第16話 おとぎの国
カーテンのすき間から漏れ入る光で、わたしは目を覚ました。
睡眠導入剤を飲んで眠りについた日の翌朝のように、からだがまったく動かなかった。あたりを見回そうにも、首を上げることすらできない。どうやら相当疲れているようだ。わたしは無理にからだを動かそうとするのをやめて、重いまぶたを再び閉じた。
少し遅れて、ひとつの疑問が頭に浮かんだ。
ここはどこなのだろう? 人の家にしては生活感に欠けているし、ホテルにしては少し味気ない感じがした。わたしは再び目を開き、眼球だけを動かして、周囲の様子を確認した。
病室だった。点滴台からはチューブが垂れ下がり、左耳のあたりに続いていた。その反対側では、心電図のようなモニターが聞き慣れない電子音を発しながら、三つの波形を描いている。どうやらわたしは、病院のベッドで横になっているようだった。
再び目を閉じて、断片的な記憶の時系列を正す。
わたしは、Sとともに青木ヶ原樹海のホテルに泊まっていた。そこで彼から色んな話を聞いた。幼い頃、この世界から抜け出すために家の庭に深い穴を掘り続けていたという話。顕微鏡で見た脳の神経細胞と、宇宙物理学者たちがコンピュータ・シミュレーションで作り出した宇宙の構造がほとんど同じだったという話。中でも特に印象に残っているのは、彼が四歳の頃に見たという、不思議な夢の話だった。
彼から夢の話を聞いた後、眠りの中で、わたしの夢と彼の夢が繋がった。深い樹海から両手を広げて飛び立ち、わたしは彼のいる砂漠の無人駅へと飛んでいった。そこで、幼い頃のSと対面した。
眠りから覚めると、樹海のホテルにいたはずのわたしは、都会の見知らぬマンションの一室にいた。わけのわからないまま、ガラステーブルの上に置かれていたスマートフォンとキーケースを勝手に持ち出し、部屋を出た。電車の走行音の鳴る方向に何となく歩いていき、たまたま見つけた喫茶店へと入った。カウンター席に座って注文を待っているとき、わたしは何者かに話しかけられた。その瞬間、意識を失ったのだった。そしていまわたしは、病院のベッドに横たわっている。
しばらく待ってみたが、どんなに時間が経過しても、体の感覚が戻ることはなかった。手足を動かすことはおろか、からだを起こすこともできない。
わたしは、数年前に自殺未遂したときのことを思い出した。あまり覚えていないが、あのときも確か、こんな感じだったような気がする。全身が重く、痺れるような感覚。数日間は指先を動かすこともままならなかった。眼球の毛細血管が内出血を起こし、糸くずのような影が視界にあちこちにあった。飛蚊症と呼ばれるその症状が軽くなるのに、一年以上もかかった。
だがいまは、その当時と比べて異なる点がいくつもある。あのときは全身に鋭い痛みが走り、呼吸するのも精一杯だった。それに対して今回は、体のどこにも痛みを感じない。呼吸だって苦しくない。飛蚊症の症状はまだわずかに残ってはいるが、意識を失う前と変化はない。ひどい頭痛があることを除けば、何も不可解な点はないように思えた。
それなのに、微動だにすることができないのはなぜなのか。
わたしは誰かを呼ぼうと口を開け、何度も声を出そうとした。しかし、声帯が空気を震わすことはなく、空気が気管を通って肺に入る感覚もなかった。
自分の身に起こっていることを知るのが、わたしはだんだん恐ろしくなった。どうして体が動かないのか。どうして声も出せないのか。どうして病院のベッドに寝ているのか。
それからどのくらい経ったのだろうか。この病室に向かって、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。
病室の扉が開く音がすると、白衣を着た中年の男がわたしの視界の中に入ってきた。聴診器を首にかけ、Dr.の肩書きのついたネームプレートを胸ポケットにつけている。
「気がついたのですね」と医師の男は言った。
「ええ、先ほど目が覚めました。ところで、ここはどこなのですか? わたしの身に何が起きたのでしょうか?」そう言いたくても、声にならない声が空回りするだけだった。
懸命に口を開閉するわたしに構う様子もなく、「それでは検査をはじめますね」と医師の男は言った。「これから私はいくつか質問をします。質問の答えがイエスなら、まばたきを一回。ノーなら、まばたきを二回してください。……わかりましたか?」
医師はそのままわたしの目を見つめ続けた。しばらく経ってから、すでに男の質問が始まっていることに気がついた。わたしは慌てて、一度だけまばたきをした。
「なるほど。どうやら、脳機能と聴覚は正常のようですね」男は淡々と言った。「それでは最初の質問です。まず、あなたは自分が誰であるか認識していますか?」
