第20話 抗う者は盗人から盗品を強奪する
ウーゼニアは全てを振り切るため、風のように疾駆する。
いつの間にか、空に広がっていた深い色の闇が徐々に薄まっている。もうそろそろ夜明けが近いのかもしれない。
ポツポツと、一つ、また一つと住宅の光が灯りだして、道端を煌々と照らす。
あれだけ、《ポイニクス》やら、ドトリナスによる爆破の音が聴こえたのだ。こんな時間帯であっても、異変に気がついた領民達が起き始めているといったところだろう。
コレクベルト邸付近にいたであろう領民達は、悲鳴を喚き散らして遁走を図っている。
逃げろ! ……早くっ、このラクサマラからっ……!! と、大声を上げて、事の重要性を知らせる親切な人間もいたが、冷めた目でウーゼニアはそいつらの横を通り過ぎていく。
進んでいる方角は、ウーゼニアと同じ。
つまりは、口に出している通り、海中電車に乗って、さっさとトンズラをこくということだ。ウーゼニアが言えた義理ではないが、そんな簡単に故郷を捨てられるんだ、と何故か胸中で詰ってしまう。
自分たちの命が危険だから逃げないといけない。それは分かっている。分かっているけれど、逃げてしまったその後始末をやっている人間がいることを、ウーゼニアは知っている。
犯罪者という汚名を着ようとも、守るべきものために戦っている奴がいる。そのことをあいつらは視界に収めたはずなのだ。傷だらけでも、強大な敵に立ち向かっている姿を目撃したはずだ。
それなのに、できてきた言葉は――逃げ。
ああ、そうだ。
領民達の行動は圧倒的に正しい。
居残ったドトリナスが望んだのは、そういうことだ。
小を犠牲にして、大を救う。
それはつまり、自らを生贄に捧げて、救えるものを救うってことだ。
『灰かぶり』の仲間達やラクサマラの領民はおろか、出会ったばかりのウーゼニアのために楯になることを選んだんだ。
なんて立派で、完璧で高潔なる精神なんだろうか。
あまりにも隙がなさすぎて、違和感すら覚える。
でも――何かが。
何かが間違っている気がする。
朝霧と混ざり合った灰が総身にブチ当たりながらも、ウーゼニアは走り続けた。目を眇めながらも、ドトリナスの意志を尊重するために足を止めるわけにはいかない。
せめてドトリナスという尊い犠牲を胸に、これからも生き続けることこそが、ウーゼニアの役目だ。
そうだ。
これはドトリナスの言う通り、夢を叶えるために必要なことなんだ。
散々、揶揄され続きてきた『K.O.F.T』へ参加して、証明するんだ。自分のやってきたことが、ちっぽけじゃなかったって。
託された想いを貫いて、そしてああ良かった。
ドトリナスに助けられたから、ここまで来れたんだって。
涙の一つでも流して、遠い空を眺めながら呟けば最高だ。とっても映えるシーンの出来上がりだ。
ドトリナスは、思い出の中で生き続けるよ。だから、いいんだって。これで、いいんだ。これでいいんだっ――
「――んな」
これでいいんだ。これでいいんだ。これでいいんだ。これでいいんだ。これでいいんだ。これで――
「……ふざ……けんなよっ」
いいわけがない。
こんなの絶対におかしい。ラクサマラの領民全員が、ドトリナスの言う通りに行動するというのなら、ウーゼニアは、余所者だ。絶対に天邪鬼になってやる。
そんな完全無欠で、一考の余地もない。とっても綺麗なハッピーエンドを、ウーゼニアは握り潰したい。
――ウーゼニアちゃん、あなたはもう……私を悲しませないで。
不意に、幼き頃。
長い睫毛に涙を滴らせていたゼルミナに言われた言葉が、稲妻みたいに去来する。まるで呪いのように、ウーゼニアの身体を縛っている過去。
あれは、ウーゼニアが物見遊山でリュウキュリィアの裏通りを探検した時のことだ。過保護なゼルミナの目を盗み、人気のない道を突き進んでいった。そこには子どもなんてウーゼニアしかいなくて、異常な目つきをした男達が屯っていた。
