①空の果てにて

 根深い疲労感に、沈んでいたはずだった。

 長い長い戦いの時間が終わり、誰もが疲れきっていた。


 だって神々の試練は、最初の一つが、ようやく終わったところなのだから。


『選ばれしもの』として、人類救済の使徒になっても、身体はただの人間だ。

 あと十一も残っている試練を思えば、この夜だけでも、すべてを忘れて眠らなければ。


 船室の丸窓から、空が見える。

 下に、濃紺の地に砂粒のような星屑たち。

 上に、明けの水色をした澄み切った空。

 その間にのびる、チョークで引いたような白い線。

雲海うんかい】だ。

海層かいそう】と【海層】のあいだをへだてる境界に、今、ボクらはいるのである。


 この世界は丸くない。

 むかしむかし、神々の大きな戦で、二十もの【海層】に別たれた。

 そんなこの世界を、近代の学者たちは【多重海層世界たじゅうかいそうせかい】と名付けた。

 この世界では、今、人類を滅ぼすかどうかを決める【最後の審判】が行われている。

 二十二人の【選ばれしもの】が、神々が与える12の試練を乗り越え、天上にある【神の庭】を目指すのだ。


 最下層で行われた第一の試練を終え、一行は、下から三番目、第18海層にある【魔法使いの国】を目指していた。


 船内は、灯りが落とされて沈黙し、駆動音だけが響いている。

 起きているのは、ボクと……操縦席にいる一人だけだろう。


 若き航海士に操られ、飛鯨船は――――海層の境を越えられる唯一の乗り物は――――雲海をさらに抜け、真空の世界へと、足を踏み入れていた。



 ジリリリリリリリリリリン!!!!!


 ジリリリリリリリリリリリリリリリリン!!!


 けたたましい音が響く。

 いつしか目を閉じていたも、いつも通りの俊敏さで、まどろみから飛び起きた。

 耳の奥には、まだベルの音が残響として残っている。

 ボクは、目蓋越しにもわかる、周囲の明るさに驚いた。

 手で額にヒサシを作り、慣らすように瞼を開く。


 真っ白な――――上も下も、影も無い―――――ただの真っ白な空間が、ボクらを取り囲み、無音を保っていた。


 そう、ボク『ら』だ。


 右手に、ぼうっと青い炎が、ちょうど心臓の位置に浮かんでいる。

 羽織っているのは、少し煤けた着古しの若者向けのロングコート。

 ボクは、そのコートには内ポケットが充実していて、いろんな小物が収納できることを知っている。ボクの相棒の魔法使いが、『彼』に貸したコートだ。

『彼』は、裾から出ている裸足の足でウロウロと動き回り、ボクに向かって何かを訴えかけるように手を振っていた。


「落ち着きなよ、皇子サマ」

(でも、だって)というように、こぶしが握ったり開いたりする。


『彼』の名前は、アルヴィン・アトラス。

 歴史ある小国の皇子さまで、ごらんの通り、身体からだを失って、魂が剥き出しの状態で『生きている』。

 一度死んで、文字通り冥界から這い上がってきた【選ばれしもの】の一人。

 ボクが【愚者】の暗示を持つものなら、アルヴィンは【星】の暗示を持つものだ。


 ―――——って、なんでボク、誰かに語り掛けるように『考え』てるんだ?



「それは貴様らのことを【ユーザー】が理解するためだ」

 声が言った。


 革靴の足音が近づいてくる。

 白い天幕(としか言いようがない)をめくり、黒衣の男があらわれた。


「――――【ユーザー】は、貴様らのことをまるで知らない。

 ゆえに、ジジ。貴様には、この【夢】の語り部の一人となってもらう。アルヴィン・アトラス。貴様には同情票が集まっている。今回はクリスマス休暇だ。一夜の奇跡を受け取るがいい。なに、キリスト教徒でないということは問題視されない場所だ。無礼講で楽しんできたまえ」


 カツリ。

 かかとを揃えて立ち止まると、男はボクらを睥睨へいげいする。

 闇のように黒いジャケット。黒いネクタイ。黒いマフラー。黒いスラックス。黒い皮手袋。シャツまで濃いグレーだ。


「【ユーザー】は、貴様の言葉によって紡がれた物語を閲覧することとなる。

 これより貴様らのことは、第四の壁の向こうで、あまたの【ユーザー】の目が見守ることになるだろう」


 褐色の肌、黒い瞳、丁寧に撫でつけられた髪。彫りの深い顔立ちは、鼻も顎もつんと尖り、眼球の白さがよく目立った。


「【ユーザー】とは何か? そう聞きたげだな。魔人ジジ。その質問は不要だ。【ユーザー】は【ユーザー】でしかなく、第四の壁の向こう側にいるもの。貴様らの世界は【ユーザー】によって守られている。

 今回は、このような問答は必要ない。解くべき謎はあっても、大いなる思惑は存在しても、このイベントは気まぐれから生まれたイベントであって、大いなる存在による罠などではないからだ。

 すべての答えはただ一つ……。だ」


 気障ったらしい仕草で、男は形のいい眉尻を上げた。


「回答は以上とする。

 貴様らの役目は、笑うこと。存分に楽しめ。そして笑え。

 シリアスをコミカルに。今だけは運命なんてものは捨て置けばいい。

【あちら】はクリスマス。聖なる奇跡の夜。忘却を享受し、【】を愛せよ」


 はじめて、男が表情を変えた。

 ニンマリと。整いすぎた白い歯列が、三日月のように剥き出しになる。



「―――――存分にとやらを楽しむがいい」



 そして。


 ―――—そして、ボクらは。

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