わたしは一回、まばたきをした。
「質問を続けます。あなたはなぜ病院のベッドに寝ているか、その理由をご存知ですか?」
今度はまばたきを二回。
「では、あなたはいま、自分がどのようなお姿になっているか、ご存知ですか?」
少し考えて、わたしは二回まばたきをした。
「なるほど。では、あなたはいま、自分がどのようなお姿になっているのか、実際に確かめてみたいと思いますか?」
その質問が何を意味しているのか、理解できなかった。次第にわたしは自分の身に起きていることを察し始めた。先ほどから体の自由が効かない理由が、やはり何かあるということなのだろうか。手足を動かせず、首を傾けることもできず、言葉を発することのできない理由——。それを確かめるべきか、わたしはしばらく考えた。
沈黙が流れた。考えている間、医師の男は表情一つ変えずに、わたしのまぶたをじっと見つめていた。悩んだ末に、わたしは一回、まばたきをした。
その決意を審議するかのように、医師の男はしばらく視線をそらさなかった。やがて納得したのか、「ふむ」と喉を鳴らすと、白衣のポケットから薄汚れた手鏡を取り出し、わたしの目の前に差し出した。そこに映っているものを見て、わたしは自分の目を疑った。そこにあったのは、首から下がない、頭部だけになった自分の変わり果てた姿だった。
これは悪い夢なのだとわたしは思った。ここ最近、わたしの夢に何度か登場してきたローブの男のせいで、幻を見ているに違いない。
声を上げ、必死にからだを動かそうとした。悪夢から覚めたいときは、このようにすればだいたい目覚めることができるからだ。こんなの、いやだ。こんなの。誰か、助けて——。
しかし、夢から覚めることはなかった。医師の男は黙々とカルテに何かを書き留めている。その姿にわたしは狂気のようなものを感じた。よく見ると、男の目は、獲物を前にした獣のように生き生きとしていた。狂ってる。この男も、この世界も、このわたしも、すべてがすべて、狂っている。
男は、絶望に狂うわたしの表情を見て、満足そうに微笑んだ。そして鼻歌を歌いながら、弾むようにして病室を出ていった。
結局のところ、あの医師は何をしたかったのか、わたしには理解できなかった。でもこれだけは確かだろう。あの男こそ、このわたしをこのような姿にした犯人だ。自分の手術の腕を確かめたくて仕方なかったのだ。理由はわからないが、あいつはわたしを実験台にした。胴体から頭部を切り離し、頭部だけで脳の活動を維持できるようにしたのだ。
そのとき、モニターに映し出された波形が、激しく揺れた。波形の様相は、感情の起伏にしたがって変化しているようだった。これは脳波計なのだ、とわたしは察した。脳が正常に機能しているかどうか、あの医師はこれで監視しているのだ。
わたしはしばらく、自分が頭部だけの姿になってしまったことを受け入れられなかった。だが、目覚めたときから感じていた違和感のことを考えると、事実であると認めざるを得なかった。動かない手足。出せない声。冷静に考えてみると、声が出せないのは呼吸をしていないからだ。心臓の鼓動も感じられない。わたしは、頭部につながれた何本ものチューブによって、かろうじて生命を維持されている状態だった。
このままずっとこの姿で生き続けることを想像すると、いますぐ死んでしまいたい気持ちになった。いままで何度となく死にたくなることはあったが、ここまで絶望的な気分になったのははじめてだ。いまの状況を考えると、これまでのことなどたいした問題ではなかったのかもしれない。首だけの姿で何もすることもできず、何年も何年も生かされ続ける苦痛と退屈を想像したら、親と不仲であることや、他人に否定されることなんて、本当に些細なことのように思えた。
だが、こんな体になってしまった今、もうわたしにはどうすることもできない。このまま、それこそ不毛な人生を生き続けなければならないのだ。これが本当の生き地獄であり、本当の絶望なのだろう。そのことに気がついた今になって、これまでの不甲斐ない自分に対して、悔恨の念で胸がいっぱいになった。
もう、考えるのはやめよう。わたしが人間であることも、忘れてしまおう。心を無にすれば、楽になるはずだ。しかし、そうやって気をそらそうとすればするほど、気は滅入り、希死念慮は増す一方だった。それならば、まだ現実の自分と向き合った方がましだった。頭部だけの姿になって絶望に暮れている自分を認めた方がはるかに楽だった。
