恋する狼と夢みる羊飼い

魔桜

第1話 時をかけたい少年

「どう? そろそろ解けたかな」

 夏休み課題の解答欄は真っ白で。

 後ろからヒョイと覗いたアリサ先輩は、微苦笑する。

「まだ……みたいだね」

「すいません。もう少しで解けそうなんですけど」

 アリサ先輩と個室に二人きりで、勉強がはかどるはずもない。

 久しぶりにこうして会った先輩は、高校時代に比べて女性らしさに磨きがかかっていた。

 ファッション雑誌にでてくるような服装。それから、勉強の時にだけ掛ける眼鏡のおかげで、グッと大人っぽく見える。髪を金髪に染めていて、髪留めで後ろを縛っている彼女はすっかり別人のようで。

 それでいて、性格は竹を割ったような性格で、裏表がなくてなんでも話してくれるのだけど。だけど、なんだか、先輩との距離が離れてしまったみたいだった。

 地元の大学に進学したとはいえ、会う機会は以前よりずっと少ない。

 近所に住んでいるよしみということで、こうして一日家庭教師をしてもらって……。やっと……やっと、久しぶりに顔を合わせることができた。

「どうしたの。ちゃんと集中して」

「は、はい」

 いつの間にか顔がにやけてしまっていたらしく、アリサ先輩に怒られてしまった。

 すかさずシャーペンを強く握り直して、問題に集中する。

「えっと。この問題は……どうやって解くんだろ」

 天然パーマな前髪は、睫毛辺りを中途半端に跳ねて鬱陶しい。髪をイジりながら、勉強机からアリサ先輩に視点を合わせようとすると、

「そうだねー」

 振り返る前に左肩に手をポンの乗せられる。顔と顔をグッと近づけられる。

 そして、アリサ先輩は問題文の一文を指でゆっくりとなぞる。

「……現代文は、段落の最初と最後に重要事項があることが多いんだよ。だから、そこに焦点を絞っていけばいいからね」

 いきなりキスでもされるのかと思って、過剰に避ける動作をしてしまったのが馬鹿みたいだ。

 アリサ先輩の肌の露出している服装は残暑対策なのだろうけれど、健全な男子高校生にとっては目に毒。

 目のやり場に困っているのに気がついていないのか、先輩は教えることに没頭している。

「それからねー。登場人物は、丸で囲んでいったほうがわかりやすくていいよ。たとえばこんな風にね」

 シュッ、と軽快に縦長の丸を描いていく。

 でも、そのせいで先輩の手が動いてしまって、ヒジョーにまずいことになっている。

 タンクトップでむき出しな腕が、俺の肩にあたって、そこが妙に熱くて。

 大人の女性を感じさせる、平均値よりかなり大きいと思われる胸元の膨らみ。それが背中にあたっていて、うっと呻く。咳き込みながら、椅子を引いて離れる。

 正直こうやって一緒にいるだけでいっぱいいっぱい。この絶好の機会に、互いの仲を進展させようだなんて大それた考えは一切ない。

「そ、そうなんですか」

 それに、たとえ、距離を縮めようという心意気があったとしても、思うように舌が回らない。

 さっきからつまらない返答をしているだけで、内心なにこいつと思われてもおかしくない。だから、このままで終わるのは、後味の悪い後悔しか残らないような気がした。

「そうそう。それであとは、どこが重要か分かりやすいように、横線か波線引いちゃおう。自分が大切だと思うところに、パパっとやってみて」

 言われた通りに線を引き終わると、後ろを振り返る。

「……アリサ先輩」

「ん、どうしたの?」

 どんなことでも聞くよ、と言うように首を傾げる先輩に、訊いておかなければいけないことがあった。

「大学生活って楽しいですか?」

 違う、聞きたかったのはそうじゃない。

「うん、楽しいよ~! 今までずっと知りたかったことも講義で聴けるし、サークルの友達と遊びに行ったりしてるし」

「大学でその、か、か、」

 彼氏っているんですか?

