My number

じゅん

母親の顔

「あんた、いつになったら結婚するのよ?」

目の前で怒ったように怒鳴る母親の顔が揺れる。わたしは息を注意深く吐きながら静かな反抗の意を示していた。母はそんな自分の様子を知ってか知らずか、間髪入れずにわめき散らす。

「もう若くもないんだから。いい人探さないと。いつまでも選べる身分じゃないのよ?気が付いたら適齢期を過ぎているなんてよくある話なんだから。」

母の眼光はいつにもまして鋭い。わたしはまるで宿題を忘れた小学生のようにうつむいてただただ時が過ぎ去るのを待っていた。そうすれば、なにもかも穏便にかたづくと無意味に信じ込んで。

「あなた今何歳よ?」

「今年で、29歳になる。」

「はあ~。なんでそんな年齢にもなって結婚していないのよ?焦ったりしないの?」

「わかっているよ。」

わかっている。そんなの、十分すぎるくらい自分がわかっている。友人は結婚している人が多い。何人かで集まって飲み会をすると肩身のせまい思いをすることが何度かある。

 ナオって可愛いから、その気になればすぐ彼氏できると思うよ。合コンとか行けばいいのに。仕事も飽きてきて、そろそろ落ち着かせようと思って、結婚しちゃった。男なんてバカだから媚びていればいいのよ。子供も首が座ってきたわ。うちの夫は全然家事ができなくてさ。あれだよ、きっとナオって出来すぎるから男が寄ってこないのよ。

 あらゆる人間たちの言葉は、巧妙に手を変え品を変えながら同じ意味をひたすらわたしに問いかけてくる。結婚は一つのステータスだ。結婚をすることは、自分がまともであることの一つの証になる。

 結婚し、子供ができ、家庭を築き、世間が思う「幸せ」を獲得することが正しい道である。誰もがそう盲信し、おびただしい数の人たちがつまずき、迷いながらも同じ「幸せ」の道を通ることになる。その人波はわたしをおいてどこかに消えてしまいそうだ。わたしは一人立ち止まり、往来の真ん中にたたずんでいる。

「なんとか言ったらどうなの?」

怪訝そうに顔をしかめながら見つめてくる母を、わたしは一種の侮蔑と憐みの感情をもって見つめ返した。母が要求しているのはわたしの幸せそのものではない。母がわたしのことを幸せな存在だと思える「世間体」だ。彼女は「世間体」的に自分自身が幸せであればそれでいいのだ。

 彼女が見ているのは、わたしではない。わたしの身体の中に映し出された世間からの目だ。

 わたしはため息が出るのを止めることができなかった。なんという浅はかで遠慮のない欲求だろうか?しかしその鋭敏で貪欲な感性は社会の中で生き延びるためには当たり前のことなのだ。世間の中で自由であろうとする限り、人は永遠に自由になることはできない。

「いいひと、探すよ。」

ふてくされたようにそうつぶやくと、母はいかにも満足そうにうなずいてにっこりと微笑んだ。

「じゃ、お見合いでもしようかしら。」

「いや、お見合いだけはちょっと…。」

母の人選だと、ろくな人を連れてきそうにもない。

「なに、不満なの!?」

「いや不満とかじゃなくて、あんまりお母さんの手をわずらわせたくないなあと思って…。」

「いいのよ、こういうときは迷惑かけても。わたしだって心配なんだから。」

「とにかく、自分の力で結婚相手を見つけたいんだ。やっぱりこういう大事なことは自分で決めたい。」

「あんたそんな偉そうなこと言って、言い逃れしているだけでしょ?」

その通りである。わたしはこの会話をなんとか強制終了することしか考えていなかった。ああ…。パソコンの電源ボタンみたいに一押しすればこのシーンがシャットダウンされればどんなにいいことか…。

 たとえ母を敵に回したしても、世間全体を敵に回したとしても、わたしは結婚するつもりなどあまりなかった。一つ屋根の下で異なる遺伝子をもった他人と一緒に暮らすことなど、わたしには恐怖以外の何物でもなかった。わたしは自分の領域に異物が混入するのを嫌う。自分の体に生えたカビはきれいに切り取って捨ててしましたいと思っても不自然ではないだろう?

 しかしそれと同時に、疲れた体を引きずって帰省した娘をしかりつける母親の圧力に対抗する気力もなかった。このままだと、わたしは思考を持たない屍となってどこの馬の骨かわからない男と結婚させられても不思議ではない。その最悪のシナリオだけはどうしても防がなければならなかった。

「言い逃れなんてしてないよ。自分なりに考えていることがあるんだ。半年以内。半年以内に彼氏見つけて、紹介するから。それまでは放っておいてくれる?」

口から出まかせがでるのを止めることはできなかった。打って変わったわたしの真剣な表情とまなざしに、母は少し気圧されたようだった。それでも負け惜しみのようにわたしにつぶやいた。

「約束だからね。もし半年以内に彼氏が見つからなかったら、縁談を組むからね。」

その言葉を聞き流したふりをして、わたしは東京のお土産の話をはじめた。




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