やがて、わたしの中に不思議な現象が起きた。自分の中に、もう一人の自分が存在するような感覚。もう一人の自分が、失意に落ちている自分を上の方から眺めている感覚。わたしは、何も考えずに、自分をただ客観的に眺めていた。単純なことだったが、案外、悪い気分ではなかった。それどころか、気持ちが少しだけ和らいだような気もした。
わたしはすべてを受け入れた。受け入れるしかなかった。否定したところで、自分の力ではいかようにもならない問題だった。これは変えることのできない現実。力の及ばないことを、あれこれ思い悩んでも仕方がない。
そのとき、突然、病室の扉が開いた。
先ほどの医師かもしれないと、わたしは警戒した。だが、視界に現れたのは、見たこともない女だった。女は、就職活動中の学生のように、皺一つない黒いリクルートスーツを身に付けていた。
彼女の顔に、思わずわたしは見とれた。きれいに整いすぎていたからだ。まるで神の創造物のように、完全なる左右対称の顔を持っていた。その人は透き通った瞳で、わたしを見つめている。
「あなたがここに来るのをお待ちしておりました」と左右対称の顔の女は言った。「どうしてこのようなことになったのか、あなたは疑問に思い、混乱していることでしょう。でも、落ち着いて、私のことを信じてください。ゆっくり説明している時間はないのです。私は、私たちにとって大切なことを伝えるために、あなたをこの場所にお招きしたのです」
濁りがなく、それでいて、よく響く透き通った声だった。その声に、わたしは聞き覚えがあった。
喫茶『ロジェ』で意識を失う前、わたしに声をかけてきた人物と同じ声だった。敵かもしれないと、わたしは思った。でも、その慈愛に満ちた雰囲気に悪意は感じられなかった。わたしは彼女の話に耳を傾けることにした。
「さて、本題に入る前に、まずはこの世界のことについてお話ししておかなくてはなりません」彼女はゆっくりと語り出した。「これからお伝えすることは、あなたにとっては信じがたい内容になるでしょう。でも、私のことを信じて、どうか話を最後まで聞いてほしいのです。もう一度言いますが、これは私にとっても、あなたにとっても、非常に大切な話なのです」
女の声は弦楽器のように空気を震わせ、わたしの耳に優しく届いた。
「この世界には無数の宇宙が存在します。それらの宇宙は泡のように、現れては消えていきます。創造と破壊を絶え間なく繰り返しているのです。あなた方が『ビッグバン』と呼んでいるものは、その泡のひとつが誕生する瞬間のことを指しているにすぎません。
ですが、『泡』と一言で言っても、この世界はそれほど単純な造りをしているわけではありません。人間の五感では感じることのできない高次元の空間の中に、それらの泡が何層にもなって存在しているのです。この世界は、単純な三次元空間的な広がりをもつだけでなく、高次元に凝縮された目に見えない密度を持っているのです。たとえば、一本の細い糸を顕微鏡で観察してみると、螺旋状にねじれた壮大な三次元空間が広がっているのと同じように、三次元空間の中には四次元、五次元の空間がぎゅっと凝縮されているのです。
さて、次々と生まれるそれらの泡の中に、一つだけ、自らの意志によって新たな泡を創り出すことに成功したものがありました。つまり、自らの宇宙の中に、別の宇宙を創り出したのです。無限の広がりを見せるこの世界が、実は何層にも折りたたまれ凝縮された高次元時空間だということに気がついたとある人物が、自分たちの暮らす宇宙の中に新たな時空間を創り出すことに成功したのです。
このようにして、その宇宙の中に次々と子供の宇宙が生成されました。それらの子宇宙は点A、点B……というふうに呼ばれ、おおもとの宇宙は《原点O》と呼ばれました。私はその《原点O》からやってきたのです」
女の話は、にわかに信じがたい内容だった。無数の宇宙が存在するだけでなく、宇宙の中に別の宇宙が存在するなんて、いままで考えたことがなかった。それでも、神々しい雰囲気を醸し出している女の言葉には、妙な説得力が感じられた。
左右対称の顔の女は、そのまま話を続ける。
「生成されたすべての宇宙は、原点Oをベースにして創られました。言うなれば原点Oのコピーのようなものです。でも、だからといって、電子データのように一操作で簡単にコピーできたわけではありません。宇宙創造の際の物理法則と初期条件を細かく調整することで、原点Oに限りなく近い宇宙を創造したのです。それは気が遠くなるほどに、手間と時間のかかる作業でした」
左右対称の顔の女は遠い目をして言った。まるで彼女自身にその経験があるかのように、語気には強い感情がこもっていた。
彼女が原点Oからやってきたのは一応理解はできた。ならば、いまわたしのいる宇宙はいったい何なのだろうか?
