蝉と蜃気楼

@Akirpap

蝉と蜃気楼

 八月。夏真っ盛りだと言いたいのか蝉がまるで最愛の人を殺されたかのように鳴く。人の気も知らないで。一度も会った事も無い人達が彼の写真の前で、物を言わなくなった彼の前で泣いていた。私はその光景を見てただ呆然とその場に立ち尽くしていた。とても悲しいはずなのに涙は出なかった。あの蝉のように泣き喚いて全てを吐き出してしまえたらどれだけ楽だっただろうか。


 彼に出会ったのも今日みたいに蒸し暑くて蝉がうるさい日だった。バイト先で出会った年の離れた彼はとても優しい人だった。彼は私のどんなわがままも受け入れてくれていたし、私も彼の全てを受け入れる事ができると思っていた。他の人に見せないような怒った顔も悲しい顔も私には見せてくれていた。すれ違う事があっても二人で解決していけた。会って間もないのに私は彼と生涯を共にするんだと、心からそう信じていた。


 まだ高校一年生だった私は彼との付き合いを誰にも受け入れてもらえなかった。両親も、友達も、みんなが彼の事を否定した。いい年をしたフリーターが女子高生に手を出していると周りが不潔だと馬鹿にした。彼はとても私を大事にしていたので彼と私の間にみんなが思うような情事は行われていなかったけれど、誰もそれを信じなかった。


 そんな中で時間を作っては二人でどこかに遊びに出かけたりバイト先の帰り道にご飯を食べに行ったりなんてそんな些細な日々がとても幸せだった。私の事も彼の事も何も知らない外野が何を言おうとどうでもよかった。私が十八になって堂々と付き合えるように、ただ時間が早く過ぎる事を毎日願っていた。幸せな日々が何年も先にも続いていると信じていたから。そんな幻想を追いかけて私は日々を過ごしていた。


 彼の病気の事を知ったのは付き合ってから十ヶ月も経ってからだった。彼は元々心臓が弱くて長く生きられなかった。だから定職につかずに学生時代にお世話になった仕事場でずっとフリーターとして働いていたらしい。結局のところ私も彼の事を何も知らなかったのだ。時間が早く過ぎてほしいだなんて馬鹿みたいな事を願ってしまっていた。彼にとっては限りある少ない幸せな時間だったのに。


 彼が入院してからできる限り入院先に顔を出した。二人で話している時はとても幸せで、彼も幸せそうにしていた。一度彼の両親に会った時に彼らは私にありがとうと言ったけれど、彼は私と別れる時にはいつも「ごめんね」と言って謝った。帰り道で私はいつも泣いていた。まだ彼が死ぬと言う事実を受け入れられていなかった。


 彼が入院してから数日で彼の容態は急速に悪化した。彼の両親から今夜が峠かもしれないと連絡が来たが、次の日が学校の試験だった為に両親は私が彼の元に向かう事を許さなかった。母は「いい機会だから彼の事はここで忘れなさい」と言った。両親には感謝している。ここまで育ててくれた事は大変な事だっただろう。彼との交際を反対するのも私の身を案じての事だと理解している。でももうそんな事もどうでもよくなった。その日も外では蝉がやかましく鳴いていた。「みんな一緒だ」私はそうつぶやいた。


 彼はその日に亡くなった。私の時間はそれから止まってしまって、私の時間を動かしていたのは未来にある彼との幸福な日々だった事を知った。友達は落ち込む私を励まそうと以前よりもよく声をかけてきた。なんだかうれしそうだった。


 夏が過ぎて秋になっても、冬になっても春になっても蝉は私の周りでうるさく鳴き続けた。誰が悪いわけでもない。あえて悪者を選ぶとすれば彼を好きになった私だろう。


 去年よりも蒸し暑い今年の夏、やはり蝉は人の気も知らないでやかましく鳴いていた。私の写真や何も言わない私の顔を見て泣く蝉もいた。私は知っている。本当に悲しい時には涙なんて出ないのだ。蝉が泣いているのは何も知らないからだ。何も知らないし何も知ろうとしなかったから、そんな風に泣けるのだ。そうやって泣いて全てを吐き出して、自分だけすっきりして次の人生をスタートするんだ。そんなところに私はいない。


 みんな何を見ているのだろう。

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