第2話 楽園の番狗

「俺、死ぬかもな……」

 びゅうびゅうと風が噎び泣いている。どっぷりと夜は更けている。少年は紙屑のように吹き飛ばされそうになるが、手と足に力をこめる。命綱をしっかりと腹部に巻きつけながら、建物の壁を下っていく。

 ロッククライミング状態の少年は中肉中背。

 三日月のように細い目を眇めながら、肩先まで伸びた髪と、制服をはためかせる。

 一般男子生徒の腕力しかないであろう太さの腕が、プルプルと震えている。

 長時間このままでいると落下しそうだが、慎重にならざるを得ない。

 難攻不落の要塞の下には最新鋭の魔力感知装置と、強力な警護隊が守護を務めている。

 監視の目を潜り抜けながら内部に侵入するのは不可能。かつて、幾多の男達がこの要塞攻略を試みた。穴を掘って地下から侵入したり、変装して堂々と正面突破したりしたが、ことごとく散っていた。

 だが、その偉大なる先人達の高潔なる精神は、脈々と受け継がれてきた。

 継承されたのは要塞内部の見取り図。

 見取り図という名の宝の地図は無償。

 必要なのは金ではない。

 ロマンのために命を賭けられるかどうか。

 きっと、金よりも重い覚悟がある者だけが手にする権利を持つ。

「うっ!」

 ガッ、と片足が滑る。

 もう片方の足の裏に魔力を集束させて壁に貼り付ける。

 壁伝いに降りるのに魔力を使用しすぎている。少年の潜在的に内包している魔力は他の魔法学生と比較してかなり低い。

 それに、磁石のように引力を強めるような魔法は苦手だ。といっても、たった一つの得意魔法ですら満足に使いこなせてはいないのだが――。

「うあっ!」

 闇を引き裂くようなサーチライトに眼が眩む。突如として現れたそれは、夜の空を滑空していた。

「サーチライトとガトリング銃を搭載した魔動監視小型ヘリ!!? こんなものまで用意して――」

 ドドドドドド、と、ガトリング銃から、雨のような魔法弾が放出される。こんなもの壁に掴まったまま避けられるはずがない。

「うあああああああああああ!!」

 咄嗟に手をパッ、と放して決死のダイブをする。命綱は魔法弾によって断ち切られた。胃がひっくり返るような落下感に目を瞑りながら、


 魔法で造りだした『泡』の上に足を乗せた。


 特注の泡は、少年だけが使える『特異魔法スペシャリテ』。運動エネルギーを泡の中に閉じ込めることによって、たとえ中空であっても静止することができる。

 ここまで来たのだって、この泡の魔法のおかげだ。

 先人達が利用した秘密の道は既に封鎖されていた。だから、少年の侵入経路は今まで一度も使われなかったであろう屋上しかなかった。複数の泡を展開し、その上を飛び乗ってここまで到達した。だけど――


 ババババババと、プロペラを回転させながら、魔動監視小型ヘリが追いかけてきた。


「やばっ――」

 集中砲火を避けるために、少年は窓ガラスを体当たりでぶち破る。

 バリィン! とガラスの破片を撒き散らしながらも、前転して魔法弾を避ける。もっと慎重でいたかったが、ここまで派手に侵入した以上そうも言っていられない。

 魔法弾によって土煙が立ち込めるが、あまりにも煙の量が多い。

 というよりも、最初からここに煙があった。いや、湯気が立ち込めていた。ああ、そうか。ここはこの要塞で最悪な危険地帯である――


 女性浴場だった。


 湯気が晴れていくとそこには大勢の女性生徒だった。

 男などいないはずの安全地帯で彼女たちはかなり開放的に……。端的に説明するならば――彼女達は全裸だった。タオルで隠す者もたくさんいたが、あまりの珍事に口をぽかーんと開けている人間が大半だった。

「あ、あのこ、これは誤解で……」

 確かに少年の目的地は、侵入者を必ず蜂の巣にすると呼ばれた魔窟――女子寮だった。

 だが、目的は女性浴場ではない。もっと大事なことのために、命を懸けたのだ。だからここで袋叩きにされるわけにはいかない。

「すぐに出ていくから。あと、君達の裸になんて興味ないし」

 うら若き女性達に囲まれている。浴場というよりは、大浴場。大勢の女性の中には確かに闖入者に対して反感を持つものもいるだろう。だが、このぐらいのこと、きっと笑って許してくれるだろう。おしとかやに、もー、最低だぞっ! と人差し指を立てながらウインクしてくれるだろう。だったら、こちらも笑顔になって、そして敵意がないことを証明すればいい。そうしてお互いに歩み寄るべきだ。物理的にも歩み寄ろうとすると――


