Dawn Walkers
@jinto000
第1話
―――一歩踏み込んだ瞬間、猛烈な悪臭に吐き気を催した。
犬並み、とは言わずとも常人よりも効く鼻が脳を腐らせるような刺激を訴える。
思わず家に帰りたくなる衝動をぐっとこらえながら、悪臭が漂ってくる場所――――寂れたビルとビルの隙間、薄暗い路地裏へ視線を向ける。
例え街の中心から外れた場所、日の沈みかかった夕方とはいえ人通りはそれなりにはある。こんな臭いをまき散らしていれば通りすがりのサラリーマンなり、近所の住人なりが騒ぎを起こしているだろう。
そう、本来ならば。
軽く鼻をつまんで、路地裏の奥へとゆっくり歩を進める。
3歩進んだ辺りで空気が変わったのを肌で感じた。
6歩進んだ辺りで街の生活音が一切聞こえなくなった。
9歩進んだ辺りでじゃり、と足元に散らばるナニカを踏んだ。
ちょっとため息をつきながら、踏んだものへと視線を向ける。
それは骨だった。
指の骨、腕の骨、足の骨、肋骨から背骨に頭蓋骨。
小学校の理科室で良く見かけるモノ、ちょっとした知識があれば『人間の骨』と断言できるものが、路地裏のあたり一面に散らばっていた。
大きさも太さもバラバラ。数から考えても、人間の1人2人ではきかないだろう。
そして何よりも目立つのが骨にへばりついている食い残し。
―――悪臭の原因は、この大量の食い残しが腐ったことによるものだった。
冬も近い季節とはいえ、放置すれば腐るのは当然の事だ。せめてもの救いは死肉に蠅や蛆が集っていないことくらいか。
とりあえず一呼吸おき―――もちろん鼻は使わず口だけで―――このスプラッタ―映画真っ青の路地裏の奥の奥、行き止まりに佇む捕食者へと視線を向ける。
それは犬だった。
それは猫だった。
それは鳥だった。
――――それは良くわからない
犬の頭と猫の胴体、鳥の脚と爪を持った2メートルほどの
暗がりの中でもよく目立つ、ギラギラした赤い瞳は自分の縄張りに入り込んだ獲物をあざ笑うかのように睨みつけている。不揃いで尖った乱杭歯から唾液が零れ落ち、猛禽類のような鋭い爪が足元のアスファルトを削るようにして食い込む。
掴まれたら痛そうだな、などと場違いな感想を抱きながら、両手をだらんとぶら下げて、余計な力を籠めずに自然な体勢を取る。
「..;:.l■pd@l@◆kさdqwfれ4tfl@g!!!!」
おおよそこちらには理解出来ない、獣の咆哮ですらない咆哮。
全身を大きく屈めながら、爪の食い込みがさらに強くなる。
それが突進の前兆、自分を喰らうための予備動作であることは明白で、
「..pbhig@l@◆k@ふぇおfじゅl@g!!!!」
―――気づけば、一瞬で喉元に牙が迫っていた。
◆
「そして哀れ、勇者の物語は終わってしまいましたとさ、マルぅ」
「……勝手に殺すな勝手に」
妙に間延びした言葉に反応しながら、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、プルタブを開けて一気飲みする。
気づけば仕事終わりにはこれを飲むのが習慣になっていた。切っ掛けは確か、水道工事で水が出なくて家の中にある飲み物が貰い物のビールしかなかったのだったか。
肉体労働をした後の酒が旨いと感じるようになったのはつい最近の事だが、これを自分が成長したと取るか、老けたと感じるべきかは迷うところだ。
「うわぁ、報告聞きに来たのにいきなり飲み始めるとか――――一本ちょーだい」
「俺酔わないし、人の習慣にケチつけんな――――ほらよ」
小さなちゃぶ台の向こう側、そこに胡坐をかいて頬杖をつく女へ1本投げ渡す。
ゴンッ、とキャッチし損ねて顔へ直撃したのを見ながら改めて思う。
日本人にしては色素の薄い肌と背中まで伸びた艶やかな黒髪。
――――だがジャージだ。
すらりとしたスタイルに適度の大きさの
――――しかも今日は小豆色の芋ジャージだ。
そして10人中8人は振り返るくらいに整った細長系の顔立ちにブラウンの瞳。
―――こいつがジャージ以外着てる姿を見たことがない。
つまる所、素材は良いのにファッションセンスとその他諸々の要素でダメになっているのがこいつ、志村花蓮という女だ。
「……妖怪ジャージ女め」
「うっさいジャージの何がダメなのよぉ―――安いし着やすくて機能的でしょ?」
「そういう所がダメだと思う」
赤くなった鼻をさするこいつとはもう数年の付き合いで、こうして部屋―――六畳一間のボロアパート―――に上がることは何度もあったが、そういう空気に一度もなったこともない。
たぶん、この残念さと、あと微妙な性格の悪さによるものか。
とは言えこいつは単なるジャージ狂いではなく、このアパートの大家兼俺みたいな連中専門の斡旋業者だ。
――――機嫌を損ね過ぎるのも面倒なので、真面目に切り出す。
「今回の仕事―――路地裏に住み着いてた怪異は確実に駆除したぞ。本体と極小異界の消失も確認したし、仏さんも
あの犬か猫か鳥かよく分からないナニカ―――いわゆる“怪異”と呼ばれる存在。
ここから数駅離れた街で存在が確認され、しかも人を餌にしているという事から俺に駆除依頼が回って来たのだ。そして事前に貰った行方不明者の目撃情報を中心に、感覚任せにあちこち歩き回ってあの路地裏へとたどり着いて、
飛びかかって来た所を、首を掴んで潰して地面に叩きつけて、それだけで死んだ。
