三 良妻

「――どうぞ、ゆっくりお湯に浸かって、疲れと旅の垢を落としてくだせえ~! よく温ったまりゃあ、凝った体も柔らかくなりまさあ~!」


「ええ~! 何から何まで、どうもありがとうございま~す!」


 釜炊きを終え、薄い木の壁一枚隔てて声を張り上げる外の亭主に、私も湯けむりに声を響かせながら、鼻歌でも唄うかのように礼を述べる。


 もしや石川五右衛門よろしく釜茹でにされるんじゃないかとビクビクしていたが、どうやら取り越し苦労だったようである。


「ふぅ~……」


 安全だとわかり、ずっと張りつめていたものが一気に緩んだ私は、心地よい湯の温かさに疲れた身を蕩けさせる。


 こんな深い山の中で、まさか熱い風呂にまであずかれるとは夢にも思わなかった……その点はほんと感謝である。


 もしかしたら、旦那の方に感じた悪い印象もただの勘違いだったのかもしれない……。


「お湯加減はいかがですか?」


 そうして恩知らずな自分を少々反省しつつ、思わず無防備にまどろんでいたところへ、今度は脱衣所の方から奥方が、か細い声でそう訊いてくる。


「…っ! ……あ、は、はい! 大丈夫です! なんともいい心地ですよ!」


 すっかり油断していた私は、慌てて湯舟の中で上体を起こすと冷静を装って返事を返す。


「あの……山の中は里と違って、どこに危険が潜んでいるかわかりません。どうぞお気をつけくださいましね。特に寝る時などは……」


 幸い、動揺してしまったことは気取られなかったようであるが、続く会話で奥方は、なんだか妙なことを言い出す。


「……? ああ、はい。お気遣いありがとうございます。なに、こう見えても職業柄、山歩きは慣れてるんでご心配なく」


 いったいなんの話をしているのだろうかと一瞬、小首を傾げたが、あの旦那と違って奥さんの方はいい人そうだし、きっと都会者の私を気にかけてくれたのだろう。


「………………それでは、ごゆっくり」


 しかし、そう思って冗談交じりに答えたのであるが、奥方はじっと黙って長い間を置いてから、どこか悲しいような、淋しいような声で、短くそれだけを告げて去って行ってしまう。


 なんだろう? ただの親切で言ってくれたと思ったのだが……今の言葉が妙に気になる……。


 ついさっきまでは極楽気分でいたというのに、熱い湯の中にあっても薄ら寒いものを感じた私は、慌てて湯舟を飛び出すと逃げるようにして風呂場を後にした。


 ただし、借りた浴衣は何か仕込まれていないだろうか? と、羽織る前にちゃんと確認して……。

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