 風呂桶が鼻腔に直撃する。


 ブッ!! と下心などない鼻血を噴出させる。

「キャアアアア!!」

 甲高い声を反響させながら、乙女達はそのへんのものを無造作に放り投げてくる。

 これは、三十六計逃げるにし如かず。

 後頭部に本の角が当たったかのような衝撃。無防備な肉体美を隠そうともせず、バズーカ砲を構えている方もいらっしゃる。いったいそんなものどこに収納していたのやら。

 ドゴオオオオオン!! と魔法弾が盛大に爆発する。衝撃によって後方の壁が損失してしまった。大惨事となってしまったが、爆撃のどたばたに紛れてなんとか浴場から脱出する。が――

「うあっ!」

 脱衣所で何かに当たってしまって、倒れてしまう。かなり大きめのものにぶつかってしまったが、触ってみると何やら柔らかい。ゴムのような弾力と反発力があって、不思議な感触だ。うっ、と反射的に閉じてしまった瞳を開けると、


「し、死にたいようだな、ヴァン」


 ザクン、と髪の毛が数本斬られる。

 驚くほど綺麗で危うい太刀筋は、彼女が携えている刀剣によるものだ。ワナワナと唇を震わせながら、片手でバスタオルを全身に巻く。大きめの胸もすっぽりと入るようにだ。ということは先ほどまでは生まれたままの姿で、触ってしまったのは――

「想像するなあ!!」

 顔を赤らめながら剣を振るう。暴走に照れが入ってはいるが、切れ味は本物だ。

「うおおおおおおおお! やめろ! チギリ! 殺す気か!?」

 長剣ではあるが、明らかに刀身が届かないものまで細切れにしてしまう。

 それこそが、彼女の魔法の特性だ。

 腰まで届く彼女の髪は、誤って刀で斬りそうなものだが、そうはならない。

 しなやかで、無駄のない筋肉のついているあの足で、自然と体重移動ができているのだろう。

 風呂場に入っていて火照っているのか、いつもよりも色っぽく見える彼女は、切れ長の瞳に激情を孕ませている。

「ああ、最初から殺す気だ。この私のだ、だ、大事なものを。責任を取れ! 貴様はおとなしくこの剣の餌食になるがいい」

 カマイタチのように、斬撃が中空を奔る。魔法を装填エンチャントさせた剣による斬撃。それこそが彼女の『特異魔法スペシャリテ』――


「『駆斬狗々ドッグラン』」


 平原を駆けていくような斬撃は、まるで狗のように形状を変えて牙をむく。

 この世の存在する全てを八つ裂きに食い千切ることができるその斬撃は、攻撃範囲が広い。紙一重で避けようとしたが、ズボンの端が噛み千切られる。

「あっ!」

 斬撃の拍子に、


 ポケットの奥底に入れていた下着がポロン、と晒されてしまう。


 しかも、男性物ではない、可愛らしい女性物だ。ヴァンが選別した、最高の逸品だ。あー、これは、隠そうと思っていたやつだったのに、どうしてー、と唸る。

 チギリが攻撃の手を止めて追及してくる。

「なっ、なんだその下着は!? 貴様、日頃から何をしでかすが分からんと思っていたが、よもや他人の下着を盗むまで堕ちるとは……。貴様、貴様あああああああああ。なぜ私の下着には手出ししないのだああああああ!」

「り、理不尽過ぎるぞ、怒り方が!」

 しかも、怒る箇所がなんか違う気がする!