受肉していない低級怪異の例に漏れず、跡形もなく、最初からいなかったかのように、煙のごとく消滅した。
言葉にすればそれだけの――――とても楽な仕事だった。
「んで、見つけた遺品はそこの段ボールの中な」
部屋の片隅に置かれた大きめの段ボールを見ながら言う。
むしろ大変だったのはその後。被害者たちの遺品集めだ。
見つかったのは千切れた鞄、画面に罅の入ったスマホ、血まみれの腕時計や砕けたキーホルダーに衣類の残骸等々。
それなりの量を1時間ほど地面に這いつくばって探し、段ボールに抱えて電車に2時間ほど揺られて家に帰って来た。
仕事よりも移動時間の方が長いというのも微妙な気分になる。
「そっか、ありがとーねぇ」
「そりゃ仕事だからな……ちなみに聞くが、渡すのか?」
「うん。カバーストーリーと暗示は必要になるけどねぇ」
「……いつもの事だな」
追加のビールを開けながら、呟く。
そう、これはいつもの事だ。
何も知らない一般人が怪異に、異能者に、怪奇現象よって命を落とすことも。
そうやって死んだ連中は行方不明者扱いにされ、国ぐるみで隠蔽することも。
遺族が過剰に騒ぎ立てないように催眠暗示までかけることも。
俺のような日陰者の請負人が事件を解決することも。
――――この、神秘が息を吹き返し始めた時代ではごくありふれた出来事だった。
◆
「――――ああ、そうそう。新しい仕事があるんだぁ」
お互いに五本目を開けた辺りで、志村が若干赤くなった顔を近づけて切り出す。
仕事、そう仕事の話だ。報告が終わり半ば飲み会と化したこの場で。
――――絶対何かある。
本能的にそう思った。
何となくだが、こいつがろくでもない話を持ってきた時の雰囲気を感じる。
そう忘れるはずもない。以前、軽い気持ちで二つ返事をして、富士の樹海まで連れられたと思ったら、大量に沸いた怪異を討伐する羽目になった時と同じ雰囲気だ。
一匹一匹は雑魚だったが、1週間以上朝から晩まで不眠不休で千切っては投げ、千切っては投げのルーチンワーク……もはや思い出したくもない苦行だった。
「……シロか健介に回せ。俺はパスだ」
なので同じアパートの住人兼同業者の
脳裏に浮かんだのは女限定トラブルメーカーのムッツリと年中無休金欠冒険野郎。
あいつらならばきっと喜んで受けるはずだ。
「天瀬君は 天使絡みの事件に巻き込まれたとかで断られてぇ、渡会君はお金貯まったから未探索の遺跡冒険するとか言って音信不通でーすぅ」
が、残念ながらそう都合良く行かないらしい。
というかあいつら何をやってるんだ―――――平常運転か。
「じゃあ他の子飼いに回せ。別に俺じゃなくてもいいだろ」
「他の子達は別件で動いてて、今君しかいないの。お願い助けてぇ!」
「酒入った奴にお願いされてもな……」
ぬぬぬ、とか呻いているが、こっちにも仕事を選ぶ権利くらいある。
面倒ごとを積極的にやるほど、俺は人が出来ていない。
「むー……じゃあ仕方ない。これだけ出すわぁ」
そんな俺の内心を見透かしてか、志村は指を五本立てる。
提示した報酬額は今回の3倍以上―――ますます怪しくなった。
怪しくなったのだが、
「そこまで出すか……」
金の誘惑に負けそうになる。
実を言うと、俺はちょっとした破壊行為でそこそこの借金がある。
そして訳あって借金はこいつが立て替えていて、今は報酬から差し引いている。
だが、いくら無利子無担保と言ってもこの女に借金を背負い続けるのは精神衛生面からしても大変よろしくない。
今はまだないが、借金を口実にどんな無茶ぶりをされるか分かったものじゃないのだから。
「……聞くだけ聞いてやる」
なので話を聞くまでならタダなので、一応聞いてみる。
「しばらく預かってほしい“モノ”があるのよ。一週間程度で済むはずよ」
「その預かりものは何だ?」
「秘密ぅ」
「……依頼人は?」
「それも秘密ぅ」
「…………狙ってる奴らがいる?」
「超秘密ぅ♪」
――――よし、断ろう。てかふざけんなよこの
即決だった。スリーアウトチェンジだった。
ここまで情報を渡さないのはいくら何でも怪しすぎる。
志村の観察眼や仕事を割り振る手腕は一流だし、少なくとも不可能な依頼ではないだろうが――――確実に厄ネタだ。
そんなものを背負う気は欠片もないので、断りの言葉を口に出そうとして、
「ちなみに前金でこれだけ。後払いでさらに3倍出すからぁ……お、ひょっとすると借金これでパーになるじゃないのぉ!」
口から出たのは、言おうとしていた言葉の逆だった。
◆
そうして愚かにも金の魔力に負けてしまった数日後。
部屋の前に朝早くから志村と預かり“者”がやってきた。
「はーい! 今日から一週間預かってもらう“鳴上アゲハ”ちゃんでぇーすぅ!!」
志村が肩に手を回しながら紹介したのは、長い黒髪を三つ編みにし、眼鏡をかけた10代後半の少女だった。
白いセーターに黒系のロングスカートといった格好は、良く言えば素朴、悪く言えば地味。容姿と相まって大人しさを強調しているようにも見える。
――――だが、何より気になったのはその目だ。
黒縁メガネの向こう側、そこにはガラス玉としか思えない無機質な目があった。
「……その、よろしくお願いします」
目と同じように無機質な挨拶を受けて、俺は扉を閉めて、両手で顔を覆う。
―――やはり断るべきだったと、昨日の自分を殴りたい気持ちになった。
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