心を読んだかのように、女は話を続ける。
「最初にお伝えしたように、この世界には無数の宇宙が存在します。原点Oの中に生み出された子の宇宙も、同じく数えきれないほどたくさん存在します。そして実は、いま、私たちのいるこの宇宙は、原点Oから創造された一番最初の宇宙なのです。宇宙の秘密を解明した天才科学者が、自らの体を実験台にして創り出した彼の中の宇宙——。彼は、いまでも向こう側で静かに眠り続けています。いまのあなたよりもむごい姿……肉体を捨て、脳だけの姿になって、培養槽の中で永遠に生き続けているのです。何を見ることも、聴くことも、匂いを嗅ぐことも、食べることも、話すことも許されず、自身の中に創り出した宇宙の創造神として、彼は永遠の地獄の中でいまを生きているのです」
この宇宙の創造主は、何を感じ、何を考えているのだろう。いまもどこかでわたしたちを観察しているのだろうか。だとすると、こんな姿になったわたしのことをどう思っているのだろう? わたしは、この世界の神となった人物と自分自身の姿を重ね合わせていた。
「ところがある日、そうやって自らの中に宇宙を創り出し、創造神として永遠の地獄を生きている彼のことを助け出そうとする人物が現れました。その人は、彼と生涯の契りを交わしていた、かつての彼の妻でした。彼と別れ、離れ離れになった後も、彼女は夫のことを想い続けてたのです。
彼が肉体を失い、脳が培養槽に入れられていることを知った彼女は、自らもまた脳だけになり、同じ培養槽の中に入りました。
宇宙を超え、別の宇宙へ行くためには、肉体を捨てて精神だけの存在になる必要がありました。宇宙と宇宙の間を隔てる次元の壁を超えるためには、肉体を捨てなければならなかったのです。彼女は自身の脳を組織に実験台として提供し、自らの中に宇宙を創り出しました。そして、夫の創造した宇宙へのコンタクトを試みたのです。
気が遠くなるほどの長い年月をかけて、彼女はこの世に存在する様々な宇宙を訪れました。そして、ついに見つけ出したのです。かつての夫とは異なる人生を歩みながらも、同じ氏名を持ち、外見も性格も、夫と酷似している人物を……。
彼は、自分がこの宇宙を創造した神の分身であることも知らずに、ごく普通の人生を送っていました。平均的な知能を持ち、人間社会の歯車の一つとして、一般的な独身男性とそれほど変わらない暮らしをしていました。しかし、ある日突然、彼は自ら命を絶ちました。彼の根本にある闇が、生きることそれ自体を拒み、突然、彼自身に牙を剥いたのです。彼は生きることに疲れ果て、すべてに絶望していました。たった三十七年間の短い命でした。
次の瞬間、宇宙は泡のように消え去り、その直後、宇宙は再び創造されました。それから再び気の遠くなるような時が流れ、地球が誕生しました。遥かなる進化の過程が繰り返されたのち、人類が生まれ、文明が発展しました。そして、西暦一九八一年の日本で、彼は再び誕生しました。宇宙は彼の死とともに消滅し、再生を繰り返していたのです。
彼女は、彼のことを観察し続けました。どのような環境で育ち、どのような青春時代を送ったのか。再び絶望に身を落としてしまうことがないか、陰から見守り続けたのです。
一見、普通に暮らしている彼の中には、常に深い闇が渦巻いていました。人とうまく接することができず、苦しむことがよくありました。他人と関わるのを恐れるあまり、殻にこもっていた時期もありました。それでも彼は、自分なりに考え、できることを探し、立派な大人へと成長していきました。
ですが、再誕生してから三十七年後のある日、彼はやはり再び自ら命を絶ってしまいました。そして宇宙は再びリセットされ、その度に遥かなる時空を超え、彼はまた誕生したのです。それでも、三十七歳になると必ず自ら命を絶ちました。
彼女はそのまま静かに彼のことを見守っているべきでした。しかし、黙って見ていることに耐えられなくなった彼女は、ついに、彼の人生に介入してしまったのです。
