第19話 大嘘つき

「板垣先輩ってさあ、ほんっ――と笑えるよなー」

 ドア越しに、漏れ聞こえたのは後輩の声。自分の名前が聞こえてくるとは思いもしなかったので、ドアの前で凍りついたように動けない。

 野球部の部活終わりに、気がついたのは忘れ物。取りに戻ったら、まだ後輩達が残っていて、なにやら先輩たちの話題になっていた。立ち聞きするつもりはなくて、ただ、そういう話も後輩達の中では必要なんじゃないかと思っていた。

 だけど、話の流れで、俺の話題に移り変わって。

 どんな愚痴を聞かされるのかと思うと、何も聞かなかったフリをして、さっさと部室に入って何食わぬ顔をした方がいいかも知れない。

 部室のドアノブは、俺の汗で滑る。意を決してドアノブをしっかりと握って回そうとすると、中から後輩の声が聞こえてくる。

「なんつーか。凄く野球頑張ってるよな、あの人……。ひたむきっつーかさ」

 な、なんだよ。もしかして俺って実は人気者なのか。そうだったのか。そういう気配ってやつを後輩から受けたことがないから、なんか、言葉が出てこない。

 でも、とにかく嬉しいって感情だけは浮かんでくる。にける顔をなんとか収めようと、顔を手で押さえてみる。

 本人がいないところでの、意見の交換。これって、なんのお世辞もない、ただ剥き出しの本音でしかありえない。

 だから俺は浮き足立ちながら、心が上昇気流に乗ったようにウキウキとしながら、今度こそ大声を上げて、気持ちよく挨拶なんてしながら、入ろうとすると、

「ほんと、そういうところが……ピエロだよな」

 ぷっという噴き出しととも、爆笑が起こる。

 その響きはドアなんて障害ものともせずに、すぐ傍でじかに聞かされているかような大音声。弾ける笑いの音量からして、一人や二人じゃない。

 それは、およそ数十人の人間達の、俺だけを小馬鹿にした嗤い。

「あの人って、先輩の癖になんであんなに野球下手なわけ? ……しかも、未だにベンチ固定ってありえなくね? くっそウケるんですけど!?」

「マジわかるわ、それっ! たまにボール拾いしてるところとか見ると、憐れ過ぎて見てられねぇーから! マジで! ……バッ――カだよなーあの人っ。なんで野球部とか入ってんの? 俺があの人だったら、恥かしくて死ぬんじゃねーの! あっははははは」

 無重力状態になったように、足がふらつく。

 頭に激痛が走って、視界がぐにゃりと曲がる。音を立てないように、ドアノブから手を外せたかもわからない。喉が乾燥地帯のように干上がって、金魚のように口をパクパク開ける。

「つーか、そんな馬鹿がキャッチャー志望とか、素人にも程があるって! し・か・も、甲子園? さっ――む! ほんとっさー、あの人のギャグセンスだけは一流だよなー」

 あはは、ひっでーと他の後輩たちはせせら嗤う。

「でも、俺、実はあの人のこと本っ――気で嫌いなところがあるんだよ」

「は? どういうとこ?」

「板垣先輩が、ほんとに馬鹿ってとこだよ。知ってるか? 小梶先輩のこと。あの人ってホントはスタメン張れる実力を持ってるのに、板垣先輩以外とバッテリーはやらないって言ってるせいで、今でもベンチなんだろ?」

「はあ!? そうだったの!? なんであの人、あんなに野球上手いのにベンチにいるかと思ってたんだけど、そういうことだったんだ」

 小梶が……。嘘だろ……。

 あいつ、言ってたぞ。

 俺には実力がないからまだレギュラーになれていないって。いつものように無愛想に。俺に悟られまいと、あいつは……。

「ほんとにさ、ああいう人勘弁して欲しいよなー。空気読めてないっていうか……」

 後輩のため息混じりの詰りが、胸に突き刺さる。

「誰かに迷惑かけるぐらいなら、最初から叶いもしない夢なんて見るなよって話だよな」

 その声色は、今までと毛並みが違っていて。

 馬鹿にするとかじゃなく、本気で憤怒しているようで。

 軽蔑もするよな、そりゃ。

 何も知らないで、アホヅラぶら下げて、毎日野球の練習をやり続けて。ずっと苦しんで俺に何も告げることができなかった親友の前で、ただの幻想を語っているだけだった。

 そんな俺なんかに、かける慰めなんてひとかけらもない。自分で自分の傷を舐めることすらできやしない。

 俺は耐えられなくなって。

 その場から、背中を丸めながら逃げ去る。

「……なんだ、そうだったんだよ」

 この世には、どうしようもないことだってあるんだ。

 素振りで擦り切れた、血豆だらけの手。

 家に積まれた野球参考書や、録画された野球中継。

 それから、やり遂げたいという確固たる意思。

 そんなものがいくらあったって、結局俺にはなにもできやしないんだ。どれだけ水面に映った月を掴み取ろうとしても、結局俺は水中に手を突っ込むことしかできなかった。

 頭上にある月に向かって、手を伸ばすことすらできていなかったんだ。

 俺は歩いていると、校門前にいる人間をみて、はたと立ち止まる。

「準一、グラブ見つかったか?」

 小梶はそう言って、地面に置いてあったエナメルバッグを担ぐ。

 多分遅くなるから待たなくていいって言ったのに、お前はいつもそうやって俺に歩幅を合わせてくれるんだな。

 のろのろ亀のように歩くことしかできない俺なんかのために、お前みたいな兎は立ち往生してちゃいけなんだよ。現実なんて、童話のようにはいかなくて。

 どれだけ懸命に積み重ねても、そんなものは一瞬で霧散するから。

 だから、勤勉な兎は、鈍重な亀なんて枷は取り外してしまった方が、いいんだ。それはとっても、素敵なことだとおもうから。

「あーもういいや。グラブなんて。どうせ俺、野球とかもう辞めるからよ」

 あけすけに。

 あっさりと言い放つのは、できるだけ俺の傷を浅くするため。そんな打算じみた考えしか浮かばなくて。そうやって自分の身を守る術だけは身に付いてのが、普段逃げ腰の俺を象徴していて。なんだか、本当に今の俺って客観的に観たら滑稽だと思う。

