番多かったのだ。ロゼッタも当時のことをよく覚えている。食料不足は紛争とは直接関係のないヴァルトリに住む人々にも無関係ではなかった。
表だって批判をすることはなかったが、スピナー家と王家の関係に亀裂が入ったのはこの件が原因だとされている。
「まぁ、油断ならない場所を通るんだから、当たり前の話だけど護衛は信頼の置ける少数精鋭だったわけ。……王太子に近い立場の騎士にすら裏切られたら、一体誰を信じればいいと思う?」
明らかに視察途中で王太子が襲われた事件を、そして王太子に近い立場でないと知りえないことを、青年は知っていた。
「ヴァルトリの領内は論外だけど、ここを出ても油断しないでね? どこかの領で保護を求めるなんて考えてはいけないよ」
その時、窓とは反対の方向でドンという大きな音がした。青年の意識がそちらに向けられた瞬間、金縛りのような状態のロゼッタの体は自由になる。ロゼッタが扉の方を向こうとするより早く奏者の青年の首元に鈍く光る刃が突きつけられた。
「うわっ! 危ないなぁ……」
「……殺します」
ロゼッタが驚くほどレオは殺気立っていた。奏者の青年はそんな状況でもまだ笑っている。笑っているが、どこか寂しそうだとロゼッタは感じた。
「そういうわけにはいかない。ほら、僕には都に行って稼ぎまくる目標があるって話したでしょ?」
「変質者が戯れごとを!」
レオがギラついた目で、本気で繰り出した剣を青年は外に身を投げ出すようにかわし、そのまま下に飛び降りる。
「僕は先を急ぐよ。また都で会えたらいいね、可愛い魔女さん」
宿の前の道を走り去りながら、青年は最後にそう言った。レオはそれを追わず、剣を収めるとすぐにロゼッタに駆け寄り抱き締める。
「大丈夫ですか!? 怖かったでしょう?」
「っ!?」
体がガタガタと震え、心臓の音はうるさいが、彼が来てくれたことにロゼッタは安堵していた。彼が向けてくれる表情が先程までの険しいものとは違い、ひどく優しいものであることにも。
「あなたに何かあったら、私は、私はっ!」
怖い思いをした本人よりも、よほど辛そうな声をあげる。あまりに強く抱きしめるので、ロゼッタは急に冷静なる。逃れようと力を込めるとレオはさらに腕の力を強めた。
「レオさん! と、とりあえず離してくれますか?」
「嫌だ」
きっぱりと断言されたその言葉で、ロゼッタの心に沸き上がるのは罪悪感。それを否定したくてロゼッタは全力で彼を拒絶する。
「は、離せって言ってるでしょーが!! この既婚者浮気野郎!! すぐに離さなかったら、もう口聞かないんだから!!」
ロゼッタが強い口調で言うと、レオは泣きそうになりながら、ゆっくりと腕の力を弱める。
「……わかりました」
「そんな、捨て犬みたいにしょぼんとされても困るんですよ! 何度も言ってますよね? 既婚者なんだから自覚を持ってくれませんか?」
「私も何度も言っています。誰かと魂が
「それは記憶喪失だからでしょう! じゃあ、その手のひらにあるものは何なんですか!? 私に触りたいなら、きちんと思い出してからにしてもらえます?」
ロゼッタがジロリと睨むと、レオは自分の右手を見つめて言葉に詰まる。
「ロゼッタ、あの……」
「それよりも、あの奏者のことです! あの人、いろいろと事情を知っているみたいでした。レオさんが王太子殿下だということも……。何者なんでしょう? ……なんか、もしかしたら、ちょっと親切な人かもしれません」
「どこがです!? 女性の部屋に窓から侵入する親切な人なんているわけがないでしょう? あれは変質者です!」
ロゼッタが窓からの侵入者を「親切な人」となどと言い出したことに彼は腹を立てる。
「いや、でも……」
「やはり、ロゼッタは常識に欠けているというか、危機管理能力が壊滅的だと思います。ドアも壊れたことですし、今からでも二人部屋に変えてもらいます!」
「嫌です!! それに、ドアは壊れたんじゃなくて、レオさんが壊した……」
壊さなければどうなっていたかわからないのに、さすがにそれ以上は言えない。ロゼッタが黙ると、レオはさっさと宿屋の主人の元に行ってしまった。
レオは不思議な人だ。何気ない仕草で身分の高い人間なのだと明らかにわかるのだが、意外にも常識がある。
庶民の買い物の仕方や金銭感覚を知っているというわけではなさそうだが、周囲を観察して常識から外れないように行動できるのだ。身の回りのことを自分でできるのは二十歳になる前から軍務に就いていたせいだろうか。
「お待たせしました。宿のご好意で少しいい部屋に変えてもらいました。壊した扉もあちらの負担で修理してくださるそうですよ」
「ご好意?」
「私は偽りのない事実を告げただけですよ? 正体不明の変質者がきちんと戸締まりのされた窓からから侵入してきて、危険な目にあったと」
つまりは宿の簡単に侵入される窓に不備があって、連れが危険な目にあったと匂わせたのだ。正体不明の男が侵入したのは本当だが、レオが忘れてしまっているだけで、明らかに彼の関係者のようだった。それをあえて宿の主人には告げずに、ちゃっかり部屋を変更してもらったのだ。
新しい部屋はベッドが二つ並べられ、簡素なテーブルと椅子、小さな鏡台が置かれた部屋だった。最初に部屋に比べるとかなり居心地がよさそうだ。
レオは元いた部屋からてきぱきと荷物を運び、一階でもらってきた水をロゼッタに差し出す。
「レオさん、本当に記憶喪失ですよね? なんでそんなに普通にしていられるんですか?」
極度の緊張で喉が渇いていたロゼッタは椅子に座って喉を潤しながらレオに尋ねる。
「あなたの負担にはなりたくない、ただその一心です」
「で、でた……また言ってるし! でも、今のところ、私の方が全く役に立っていませんね」
ロゼッタとしては記憶喪失で世間知らずな彼を都まで導くつもりでいた。しかし実際にはロゼッタの方が世間知らずで足手まといだ。いっそロゼッタはどこか適当な町に留まっていたほうがいいのかもしれない。
「それは駄目でしょう。私を狙っている敵はご両親が引き付けてくれているかもしれませんが、女性が一人で宿に泊まったらどうなるか、宿の主人にも言われたでしょう? それに、あなたを母君の生家に届けるという任務がなければ、私が都へ行く理由はありません」
「そんな! レオさんは国を背負う責任ある立場なんですよ? それをそんな……」
「無責任だと思いますか? すみませんが、記憶がないというのは、そういうことなんです」
覚えていないことにたいして責任を感じることも、そのために動くことも無理なのだ。レオが目覚めてからまだ二日しか経っていない。彼が取り乱したりせず、あまりに環境に順応してしまっているので、ロゼッタにはそのことが理解できなかった。
「でも、取り戻したいとは思わないんですか? レオさん自身のことでしょう?」
「記憶を取り戻したら、私はどうなるのでしょうね?」
記憶を取り戻したいとは思わない。レオはそう言っているのだ。彼がそう思うことを「許されないこと」だと決めつける権利がロゼッタにあるのだろうか。
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