奥に進めば進むほど、迷う構造になっていて、まるで迷路のような道。それだけも不安を煽られていたのに、そこにいたのは酒瓶を昼間だというのに浴びるように呑んでいる連中ばかりだった。
人生に疲れきっている奴らは、無知なウーゼニアに好奇の目を向けた。
こんな場所に来るべきではない闖入者は、清潔な服を着込み、光に満ちた瞳をしていたから。だから、自分たちと同じ境遇まで引き摺り下ろしたかったのか、特にこれといった理由もなく、好戦的な対応で接してきた。
ウーゼニアはその時、理不尽な敵意なんて知らなかった。
誰かと争うなんて考えられなかった。
ゼルミナの手によって、ずっと守られてきたウーゼニアにとって理解しがたい行為だった。なんで、どうして? と鼻血を垂らしながら問いかけても、下卑な嘲笑で殴り続けるだけだった。
怖くて逃げ出して、戦うことをしなかった。
結局。
数箇所に傷と、骨が折れたぐらいで済んだ。命に別状はなく、自警団に助けてもらった。
それからゼルミナは、はぐれて迂闊な行動をしたウーゼニアのことを叱ることなく、無言で抱擁した。大丈夫? 痛くない? もう大丈夫だから、としきりにウーゼニアの不安をかき消すような生温かい言葉を耳朶に響かせた。
もう、こんなことしないって約束して。私がウーゼニアちゃんを守るから。あなたは私のいう事を聞いて。そしたら、もうこんな痛い目をみなくて済むから。これからはもう、こんなことにならないように導いてあげるから。
そんなことを言われ、ウーゼニアはこくん、こくんと、と、壊れたように頷いた。それで母親の涙が晴れるのならば。それでもう、こんな傷を負わなくて済むのなら、と――。
その時は、それで良かった。
守られてばかりいる、あの時は無邪気な子どものままでいられた。
だけど、また。
また逃げ出していいのか。
ゼルミナに従っていたままの自分でいいのか。ウーゼニア自身の頭で考えろ。これが本当に最善なのかを。
ここにはもう、味方になってくれる保護者はいない。甘えは許されない。怖い目にあっても、誰も慰めてくれない。助けてはくれない。
そういう道を選んだ。
そのはずだった。
何かもかなぐり捨て、ウーゼニアはここに到達している。しがらみを故郷に置いてけぼりにしてもなお、ゼルミナの呪縛はついてまわる。母親の言う通りにしていれば、確かに楽だったのだ。
ドトリナスに出会っていなければ。
こんなラクサマラに来なければ、ずっとずっと平穏な日常を遅れていたはずだった。ゼルミナの言っていたことは真実だったのだ。
だけど、苦しいのは。
こんなにも苦しいのは……ドトリナスを助けたいって本心で思っているからじゃないのか。
ドトリナスの想いを踏みにじってまで戦いに赴きたいから、こんなにも苦しいんじゃないのか。
あの時みたいに戦わずに後悔することを、二度と繰り返したくないんじゃないのか。
喘ぐみたいに息を取り乱しながら、チラチラと未練の目線を後ろに送る。
急がなければ、コレクベルトの部下たちが駅へ押し寄せてくる。
ウーゼニアのことを捕まえるために、今のところ見えてはいないが、すぐ背後で大挙として迫ってきているかもしれない。だからこうして逡巡している時間すら惜しい。命取りだ。そんなこと分かりきっているのに――
ドン、と足元不注意だったウーゼニアは、何かにぶつかる。
置物ではない、もっと柔軟性のある感触。
立て膝を腹部に押し付けてしまったのは、四つん這いになっている男だった。倒れてしまった男は、ウーゼニアと衝突してしまったせいで、後頭部を打ち付けていまい、痛みに唸っている。
す、すいません。
と、若干どもりつつも、条件反射的に頭を下げると、ウーゼニアは男の手持ちを見やる。
どういうわけか、こんな非常事態にも関わらず、男は道の往来で、持っている袋の中身を暴いていたらしい。