神が世界に介入してしまうのはタブーでした。万が一、神の存在が知られてしまった場合、おおもとの宇宙である原点Oの存在が脅かされてしまう可能性があったからです。ですが、彼女はもうこれ以上、彼が絶望を繰り返すのを見過ごすわけにはいきませんでした。
そして彼女は、彼に救いの手を差し伸べました。彼が絶望に打ちひしがれて命を絶とうとする前に、自らの姿を実体化して彼の前に現れ、死の誘惑に屈しないように様々な手段を使って諭したのです。
しかしそのとき、彼女はまだ気づいていませんでした。自らが犯してしまった過ちによって、愛する人が創り出した宇宙だけでなく、おおもとの宇宙である原点Oの命運を左右するほどの巨大な陰謀を動かし始めてしまったということに——」
左右対称の顔の女の話は常軌を逸していた。人間の脳内に宇宙を創り出せること。わたしたちがいるこの宇宙は、肉体を捨て、脳だけになった男が頭の中に創造したものであること。その男の分身とも言える人物が、この宇宙の中で自死のループを繰り返していたこと。そして、この宇宙へ来るために自らの肉体を捨てた女の話。普通だったら到底信じられる内容ではない。しかし、首から下が切り離された状態で、頭部だけの姿でベッドに置かれているいまの自分の状況を考えると、どんな話でも受け入れざるをえなかった。
女は話を続ける。「本来、いるはずのない彼女がこちら側の宇宙に干渉してしまったことで、世界の均衡が乱れました。宇宙の外側への侵出を企む組織——『日本アウトベイディング』は、世界中に張り巡らせた監視システムによって、空間を不連続に移動する彼女の姿を捉えました。そして、人知を超える者が本当に実在し、しかもこの地球上に存在することを知ってしまったのです。組織の代表である等々力という男は、こうなることを以前から予知していたかのようでした。精巧な監視システムの導入は十数年前から計画的に遂行され、また彼は、彼女の瞬間移動能力を無効化する薬さえも用意していたのです。やがて彼女の居場所を突き止めた等々力は、薬剤を投与して力を奪い、彼女の身柄を拘束しました。それからまもなく、捕らえた彼女の頭部を肉体から切り離し、等々力は少しも躊躇することなく、自らの頭部を切断して彼女の胴体に接続したのです」
奇妙なことに、その状況はまさにいま、病室のベッドの上で頭部だけの状態で生かされているわたしの姿と一致していた。でも、わたしには当然、彼女のように原点Oで暮らしていた過去はない。
わたしは考えた。等々力という男は、いったい何のために彼女の頭部を切り離し、自分の頭部に差し替えたのか。そしてこのわたしの肉体は、いま、どこにあるのか。まさかとは思うが、すでに何者かの頭部が接続されているなんてことは——。
「彼女の肉体を得たことによって、等々力は様々な能力を会得しました。不老不死。どのような環境でも生き残れる適応力。テレパシー。脳の中に幻覚を見せて、相手を思い通りに操作することも可能になりました。そして、この宇宙のどこへでも瞬時に行くことのできる瞬間移動能力までも……。この宇宙において、等々力はもはや神と同等の力を得たと言っても過言ではないでしょう。
等々力は現在、その力を利用して、この世界を自分の支配下に置こうと企てています。すでに幾つかの先進諸国はクーデターによって政権交代が起こされ、世界は混乱の渦に巻き込まれているところです。そのうち彼は各国の軍事力を集結した世界国家を作り出し、強力な支配体制を構築することでしょう。
ここで忘れてはならないのは、彼の真の目的は〝この宇宙の外側へ侵出すること〟だということです。これはまだ始まりにすぎません。彼はそのうち、おおもとの宇宙である原点Oへの侵出を試みるでしょう。それが達成されてしまったときこそ、この世界が終わるときです。その最悪の事態を防ぐために、私はあなたをこちらに呼び寄せたのです」
