第十三話(三)「がぶり。」


  ジュリエットが、猛然とマルに飛びかかる……ギリギリで、横からのぼくの体当たりが間に合った。

  ジュリエットは数メートル跳ね飛ばされたが、足から着地して、同時にギロリとぼくをねめつける。

  彼女の耳からの黒々としたオーラ──魔素は、今やはっきりと取り巻いているのが見て取れた。

 ジュリ、おまえまた……一体どうしちまったんだよ……!」

 みんな逃げろ!  ぼくが大人しくさせる」

  下関が悲痛な声を上げる。ぼくは、ジュリエットから目を離さないように低く身構えながら言った。

  くそっ。犬も 魔素中毒」にかかるなんて、聞いたことがない。

  だからジュリエットが急に機嫌を悪くするという話を聞いても、魔素が悪さをしている可能性を考えつかなかった。自分のうかつさが悔やまれる。

  人間よりも厄介な相手だが、ぼくには責任がある。

  魔素を取り除けるのは世界広しといえど、このぼくしかいないのだ。

  ジュリエットは再び低い姿勢を取り、警戒するように、こちらを睨んでいる。

  新城会長の時はいたし方なかったが、今度の相手は下関の愛犬だ。殴る蹴るの暴行はできるだけ避けて取り押さえたい。

  どうすれば捕まえられる──?

  ぼくの迷いを見透かしたかのように、ジュリエットは矢のように迫った。

  さすが犬だ。人間よりはるかに突進が速い。

  ぼくは大きく開いた犬のあぎとを引きつけてかわし、交差する瞬間を狙って首輪を捕らえようと手を伸ばした。

  惜しい。

  ジュリエットに一瞬早く駆け抜けられ、ぼくの手が空をつかむ。

  試してみて分かったが、これは至難の業だ。下手に早く手を出せば、その手に食らいつかれるリスクが出てくるし……。

  いや、待てよ。その手があったか。

  ぼくは着ていたジャケットを脱いで、左腕にぐるぐると巻きつけた。

  逆転の発想だ。咬まれるおそれがあるなら、咬ませてしまえばいい。

  ただ、天気がよかったせいで厚手の上着でなかったことは、作戦上大いに問題がある。果たしてこれで彼女の牙が止まるかどうか……。

  ジュリエットは反転して、再度飛びかかってきた。

  その牙はまっすぐに、ぼくの喉笛を狙っている。殺る気百パーセントの攻撃だ。

  ぼくは恐怖を必死に抑えつけて、開いた口の前に左腕を差し出した。

  がぶり。

  痛っってぇ──────!

  声には出さなかったが、ぼくは激痛にむせび泣きそうになった。

  やはりこんな薄布じゃ大型犬の牙は止められない。易々と貫いて、ぼくの腕にしっかりと食い込んでいく。布の抵抗で咬みちぎられないだけ、マシだと思うべきか……。

  とにかく、この機を逃さないようにせねば。

  ぼくは背中からごろりと転がると、両脚をジュリエットの胴体にがっちりと組みつかせた。俗に だいしゅきホールド」と呼称される格好だが、詳しいことはぼくの口からはとても言えない。

  耳の裏に指先を滑り込ませ、魔素を魔力へと変える。

  ジュリエットのあごの力がおもむろに弱まり、やがて完全に腕から口を外すと、キューンと鼻を鳴らして頬ずりをし始めた。

 よし、よーし。怒ってない、もう怒ってないな。大丈夫、大丈夫……」

  ぼくはジュリエットをなだめすかすそぶりを見せつつ、痛む左腕を彼女の身体の陰に隠した。

  さて、下関が言っていたことを思い出せ。えーと。

  狂犬病ウイルス。破傷風菌。バスツレラ菌。カプノサイトファーガ・カニモルサス菌。バルトネラ・ヘンセラエ菌。

  これらが体内にあれば排除した上で治癒……ぼくはこっそり左腕に術式を与えると、ジュリエットを持ち上げながら身を起こした。

 ジュリ……だ、大丈夫か?  もう暴れたりしないか?」

  下関が駆け寄って、こわごわと訊ねる。ぼくは下関にジュリエットの耳をめくってみせた。

 下関、もしかしたらこれが原因なんじゃないか?  痛くてイライラしてたのかもしれない」

  ぼくが魔素を魔力に変えて抜き取ったあとには、少し深めの傷が入り、血が垂れてきていた。それを見た下関は仰天して、ぼくから奪い取るようにジュリエットを抱きかかえた。

 こんなケガをしてたなんて、知らなかった!  すぐ病院に連れていくよ。ありがとう、白河」

 ああ、お大事に」

  走り去っていく下関の背中を見送って、ぼくはようやく、ほーっと息をついた。

  しかし。

 ハヤ君、腕を見せるのだ!」

  いきなりハム子に飛びつかれて、左腕に巻きつけたジャケットを強引に引っ張られた。

 うわっ……な、何すんだハム子」

 いいから咬まれたところを見せて!  私、絆創膏持ってるから!」

  犬に咬まれたケガが絆創膏で済むと思っているのか、このバカっ娘は。

 あーもう!  大丈夫、咬まれてないから!  ほら!」

  ぼくは自分から巻いたジャケットをほどいて、左腕を露わにした。

  どこにも傷のないぼくの腕を見て、ハム子が目をぱちくりとさせながら、その部分を何度も手のひらでさする。

 上手いこと歯が通らなくて済んだんだ。心配いらないよ」

 それなら、よかったのだ。……ハヤ君、あんまり危ないこと、しないでほしいのだ」

 ……ああ。善処するよ」

  ぼくはジャケットを羽織り直して、モグタンを抱えて遠巻きに見ていたマルの元に向かう。そのぼくの背中を、怪訝そうにハム子が見つめていた。

  

  その彼女が見つめていたものは、ジャケットの背中の方についた犬の咬み跡のほころびと、その周りの赤いシミだったのだが、そのことにぼくが気づいたのは、家に帰ってそれを再び脱いだ時だった。

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