倒れたはずみで、中から出てきていたのは、どう考えても男には不必要な装飾品だった。女性物の、手首に巻きつけるようなものから、首飾りに、ティアラみたいなものとか色々と。そっちの知識は皆無だが、艶のあり方が高級感を醸し出している。
特に考えなしに、男のために回収しようとしたが、どこかおかしい。
なんで――と疑問の声を出す前に、男の汚れた服と下衆な顔つきから全てを察してしまった。
今は誰もが鍵をかけずに、家から避難しているず。自宅には金や貴重品なんかを置いて、一番大切な命を守るために必死になっていることだろう。
だからこそ、今はどんなことだってできる。
ドトリナスがコレクベルト達の注意を引いているから、お咎めなしにどんな犯罪だって行えるというわけだ。
「まさか……。……盗ん……だのか? こんな時に……」
グヘッ、と男が舌を出す。
ウーゼニアが、力いっぱい首元を締め上げたからだ。
怒りと悔しさで、頭がおかしくなりそうだった。
「あいつはっ……ドトリナスはなあ! 今、お前たちを助けるために戦ってんだよ! たった独りきりで! 負けるとわかっていて、命を捨てる覚悟で! それでもあいつは――!」
「な、なに言ってんだ。俺はそんなの頼んだ覚えはねぇよ!」
男は裏返った声で、不細工な顔を歪ませる。
理不尽なことをされていると。
なんで自分がこんなことされているのか理解できないといった様子で、汚く口角泡を飛ばす。
「『灰かぶり』のせいで、俺達も迷惑してんだよ。あいつらが暴れれば暴れるほど、領主から金を巻き上げられてんだ。おとなしく捕まってやればいいのによ!」
無言でいるウーゼニアに気をよくしたようだ。
はっ、と唇を斜めに歪めている。
どうやら男は示威行為に酔いしているせいで。
ウーゼニアの額に青筋が浮かんでいるのが、唇が変色するまで噛んでいることに気がついていないようだ。
「お前らはお前らで好きでやれよ。俺だって好きなようにやるからよ。邪魔すんなよ。ああ、そっか、そういうことか。わかったよ、ほら。お前も相当な悪だなあ……」
手渡されたのは金目の物。
一目で高級だと分かる、黄金色の装飾品。
これで手打ち。というより、手切れ金みたいなもの。黙っていろ、見逃せ。金さえ積めば、こいつもおとなしくなる。通してくれると、そういうことか。
そんな風に見下されているというわけだ。
舐められたものだ。
そんな小利口に世間を渡れるだけの器用ささえあれば、こんなにも苦悩せずに済んだだろう。だが、そんな取引に応じることなどできない。コレクベルトとの契約も破棄して、ドトリナスを救出したウーゼニアができることといえば、怒りに狂って目の前のこいつをぶん殴ることぐらいだ。
都合がいいことに、みんな自分のことで精一杯だ。例え盗人独り殴られたところで、誰も助けようとしないだろう。咎めることなく、自分の命惜しさに見て見ぬ振りをするだろうという確信がある。
少なくとも、ラクサマラの領民はそういう連中だ。そう断定でいるほどの、ここにいる人間達は薄情だということは痛感した。
そんな人間の醜さを霧散させがたいために、思い切り振りかぶって拳を頬に――
「あれ? もしかしてウーゼニア君?」
気が抜けるような、薄ら寒い作った声。
苦虫を潰したような顔をしながら振り向くと、やはりそこにいたのは天敵ともいえるグラスだった。
「凄い偶然ですね。そんなに急いでどこに行くつもりですか?」
「尾行してたのか……あんた……」
「あははは。まさか。買い出しの途中でたまたまあなたを見かけたので、声をかけただけですよ」
まさか、と思いつつも、グラスが手提げが、こんもりと膨らんでいる。ネギなんかがはみ出ていて、どこぞの主婦のような出で立ち。
もしかして、掃除だけじゃなく、コレクベルト邸では料理も作っているのか。普通に、というより物凄く美味しかったな。こいつ実は、キルキスよりも女子らしいんじゃないんだろうか。