神と同等の力を得た者が、世界のすべてを手に入れようとしている。そんな空想のような話を、目の前の女は大真面目に語っていた。そして、この世界が終わりを迎えるのを防ぐために、わたしをここに呼んだのだという。だが、首だけの姿になったわたしにどうしろというのだろうか。わたしは女の瞳を見つめて、その意図を探ろうとした。
「等々力に胴体を奪われ、頭部だけの姿になった彼女は、絶望に暮れました。人工心肺装置と点滴によって生命はかろうじて維持されていましたが、能力を封じられていたため、脳から意識を分離することも叶いませんでした。しかしそのとき、彼女は感じたのです。すぐそばに、自分にきわめて近い存在が来ているということに。その正体が何であるか、はじめは半信半疑でした。ですが、次第に確信に変わりました。その正体は、彼女が創り出した宇宙で生きていた、彼女の分身なのだと気がついたのです。なぜその人物がこちら側に来ているのかわかりませんでしたが、彼女は最後の力を振り絞ってその人物に幻覚を見せ、自分の元に呼び寄せました」
そのとき、左右対称の顔の女は苦しそうに顔を歪めた。それからわたしの近くに来て、両手でわたしの頬を覆い、透き通るような瞳で見つめてきた。
「まだ気付きませんか? その人物こそ、あなたなのです。なぜかはわかりませんが、あなたはこちら側の宇宙にやってきた。そして私が捕えられている病院のそばを通りかかったのです。あなたの存在を感じ取った私は、喫茶店に入ったあなたの意識を奪って幻覚を見せ、この病室に来てもらいました。私はあなたであり、あなたは私なのですよ。あなたがこちら側の宇宙へとやってきたのは、偶然を超えて、もはや奇跡としか思えないのです」
偶然? 奇跡? これは本当に、単なる偶然や奇跡なのだろうか?
わたしには、自分の身に起こった一連の不可解な現象は、偶然などではなく、必然的に起こったことのような気がしてならなかった。少なくとも、SNSのタイムライン上に流れた青木ヶ原樹海の写真を見た時点で、こうなる運命だったのだ。あるいは、もっとそれ以前から決まっていたのかもしれない。
わたしは、忘れ去りたい過去の記憶を探った。父からは些細なことで怒鳴られ、母からも邪険にされた過去。女らしさが微塵もないわたしに対して、醜いものを見るような視線を露骨に投げかけてくる心ない人たち。わたしは、行き場のない怒りを感じ、いつも何かに腹を立てていた。やがてすべてをあきらめて、仕方ないと受け入れるようになった。心に殻を作ることで、誰にも侵されることのない唯一の聖域を創り出した。だからこそわたしは、タイムライン上に唐突に流れてきた神秘的な森の風景に惹かれたのかもしれない。コケで覆われた根を地面の至るところから突き出し、人間の侵入を阻む樹海の森に、わたしは自分と同じ匂いを感じたのだ。すさんだ心だったからこそ、美しい風景に心が奪われたのだ。
すべては自分で選択したこと。恵まれない境遇と考えていた、生まれた環境、両親、容姿……そのどれもが、実はわたし自身で選択したものだったのかもしれない。すべてはこのときのために。
「あなたが辛い境遇で生まれ育った理由……それは、私の自責の念が歪んだ形となって、あなたに試練を課したからなのです」左右対称の顔の女は、まるでわたしの心を読んでいるかのように言った。「私は、自分のせいで大切な人を死の淵に追い込みました。夫のためを考えて行動しているつもりが、実はただの自己満足で、かえってあの人を追い詰めてしまっていたのです。それでも夫は、最後まで私に不満を言いませんでした。だから私は、自分自身を責め続けるしかありませんでした」
女が何を言おうとしているのか、わたしにはわからない。それでも、何か重要なことを言おうとしていることだけは伝わってきた。
「私はあなたに謝らなくてはなりません。私の頭の中にはいつも花畑が広がっていて、他人の感情には鈍感で、自分の幸せだけを考えて生きてきました。その代償として失ったものは、そのぶん大きかった。私は、夫の苦悩に気づけなかったことをひどく後悔しました。そして、そのようになった原因を、恵まれすぎていた私の幼少期にあると考えました。