「それにこれは盗品じゃない! 正真正銘、俺のパンツだ!!」

「なっ! 盗んだパンツを俺の物宣言とは……。貴様、どこまでゲス野郎なのだ。その腐った心根、根っこから切り捨ててやらねばならないらしいな!」

「違う! そういうことじゃなくて、これは本当に俺のものなんだ! 俺が買った奴なんだよ! お前なら分かってくれるだろ!?」

 他の誰かなら勘違いしてしまうかもしれない。だが、チギリならこちらの事情にもあるていど精通してくれている。

「そうか……そういうことか」

「わ、わかってくれたか」

 女子寮に突入したのだって、このパンツのためだった。

 奪取するのが目的ではない。

 実はそれとは全く逆の目的だったのだ。

 そのことについてチギリには、半分以上事情を隠しながらも相談した。だから行き違いが多少あっても、話し合えば分かってくれるはずだ。

「貴様、私に黙ってそんな趣味が……女装趣味があったとは! どうしてもっと前に相談してくれなかった! 私の服ぐらい貸してやったというのに!」

「頼むから、俺の話をちゃんと話を聴いてくれ――!!」

 狗の斬撃が幾度となく駆けてくる。

 錯乱しながら振るう剣であっても、剣筋の正確性は失われていない。避けられるのは、あと数回ほどだろう。

「ふん。無駄だ、無駄だ! ミスリルだろうとダークマターであろうと、私の前では紙切れに同じ。どんなものだろうと一刀両断にする」

 非常警報が鳴り響くとほぼ同時に、防壁が下りる。

 侵入者の脱出経路を防ぐつもりらしい。

「ほんと凄いよな、ここは。一つの要塞といっても過言じゃないほどに設備が整っている。どんな事態に際してもすぐに対応できるようにできている。だからこそ、俺はここまで追いつめられているんだよな」

 斬撃はいつまでも避けられる速度じゃない。

 このままではじり貧。戦い方を工夫する必要がある。

 後ろ手に持ったものを、狗の軌道上へと投擲する。たとえどんなものであろうとも斬ることができる。だから、備えつきの消火器であろうとも真っ二つだ。

「でもな、だからこそお前は俺に逃げられちまうんだ」

 切断された消火器は、内部の白煙を吐き出す。

「これは――消火器を使った目くらまし!」

 視界を奪った白煙に紛れて逃走する。足音を消すために泡を踏みながら、確認していた窓へと急ぐ。またも魔動監視小型ヘリの強襲を受けるだろうが、彼女の相手をするよりかはましだ。だからこそ――

「いっ!」


 飛んできた斬撃に気がつくのが遅れた。


 狗の牙が白煙を裂いてきた。咄嗟に避けたおかげで、制服が少し斬られただけだ。しかし、どうやって場所を特定したのか。目くらましの白煙が晴れる。

「目が見えないなら、心眼で見通せばいい」

 チギリは両目を完全に閉じていた。足音は消していた。空気の微妙な流れや、音の遮断物を察知したのか。とんでもない空間把握能力だ。俗にいう、『気』というやつか。

「そんなことができるのはお前だけだってぇの!」

 そんな剣の達人クラスじゃなきゃ習得できないことを俺ができるわけがない。そもそもお前、魔法学生だろ。魔法で感知しろよ、と胸中で罵ってみるが、四方から怒号が聴こえてくる。

「人も集まってきた。さっさと観念しろ。今投降すれば、縛る縄を緩くすることを考えてやらないでもないが」

「断る。俺を縛りたいんなら、運命の赤い糸でも持って来い」

 脇目も振らずに特攻する。

「ふん。少しでも近づいて剣の威力を殺すつもりか。だが、五体満足でいられるか」

 避けまくっているだけでは勝てない。逃げることも叶わない。だったら戦うしかない。しかも馬鹿みたいに直進する。そうすることによって、チギリの剣の軌道を限定化する。

 恐らく、剣を走らせるのはこちらが避けづらい胴体部分。身体の中心を狙ってくるはず。だからチギリが剣を振るう動作を見せた瞬間、予測位置に泡を発生させればいい。


「『水泡に帰す部屋バブルルーム』」


 全てを斬るのが『駆斬狗々ドッグラン』ならば、全てを内包するのが『水泡に帰す部屋バブルルーム』だ。

「私の斬撃を……泡の中に閉じ込めた!?」

 斬撃は霧散したように見える。だが、今はしっかりと泡の部屋の中にある。

「俺の泡の部屋はどんなものであろうと閉じ込めることができる! 落下の衝撃であろうと剣の斬撃であろうとな!」

 一瞬当惑したチギリだったが、また剣を振るう。だが、さっきまでのキレはない。ヴァンは滑り込むようにして仰向けになる。速度を殺さず、狙うのはチギリの細い足だ。

「なっ!」

「ぶっ倒れろ!」

「くっそ!」

「うわ!」

 転ばすことには成功したが、チギリが抵抗したせいで変な絡み方をしてしまった。倒れてきたチギリが肘で顔面を狙ってきたので、避けるために身体を捩じって……そこまでは記憶がある。だが、防衛本能に任せたので、今いち記憶に自信がない。いつの間にか、


 チギリのタオルの内部に顔を突っ込んでいた。


 脚と脚の間。タオル一枚だけしか巻いていない彼女の股。そこは暗くてよく見えないが、たった一つだけ分かったことがある。

「あっ、そうか……風呂から出たばかりだからノ――」

 チギリは耳まで赤く染めながら、今日最大威力の斬撃をヴァンに飛ばす。

「死ねえええええええええ――――――――――!!」

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