「それにしてもウーゼニアさんも、いい趣味してますねー」
「はあ? なんのことだよ?」
どうポジティブに考えても、貶しているようにしか聞こえないトーン。
ウーゼニアから眼球を少しずらすと、名も知らぬ男に焦点を合わせる。
「私もたまにやるんですよ。楽っ――しいですよね。ほんと。――弱いものいじめをするのって」
「何言ってんだ……俺はそんなこと……」
「さっきやってたじゃないですか。コレクベルト様には手も足もでない。だから、自分よりも弱い相手に八つ当たり。そういうあなた、私嫌いじゃないんですよ。人間臭くて。いやはや、感服しました。どうやら私達いいお友達になれそうですね」
「違う!」
「えー、どこが違うんですか? 全部あの『灰かぶり』の頭領に面倒事は押し付けて、余所者の自分は安全なところに逃げていますよね。あなたとそのこそ泥の一体どこに相違点があるんですか? あったなら聴かせてくださいよ」
眼鏡のレンズ越しの瞳は、薄く開いていて怖い。
睨んでいるようでありながら、本当に心の底からウーゼニアが地に落ちるのを嬉しがっているようにも見える。
「その人と何ら変わりませんよ、あなたは。中途半端に火中の栗を拾いにいって、火傷する前に手を引っ込めた。あなたがやったのはそれだけのことです。あなたは何も掴んでいない。掴もうともしない。何もせずに心底負け犬根性に染まった落伍者と、一体何が違うって言うんですか?」
違う、とさっきみたいに威勢良く否定することができなかった。
胸を塞ぐような罪悪感が猛毒のように、ジワジワと胸の中で広がっていく。
「でも安心してください。周りを見てみてみてください。あなたが今まで会った人間のことを思い出してください。みんな、そうだったでしょ? 妥協しながら生きているのは、みんな同じです。だから怖くないんですよ。寧ろ、当たり前のことです。……さあ、どこへなりとも逃げてください。私は止めませんから」
公共市民支援機関に見学に行った時。
誰もが口を閉ざしていた。単純作業を永遠に繰り返していた。励むことといえば、上司のご機嫌取りぐらいのもの。
自分の意見なんて何一つ言わず、ただ黙々と目の前の仕事に没頭していた。話すをするにしても、どこか遠くを見ているようで、まるで焦点が合っていなくて。
何を楽しみにして生きているのかが、分からなかった。
周囲に溶け込むことに必死で、ただそれだけが人生の目的みたいな感じがして、傍観しているこちらとしては、ただただ恐怖しか感じなかった。
それとは逆に、ゼルミナは嬉々としていた。
ウーゼニアを見ながら日々爛々と瞳を輝かせていたように思える。
事あるごとに、それは違うでしょ。私の言うことを聞きなさい! と、横から口出しして、命令を遵守しなければ逆ギレするか、号泣した。それが嫌で、ウーゼニアが辟易としながらゼルミナの意見に賛同すると、何事もなかったかのようにケロッとしてた。
声高らかに、そうでしょ。やっぱり、私の言う通りにして正解だったでしょっ!! と、こちらの鼓膜を破るのを目標としているかのようだった。
ウーゼニアは、ゼルミナのことを本当の意味では嫌いではなかった。だからこそ、ゼルミナが喜ぶことを率先してやった。公共市民支援機関の実情を目の当たりにしても、とってもいい職場だった。あんなところで働きたい! と、から元気丸出しに宣言した。
辛くとも。
その度に、喜んでくれたから我慢できた。
いつか、分かってくれる。
こちらの気持ちを汲んで、たまにはウーゼニアに選択権を与えてくれるのだと、信じたのだ。
それに、ゼルミナの――母親の曇った顔を見たい息子が、この世界のどこにいるのだろうか。
だから、心の中で泣きそうになりながらも頑張った。
そうしたらゼルミナは、喜んで、喜んで。
そう――ウーゼニアが命令を遵守する時だけ喜んでくれた。