「開催されたりしますか? ぶ、ぶ、ぶ、文化祭とか?」

「うん、開催されるよ。高校よりも準備期間が長いから、結構規模の大きなやつが。……そういえば、板垣くんの高校の文化祭ってもうすぐ?」

「……ええ、はい」

 ぐあああ、もう駄目だあああ。今の所で聞けなかったら、もう。

 アリサ先輩ぐらいの美人になってくると、彼氏の一人や二人いてもおかしくはない。ほんとうはそれを確かめたくてウズウズしている。

 だけど……改まって彼氏いるんですかなんて訊いて、こっちに気があると悟られてしまえば最悪だ。

 ごめんね、板垣くんはいい子だと思うけど、そんな対象としては見れない。これからは私達、いいお友達でいようか。……みたいに、やんわり断られたら立ち直れる気がしない。

 大学生のアリサ先輩から見たら、高校一年の俺なんてただの子ども同然。

 どれだけ想いを伝えても、きっと届きはしない。

 だから、そう簡単に踏み切ることはできない。

「そうだ、私の大学の文化祭に見学に来てくれるかな? いいところだよ。広いし、駅からも近いし。……できれば板垣くんに見てもらいたいな」

 まっすぐに見据えながら、先輩はひっそりと笑う。

 その笑顔があまりにも先輩らしくて、

「行けません」

 なにやら口走ってしまった。

 そっか、と残念そうに顔を翳らせる先輩に、思わず俺はあっ、と小さく声に出す。

 そう言う意味でいったわけじゃない。だけど、ここから先は言ったらだめだ。

 きっと取り返しのつかないことになる。

 それが全部分かっていても、耐えることはできなかった。

「文化祭は、俺が城王大学に入学してからの楽しみにとっておきますから。だから、それまで待っていてください」

 言って……しまった。

「でも、私の大学は……」

 優しいアリサ先輩は、言葉を濁しただけで留まった。

 それもそのはずで、入学するには圧倒的に学力が足りていない。全国でも指折りの大学に数えられる城王大学は、毎年偏差値70ほど。

 夏季休業中にほとんど毎日学校で補習していたような人間が、志望を口にしただけでも鼻で笑われるような大学。俺みたいな落ちこぼれには、一生縁のない大学のはずだった。

 でも、先輩と同じ大学に通いたい。

 それはきっと本心で、偽らざる心で。

 加速したこの想いを、止められなかった。

「今から勉強しまくって、絶対にいってみせます」

 あなたの今いる場所に。

 そこに行けるだけのふさわしい人間になってみせる。

 それができれば、きっと、どうしても今告げられないことも告げられるような気がするから。

「……そっか。板垣くんが本気で目指すのなら、私は心の底から応援する。……だから、約束だよ。絶対に城王大学合格してよね」

「はい!」

 優しく微笑む先輩には、憐れみなんてなかった。

 たとえ咄嗟の思いつきで口走った自分の目標であっても、先輩がこうして笑っていてくれるだけで本当に成し遂げられるような気がしてくる。

 このままで終われば何事もなかったことだった。だけど、今ならどんなことでもできるような気がして、俺はつい調子に乗ってしまった。

「アリサ先輩、彼氏とかっているんですか?」

「えっ?」

 戸惑っているアリサ先輩を見て、サーと血の気が引く。

 うわああああ、やらかしてしまった。時間が戻るというなら戻って欲しい。できれば今すぐタイムリープしたい。だって、これって、考えようによっては、軽く告白みたいなものだ。

 また先輩と当分会えなくなってしまうという、焦りと寂しさ。心の中で堆積していた想いに背中を押されて、とんでもないことを口走ってしまった。

「えっ、とね……」

 自分のしでかした行為のあまりの愚かさに、目の前が真っ暗になっていると、

「……好きな人ならいるかな」

 照れくさそうに、アリサ先輩は目元を緩める。

 その言い方だともしかして、彼氏は――いない? でも、いないって断言口調で否定しないってことは、もしかしたらいるってことなのかも知れない。

 それにしても、好きな人って誰なんだろう。というか、これってほとんど失恋に近い解答なのでは。間接的に振られた? もしかして今、振られちゃったのか俺? ……こ、こうなったら奇跡的な確率で、先輩の好きな人が自分であると思い込むしかない。

「板垣くん」

「は、はい」

 これから何を言われてしまうのかと、ごくりと生唾を飲み込む。

 アリサ先輩はスッと目を眇めて、

「城王大学を目指すなら、なおさら勉強に力を入れないとね。とりあえず、現代文の基本をおさらいしようか」

 ノートを指差してくるから始末が悪い。

 ガクッと肩透かしを食らう。

 話の核心に触れようとしないこの反応は、やっぱり脈なしってことなのか。そんなことより、さっさと勉強を終わらせて帰りたいとか、そんな遠まわしのニュアンスを投げかけられているのか、俺は。

 確かに先輩の言うことは正しいだろうけど、今、ここでは好きな人が誰かを教えて欲しかった。たとえどんな悲惨な言葉であっても聞きたかったのに、今の自分には教えてさえもらえない。

 ……それは、きっと、やっぱり……そういうことなんだ。

「現代文にはね、答えが載っているのが特徴なの……」

 俺の心の内を知らない先輩は、何事もなかったかのように話しだした。だったら、こっちもそうしなければならない。この想いは、心の奥底に封印しよう。

 もう、ほんの少しも期待しない。

 先輩には何も告げないで、願わくばできるだけ長いあいだ傍にいたい。

 それは弱虫で、臆病なだけだけど。

 二人で笑い合うことができないよりは、ずっとずっとマシだから。

「出題される文章や問題文の中に……必ず。――そう、必ず答えは目の前にあるんだよ」

 そして――。 

 アリサ先輩は頬を紅潮させて、こちらを見ていた。

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