 だけど、そうでもしないと、ぼろが出てしまいそうになるから。

 本当はここから逃げだしたくないって気持ちを、白日の下に晒すわけにはいかない。まだ捨てきれない思いがあることを、悟られるわけには行かない。

 だから、小梶が何かを反論する前に、

「ほらだって、俺って才能なんてないだろ。甲子園とか夢のまた夢だし。無理無理無理。どうせ俺なんか逆立ちしたって不可能なんだよ。それに、野球部の練習って思ってたより辛かったし。なんで、こんな練習量あるんだよ、Мなのかよって思うぐらいあったしよ……まあ、ぶっちゃけって言えば、面倒になったんだよなー、これが」

 矢継ぎ早に嘯く。

 余計なことを、何も言ってこられないように。自分の感情を塗りつぶしてしまうことができるように。

 ただただ、俺はクズ人間になりきることしかできなかった。

 そうすることでしか、誰かの思いを守ることなんてできない。そんな、無力な人間だったから。 

「……本気で言ってんじゃねぇーだろな?」

 小梶は感情を押し殺した顔色で、制服のポケットに手を突っ込んでいる。

 見えなくても握り締められているのが、肩の力の入れようから分かる。

 怒っているのかよ。

 そうだよな。俺から誘っておいて、いきなり白旗挙げたらそれは誰だって怒る。小梶の中学時代をメチャクチャにしたようなものだ。

 だから、これはきっと最後通告。

 俺の本心を聞いてくれる小梶の、情けみたいなもの。それがわかったからこそ、俺のやることはたった一つだけだった。

「ああ、本気だよ」

 何もかもを、打ち崩す言葉を言ってしまう。

 今まで築き上げたなにか大切な積み木みたいなものを、自らの手で横払いするみたいに。綺麗さっぱり俺はぶち壊した。

 これで本当の終わり。

 夢を見る時間のリミットは切れた。

 そのはずなのに、小梶はまだ帰ろうとしなかった。まだ、足先をこちらに向けていた。

 どうして。

 いつもの小梶らしくなかった。いつもだったら、ストイックな性格な小梶は、こんな風に諦める俺を、引き止めることなんてしなくて。そんなことはありえなくて。

 そのはずなのに、まだ小梶は俺のことを見据えていた。

「お前、言ってたじゃねぇーか。今まで馬鹿にされた分、一緒に甲子園に行ってそいつらを見返すんだって。どれだけ他人に馬鹿にされても、それでも……それでも俺は馬鹿でありたいとも言ったじゃねぇーか。それは、嘘偽りだったのか」

 野球部は、リトルやソフトボール出身の経験者ばかりで。

 俺と小梶は浮いていた。

 どうすればいいのか、どこから取り組んでもいいかも分からずに右往左往していて。教えを乞おうにも、それだけじゃ限界っていうのもあった。

 だから、俺たち二人で、まったく全容がつかめない野球っていう競技に手探りながら、お互いに切磋琢磨ながら、技術を身につけていった。

 一番やったのは、キャッチボールだった。キャッチボールなら、たった二人きりでも部活以外の時間、野球ができるから。

 その時間が、俺にとっては何よりも尊いもので。

 いつの間にか、ハリボテ同然の夢が、本当の夢になりかけていたんだ。

 小梶と甲子園でキャッチボールを。二人でバッテリーを組んで、全国を席巻しようって。

 そんな、青臭くても大切な夢が芽生え始めていたんだ。

 だから、こぞって集まって。

 毎日、日が暮れても練習を続けていた。

 でも、その時はっきり分かったことは、俺には小梶のような野球センスがなかったってことだけ。

 どれだけ走っても、スタートラインから違う。

 走るスピードが段違いに違うのに、才能というアドンバンテージの大差すらあるんだよ。そんなこと、いくら馬鹿な俺でもわかっていた。薄々気がついてたんだ。

 俺には、絶対に夢を叶えることができないってことぐらい。

 だから、こうして演技するのも、そこまで辛くない。苦しくない。そう、そのはずだから、だから、最後までやり通さないといけない。

「あんなもの口から出たでまかせに決まってるだろ。……なんだよ、お前。もしかして、素人が甲子園目指すなんて絵空事、本気で信じたのかよ。バッカじゃないのか」

 どうしたって、俺は小梶のようになれないのなら。

 きっと、これが最善。

 追いつけることができないのなら、最初から一歩を踏み出さなければいい。

 そうすれば、誰も傷つかなくて済むんだから。

「……そうか。お前がそう言うなら、それでいいんじゃねぇのーか。俺も、お前の遊びに付き合っていただけで、そんな夢最初から持った覚えなんてねぇーしな」

 小梶は、迷いなく校門をくぐっていく。

 もう俺のことなんか興味のなさそうな風情。肩で風を切るスピードは速くて、俺を今更追いつくことはできない。追いつけることができないんだ。

 ……それでいいんだ。

 底なし沼に片足浸かった人間をどれだけ助けようと足掻いたところで、助けようとした自分も引きずりこまれるだけ。それと同じように、俺みたいない埋没していく人間からは、距離を置いたほうがいい。

 才能ある人間は、足でまといなんて枷になるだけだから。

 だから、


「俺は嘘つきでいいんだよ」

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