まるで畜生が育っていくのを、じっと観察しているかのようなゼルミナに吐き気がした。健全な親子の関係じゃない。思い通りに、自分好みに染まっていくウーゼニアを見ていると、ニマニマと気味の悪い笑みを浮かべた。
ああ、そっか。
ゼルミナにとって、ウーゼニアはきっとペットと同義だった。
それを悟った時も、歯を食いしばった。
自分の親に逆らっていいことなんてない。社会的立場は、あちらが上なのだ。正論をぶつけても、取り合ってもらえない。そしてウーゼニアが暴言を吐いてしまえば、ゼルミナが壊れてしまうのだ。どちらかが我慢しなければいけないのなら、自分が言葉を抹殺すればいい。
そうすれば、かりそめの平和は瓦解することなく続いていく。
そうやって妥協することが癖づいていた。
やる前から何もかも諦めることが、当たり前になっていたんだ。
「ああ、どうせ俺はバカだよ。才能だってねぇよ。世界のことなんて何も知らない田舎者で。それから、こんなフロンティアに来るつもりなんかなかった余所者だ。だけどなあ――」
キルキスには才能がないと揶揄された。
《アルラウネ》は植物を生やすことしかできない《精霊獣》で、攻撃力があるとはお世辞にもえいえない。そもそも戦いには向いてない《精霊獣》を持っている時点で才能がない。それ以前に、キルキスと戦う以前、ウーゼニアがまともに戦闘経験なんて踏んでいなかった。
怖かったから。
何か新しい扉を開くのを躊躇って二の足を踏むような……そんな奴に、才能の欠片も見出すことができないのは当然だ。
ヤミヨイには世間知らずのお坊ちゃんと評価された。
きっとその通りだ。
ラクサマラについた瞬間。早くも野垂れ死にそうになったぐらい適応力がない。ゼルミナの命令通りに生きていたこともあって、自発的に何をすればいいのか分からなくて。瞬発力のある答えを導き出すことができない。ヤミヨイの挑発にまんまと乗って、キルキスに助けられるぐらいヘボいやつだ。
それでも――
「だからこそ――抗えるんだ」
短所だって長所になり得る。
いつだって道に迷ってばかりだ。自分が何をすべきかすらも分かっていない。ただ物事に首を突っ込んで右往左往しているだけの余所者だ。
そんな自分が嫌いになることだってあるけど、悩んだ分だけ、意味のある答えを探し出すことができるはずなんだ。
何も考えず、ゼルミナの言う通りにしていれば、真っ白で障害の少ない舗装された道を歩むことだってできた。だけど、それが本当に正しいことなのか分からず、脇道に反れた。
そうしたら、ドトリナスと邂逅した。
もしもかつての自分に疑問に思わなかったら、ウーゼニアにとってこんなにも特別な存在となった理解者と出会うこともなかった。
ここに来るまでめまぐるしさを感じた。
時間の感覚が速すぎた。
それだけ、生きているって感じがした。
肉体も心も強くなれた気がした。
たくさん戦って、今にも疲れ果てて眠りに就きたい。海中電車の丁度いい揺れ心地に身を委ねて、ぐっすりと舟をこぐことができればどれだけ幸福だろうってやっぱり思ってしまう。
それでも、譲れない想いがあるのならば、退くことなんてできない。勝ち目なんてなくとも、それでも理屈を超越した何かに突き動かされる。
もしも本当の意味で変わることができる瞬間があるというならば――。
きっと――今がその時なんだ。
フン、と苛立ちげに、名も知らぬ男の首元を緩めると、そいつはカハッと大げさに尻餅をつく。こんな奴どうなってもいい。そしてその尻に直撃したやつの盗品が、袋から更にこぼれ落ちる。一体この盗品をどうすればいいのか。元の家に返してやればいいのか、と悩んでいると、そこにあるものを目撃してウーゼニアは思わず瞠目する。
「これは――」
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