2. 野良



シャムロックをじっと眺める者がいた。


黒い猫。

右眼の上に目立つ傷跡が斜めに走っている。

黒毛の身体は汚れゆくまま。

身体は厳しい世界を生きていくのに

必要なスリムさを備えていた。


そういった風体は、いかにも「野良猫」だった。


全身が黒いと思いきや、胸元にワンポイントで

白い毛が、何かの模様のように残っていた。


黒猫は、シシリーの正面にある小さなビルの脇

暗い横路から顔をのぞかせていた。


鋭利で透き通った瞳。

そこには、通り過ぎる車を超えた店先で丸くなっている

一匹の灰色猫の姿が映っていた。


丸い瞳が細く水平になり、黒猫は深い溜め息を漏らした。


「なんて優美なんだ」


彼は恋するもの全てに訪れる、深い心のうずきを感じていた。


猫に生を受けて5年と数十日。

名前は無い。

たくさんの女性と、それなりの経験をこなしてきた。

もちろん、惚れるより惚れさせて、のこと。

自分から相手を誘うなんて、馬鹿げていると思っていた。


けれど、この出会いは違った。


あれは彼がこの街で、2番目に広い縄張りを持つミケを

この手で打ち負かした日のことだった。


その大猫は手ごわかったが、黒猫の方が上手だった。

ただし無傷という訳にはいかず

それ相応のダメージを負ってしまった。


よろよろと歩く彼を見る、世間の風は冷たい。

汚いものを見る人間たちの目、目、目。


彼は人間たちの群れが二手に分かれる中を

傷ついた身体で、堂々と歩いた。


不意に眼に血が流れ込み、ふらついた。

そこにあの大きな人の乗る

自転車と言うやつが、突っ込んできた。

何とか避けたけれど、身体は勢いあまり

どこかの店に置いてあったレンガのブロックに

突っ込んでしまった。


黒猫は横たわったまま、弱いうめき声をあげた。

さすがの彼も、その時は息が詰まって動けなかった。

カラスの奴でも来たら、具合が悪いことになったはずだ。


「あら、黒猫」


上の方から人の声がした。

人間の女。それだけは分かった。


そいつはいったんどこかに消えると

やがて手に清潔な白い布を持って戻ってきた。


布を広げて床に敷くと、女性は黒猫をゆっくりと

両手で持ち上げて、布の上にそっと置いた。

それだけして、女は去っていった。


手当はされなかった。

皆はこの女を「冷たい」と思うだろうか?

いや、この人間は自分たち猫族をわかってるヤツだ。


猫は、過剰な世話やサービスを嫌がるんだ。

施しは少しだけ。

あとは自由な選択肢があれば、それでいい。


いつもなら、触られることを嫌がるのだけれど

女の手を感じても、彼のぶきは飛び出てこなかった。


寝ている所が陰になっていたので

彼は少しだけそこに世話になることにして、目を閉じた。


何分ぐらい経っただろうか。


「平気?」


耳元で、鈴のような声が聞こえた。

彼は驚いて、ぱっと身を起こした。

今まで見た中で最も美しく、透んだ緑の瞳がふたつ。

こちらを心配そうに見つめていた。


同族の女の子だった。

それもすぐ脇に立っている。

俺は気を失っていたのだろうか?

近づく気配を全然、感じなかった。


「少しは元気になった?」


彼女の首元で、小さなベルがチリンと鳴った。


黒猫は答えるのを忘れていた。

まじまじと目を見開く。


何という綺麗な灰色だろう。

単色ソリッドの体毛が、くまなく全身を覆っている。

そして美しい毛艶。

彼の身体にあるような、乱れた様子が一切なかった。


「まあ、いいけれど」


黒猫の答えがないので、彼女は少し不機嫌になったようだ。

湿った鼻を、ツンと鼻を持ち上げた。


「ここ、私のお店なの。あなたがいると花たちが困るわ。

人間たちが怯えて来ないもの」


黒猫は初めて周囲に目をむけた。

確かに色鮮やかな花たちの、喋り声が聞こえた。

なかには自分について、詮索する話題もあるようだ。


「動けるようなら出ていってね…その方があなたの為」


緑色の瞳を輝かせながら、意味深な面持ちで言う。


「じゃあね」


彼女は最後にそれだけ言うと優美にジャンプし

棚の上に音もなく着地した。

並んでいた花筒の間をすり抜けて、帰って行こうとする。


黒猫は痛む傷を我慢して、何とか声を出して訊いた。


「君の名前は?」


返事のないまま、彼女の姿は見えなくなった。


行ってしまった。

黒猫は喪失のため息をついた。


しかし、その呼吸が終わった刹那

花同士のぺちゃくちゃ話の隙間から

彼女の声が聞こえた。


「シャムロック」

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