第十六話 魔物

第十六話(一)「ゴブリンと呼ぶことにする」


  明くる朝の学校。

  ぼくはいつもより早くに登校して、二年の教室が並ぶフロアにそわそわしながら立っていた。

  一組の教室内に彼女がいないことを確認してから、こそこそと出入りを見張っているが……たぶん、ぼくの今の姿は、はた目に非常に怪しい。

 ねぇ。君、一年でしょ?  二年の教室に何の用?」

  死角から不意に声をかけられて、ぼくはびくっと身体を震わせながら女子生徒の方に向き直った。

 あ、あの、ぼくは──」

 あ!  君……こないだ映美と一緒に登校してきたあの子でしょ?  映美と可愛い女の子と腕を組んでたっていう……」

  うげ。

  あの時のことが、そんな噂になっているとは。だから嫌だったんだ。

 う、腕は組んでません!  二人から袖をつかまれていただけで、ぼくの意志では──」

 映美に会いに来たの?  てか映美の方とつき合ってるの?」

  ……いや人の話を聞けよ。しかも何でそう食い気味なのだ。類友か。

 いやその、会いには来ましたが、ただ、誤解を解きたいだけで、おつき合いがある、ということはないです……」

 ……あっそう。映美が男子に興味を持つなんて初めて見たから、ちょっと期待したんだけど──えっとね、あの子は朝から生徒会の仕事をしてるから、いつも教室に来るのは始業時間ギリギリになるの」

  教室で朝倉先輩を捕まえても、始業時刻まで話をする時間はないということか。

 分かりました、探してみます!  ありがとう!」

 がんばってー、応援してるよー」

  背中に謎の声援を受けながら、ぼくは一路、生徒会室へと急いだ。

  

 失礼します!」

  ノックもそこそこに、ぼくは生徒会室の引き戸を開け放った。

  長机の奥で、赤鉛筆を片手にファイルとノートの束に埋もれるようにしている新城会長が、顔を上げてこちらをキリッと見据えてきた。

 白河君、おはようございます。朝倉君に会いに来てくれたのですか」

 ぼくはうなずいたが、朝倉先輩の姿は室内にはなかった。

 申し訳ない。彼女は部活動の部費の支出が適正か確認をするため、各部室を巡っているところです」

 ど、どの部活ですか」

  会長は手を額に当てて、考えるそぶりを見せる。

 確か、今朝は吹奏楽部と合唱部の備品をチェックをする予定だと……両方とも音楽室が部室で──」

 ありがとうございます!」

  頭を九〇度に下げて、コンマ三秒で生徒会室を飛び出した。

  ここのひとつ上の階に、音楽室はある。

  ぼくは階段をひとつ飛ばしで駆け上がり、廊下をひた走った。

  音楽室の前に差し掛かる──

  突然、引き戸が開いて中からずいと二つの人影が出てきた。

 ダメダメ。合唱部なのにシットアップベンチとダンベルなんか、部費で支出できるわけがないだろ」

 あーん、腹式呼吸のための腹筋トレーニングに必要なのよぉ!  お願いぃぃ!」

  朝倉先輩だった。そして彼女の片足に、タンクトップ姿のマッチョな男子の……合唱部員?  がすがりついている。

 単に貴様が筋肉つけたいだけだろ。大体、腹式呼吸というのはまず横隔膜を鍛えるべきで、腹直筋は鍛えすぎるとかえって──」

 朝倉先輩!」

  ぼくが声をかけると、先輩はビクッと、擬音が聞こえてきそうなほどあからさまに身をこわばらせた。

  緊張感のある、重い沈黙が辺りに漂う。

  朝倉先輩は無言で、手にしたファイルの背を、足にまとわりついたマッチョの目に打ちつけた。

 あう」

  マッチョが思わず目を押さえた次の瞬間。

  朝倉先輩はくるりと背を向けて、猛然と走り出した。

  ……逃げた。

  脱兎のごとく、逃げた。

  朝倉先輩が全力で逃亡を図るというあまりに予想外の行動に、ぼくの思考が一瞬だけマヒしたが、ぼくもすぐにあとを追って走り出した。

 先輩、待っ……!」

 ああん、待って副会長ぉぉぉ!」(どん)

