第五話(三)「もう一度……君に……」

  ぼくはハム子を床に引き倒しながら、体勢を低くした。

  間違いない。

  ハム子の症状は、一酸化炭素中毒のだ。

  下関が来るまでなんて待っていられない。早くハム子に新鮮な空気を吸わせなければ、命に関わる。

  出口に近い方が、比較的空気が澄んでいるはずだ……ぼくはハム子の身体を引きずって、引き戸の前まで避難してきた。

  もう一度戸を引っ張るが、やはり金具の引っかかる手応えがあって動かない。

  二度ほど、勢いよく肩からぶつかってみるが、扉も掛け金も、ただ金属のこすれる音がするだけで、びくともしない。

  背後を振り見れば、火の勢いはさらに増して、体育用具のいくつかに次々と引火している。

  ぼくも少し、めまいを感じ始めた。動けなくなる前に何とかしなければ、最悪、二人とも死ぬ。

  これはもう──精霊術か、魔術を使う他に手段がなさそうだ。

  とはいえこちらの世界では、それらで出来ることが、あまりにもショボい。鉄製の扉や、プレハブの内外壁を柔らかく変質させるには、土の精霊力が足りなさすぎる。

  しかし……魔術なら。

  魔術なら、少しの魔力でも、サイコキネシスのように物理的作用を起こすことができる。

  それでも、ここの空気中にある魔素の量は少な過ぎる。

  扉の向こう側にある掛け金を外す程度の、わずかな仕事に使うちっぽけな魔力ですら、満足できるように思えない。

  だが──ぼくはこの世界で魔力を得る方法がないか、以前から考えていた。そして思いついていたアイデアが、たった一つだけある。

  結果を想像するにとても恐ろしい最後の手段だったが、躊躇している暇はない。ぼくはそこにある魔素に働きかけ、魔力の吸収を始めた。

  ……魔素というやつは、物体に 染み込む」性質がある。十分に魔素を含んだ大気中に長くさらされたものには、魔素がその組織内に入り込んで定着するのだ。

  なので、おそらくは数日前までダーン・ダイマにいた 人間の身体」にも、それなりに魔素が定着しているはずだ。

  ただ、その魔素から無理やりに魔力を引き出そうとすれば……魔力は、入り込んだ組織を外に出てくるという。

  それはつまり……。

 ぐっ……ぎ……あぁぁっ……!」

  のどから絞り出されるように、苦悶に満ちたうめき声が漏れる。

  ぼくの、全身の皮膚が細かく裂けていき……身体のありとあらゆる場所を、一度に一斉に、カッターナイフの切っ先でなぞられるような激痛が襲ったのだ。

  見る間に鮮血がにじみ、赤い雫が幾筋も垂れ、コンクリートの床に血だまりを作っていく。

  これは、想像以上に……いや想像を絶する苦痛だ。

  一酸化炭素で中毒死する前に、痛みと出血に耐えられずに死んでしまうかもしれない。

  ぼくは、床の上でぐったりとしているハム子を、一時だけ横目で見た。

  ぼくには責任がある。

  たとえ死んでも、この子だけは、助けなければいけない──息を荒げながら、失神寸前まで粘って、練り上げた魔力を指先に集中させた。

  これほど死ぬ覚悟で集めた魔力でも、掛け金が外せるだけの仕事は生み出せないかもしれない。ダメだったなら、もうおしまいだ。

  ぼくは意を決して、扉の向こう側にある掛け金の姿をイメージし、そこに向けて術式を描いた。

  すべての魔力を込めて、掛け金に、物理的な力をぶつけていく。

  ギッ、ギッと、サビの浮いた金属同士がこすれて軋む小さな音がして、おもむろに掛け具が持ち上がっていった。

  もう少し、あと少し。

  しかし突然、金具の引っかかりに強い抵抗を感じた。たぶん留め金の角に当たっているのだ。

  ここが正念場だ。負けてたまるか。

 んっ……うふっ、んがあぁぁ──っ!」

  あまり格好のよくない気合いの咆哮と共に、さらに魔力を絞り出す。全身から赤い飛沫が散った。

  渾身のひと押しを加える。

  ガシャーン!

  勢いよく回った掛け金が派手な音を立て、引き戸の縛めがほどけた。

  ふっと気が緩みそうになるのを、ぐっとこらえる──まだだ、まだ……やることが残っているんだ。

  ぼくは戸を引き開けると、ハム子を背中に担ぎ上げた。

  外に出て、一歩、また一歩と進む。

  燃え盛る体育倉庫の煙や火の粉を浴びない、安全な場所まで……。

  そして、倉庫から十メートル近く離れた所で、ぼくはついに、がくりとひざを落としてハム子ごと地面に転がった。

 うぅ……っ」

  背中を打ったハム子が、わずかに身動いでうめき声を上げた。

  彼女はまだ生きている。

  これでひと安心だが……ぼくの方は、血を多く流しすぎた。

  全身の痛みもひどく、意識がどんどん朦朧として、靄がかかっていくように閉ざされていく。

  血の臭いで呼吸がし辛い。

  ぼくは、このまま、死んでしまうのか。

  死ぬのは、正直嫌だな。

  でも、ぼくはハム子を助ける責任を果たせた。その代償というのなら、まあ仕方ないと諦めもつく。

  ただ、心残りが、一つ。

  ぼくが引き起こしてしまった魔界の戦争を放ったらかしにしてしまうことが、辛くて、心苦しい。

  グーク。君は魔界のため、絶対に魔王にならなきゃいけないんだ。あきらめないでくれ。

  ヘザ、マーカム。あとのことを、すべて君たちに任せる形になってすまない。最後までやり遂げてほしい……叶うものなら、ちゃんと別れの言葉と礼を言いたかったな……ヘザ……もう一度……君に……。

  徐々に、力なく閉じられようとしていたぼくの目の端に、キラキラとした何かが映った。

  ぼくの左手首だ。

  そこにある腕時計が、きれいに磨き上げられた銀が光に映えるような輝きを、小さく放っている。

  これは、魔力を帯びた術式の輝きだ。

  ぼくの腕時計は、光精霊力で動くように、術式が刻み込まれたままになっている。しかしその光は、術式に直接魔力を与えられたものと比べれば、ずっと淡い。

  一体何が起きているのかを、ぼくは驚くほど冷静に考えていた。そう……おそらくは、ぼくの身の周りにとても強力な魔力が働いていて、その魔力の余波を受けた腕時計の術式が反応している、と思われる……。

  こんな膨大な魔力は、この世界にはない。

  それはつまり、異世界から強い魔力を送り込んでこの世界に干渉しているということであり、そんな魔術は、ぼくの知る限り、たった一つしかない。

  

  召喚魔術。

  

  考えが結論に達した瞬間、ぼくの目の前の世界は一変した。

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