  背後からの衝撃で、ぼくは悲鳴を上げながら宙に舞い、廊下の床と壁に向かって豪快なダイブをさせられた。後ろから駆け込んできたマッチョに跳ね飛ばされたのだ。

 ダンベルだけでもおぉ!  お願いぃぃぃ!」

  マッチョは内股で器用かつ驚異のスピードで走り去る。ぼくが全身の痛みに悶えている間に、二人の姿は見えなくなっていた。

  よろよろと立ち上がってあとを追ったが、朝倉先輩の姿を見つけられないうちに例の鉄道唱歌が流れてきたので、ぼくは捜索を断念し自分の教室へと足を向けた。

  しかし──先輩は、ぼくから逃げた。

  ぼくと話をするつもりもないのだ。

  これ以上彼女を追い回して、捕まえて。

  無理やりに話をしようとすることが、本当に彼女のためになるのだろうか……。

  ぼくは教室棟への渡り廊下を、暗い気持ちでたどっていった。

  

  一年一組の教室は、あちこちでざわめきが起こっていた。

  数人の友人グループで額を寄せ合って、各々がスマートフォンの画面を覗き込んでいる。

 おはよう白河。どこ行ってたんだ」

 ああ、おはよう下関。この騒ぎは、一体何なんだ」

  席についたぼくに、下関がいつものようにあいさつをしに寄ってくる。ぼくが訊ねると、下関は他のよりやや大人数のグループを指して言った。

  あの顔ぶれは──

 文化祭の撮影班か、あれは。そういえば何を撮るか決まったのかな」

 そのことなんだよ。最近発陳はっちんで撮影されたっていう動画をネットで見つけてきて、それを題材にドキュメンタリーを撮ろうとか言い出してるんだ」

 ネットの動画って──」

  ぼくが言うより早く、下関はスマートフォンをこちらに傾けてみせた。

  映っているのは、夜の市街地のようだ。防犯カメラか何かの映像らしく、画質がかなり粗くて、電灯などの灯りがギラギラとしていた。

  下関が動画再生のボタンを押す。絵面が動き出し、車道を行く自動車がまばらに画面を横切る。歩行者はまったく見えなかった。

  再生してしばらくののち、電灯の下に、さっと人のような影が映り込んだ。

  まばたきをするような間のことだったので上手く認識できなかったが、ご丁寧にその場面のスロー再生が始まったので、今度はじっくりと注視する。

  灯りに浮かんだ影は、小学校低学年の子どもぐらいの大きさだった。

  人の形をしてはいたが、頭のサイズや腕の長さなどがひどくいびつな体型をしていて、おおよそ人間のものとは思えない。

  以前のぼくなら、よくできたトリック映像だと一笑に付しただろう。

  しかし、感じたのだ。

  おそらく他の者には感じないであろう、この動画に映るモノの、リアルさを。

 ……どう?」

  薄笑いを浮かべた下関が、スマートフォンをしまいながら訊いてくる。

  ぼくは苦笑してみせた。

 安いトリックだね。で、撮影班はこれをどうするつもりなの?」

 まぁ、この怪物の正体を突き止めようってことらしいよ。早速今晩から探しにいくって」

  ぼくは背筋がぞっとした。

  虚構だと信じたい──だがもし本物だったなら、いつか被害者が出る。

  そして、その被害を受けるのは、今晩それを探ろうとするぼくのクラスメイトかもしれないのだ。

  可及的速やかに、方をつけねばならない。

  ぼくには、その責任がある。

  

  発陳市は、ぼくの住む呉武くれたけ市の隣にあり、政令指定都市でもある大きな街だ。

  その中心街は夜になってもきらびやかに輝く歓楽街であり、にぎやかさが絶えない。

  駅から伸びる目抜き通りに並ぶビル群の裏手のエリアは、表側の華やかさから一転、暗く、薄汚い雰囲気に包まれている。

  そのビルとビルの隙間、誰も通らないような小道から、大通りの喧騒を望む小さな影があった。

  影は、頭と四肢があり、二本の足で立っているという点では人の形と言っていいが、それ以外はあまりにもかけ離れていた。

  巨大な頭部に見合う、ぎょろりとした大きな目は赤く光っていた。しわくちゃの醜悪な顔は常に怒りに満ちているように険しい。

  黒ずんだ小さい身体に見合わぬ長い腕は、直立しても地面に届くほどだった。その先の四本の指にはすべてに鋭く尖った爪が生えている。

  もし架空のファンタジー世界でおなじみのゴブリンが実在したなら、きっとこんな感じだろう。だからこの魔物は、ゴブリンと呼ぶことにする。

  ゴブリンはどこから出しているのか、犬が悲しげに鳴く声のようなキューキューという音をかすかに立てながら、ひそんていたポリバケツの陰から身を乗り出して、光輝く大通りのある方へと歩み出そうとしていた。

 おい、そこのゴブリン」

  声に、それが反応して半身をねじり、こちらをじろりとにらんだ。

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