子供の頃から、この世界は自分を中心に回っていると信じて疑いませんでした。何をしても許されると思い込んでいましたし、実際に大概のことは笑って済まされました。当時、私が周りから優遇されるのは、人間的に愛されているからだと思っていました。しかし実際には違ったのです。私の機嫌を取り、媚を売ってくる人たちは、私の外見の美しさだけを見ていたのです。ある者は下心で近づき、ある者は美醜の良し悪しによる色眼鏡によって私の虚像を見ていたにすぎなかったのです。
だから私は、自分の宇宙を創造し、自分の分身とも言える存在を創り出したとき、その分身に残酷な試練を課しました。女らしさを奪い、ひどい両親のもとに誕生させ、無神経な人たちを周囲に置きました。他人の気持ちに敏感になれる人にするためにはやむを得ない……そう考えていました。
でも結局のところ、私は単に許しを得たかっただけなのかもしれません。あなたにとっては、とんだ迷惑な話だったでしょう。私は、私の分身ともいえる存在が辛い毎日を過ごしているとわかっていて、それを正当化して大切なことから目を背けていました。同じ過ちを繰り返さないためには、傷つくことの苦しみを知ってもらう必要がある。愛しい人とはけっして巡り会うことのできない寂しい運命を生き、わかりあえる人もいない真の孤独を知る必要がある。そう考え、あなたにそのような不幸を押し付けました。そのくせ私は、自分の愛する人と再会するために、その人が創り出した宇宙へと悠々と旅に出たのです。ひどい女でしょう……。どんなに罪の意識に苛まれようと、結局、私はどこまでも自己中心的な女の域を出なかったのです。
だけどそんなとき、あなたもまたこちら側へとやってきた。どうやったのかは想像もつきませんが、そのとき私はやっとわかったのです。あなたは幸せにならなくてはならない。私に代わって罰を受けたあなたには、私以上に幸せになる権利がある。
しかしそのためには、傷ついて穴だらけになったあなたの心を、多少過激な手段を使ってでも元に戻す必要がありました。それは簡単なことではありませんでした。そのためには、あなたがいままでに経験したことがないほどの圧倒的な絶望感を与える必要があったからです。本当の地獄とは何なのか、生きるとは、死ぬとはどういうことなのか。頭だけでなく、あなた自身の中で腑に落ちる必要があったのです。だから私は、〝あなたに私自身になってもらった〟のです。
何を言っているのか、あなたにはまだ理解できないでしょう。だけど大丈夫。すぐにわかるときがきます。
あなたはいままでよく耐えました。肉体を失い、頭部だけになった姿になっても、そんな自分自身を受け入れようとしました。無理に抵抗するのではなく、仕方のないものだとして受け入れようと努めたのです。これは、そう簡単なことではありません。だから胸を張ってください。いまのあなたであれば、これから先に待ち受けるどんな試練にも、立ち向かうことができるはずです。
さて、時間も残りわずかになってしまいました。手遅れになる前に、そろそろ、あなたにかけたおまじないを解かなくてはなりませんね——」
そう言って、女はわたしの両頬を冷たい手で包み込んだ。その瞬間、周囲が白い光で溢れかえる。
わたしは思わず目をつぶった。瞳を閉じている間、まるで耳に栓がされているかのように、何の音も入ってこなかった。脳波計の電子音も、女の息遣いも、何も聴こえない。
ほんの一瞬。だけど永遠のように長い時間。何もない無の空間に放り出されたような心地で、意識だけが宙に浮かんでいた。
やがて聴覚が戻り、まぶたの向こう側の光が収まると、病院の独特な臭いが鼻をついた。胸のあたりが苦しく、溶けた鉛を血管に流し込まれたような肉体の重さを感じる。
ゆっくりと、目を開いた。同時に、信じられない光景が目に飛び込んできた。そこには頭部だけの姿でベッドに横になる左右対称の顔の女の姿があった。
女は焦点の合わない目で、ただ一点を見つめている。頬からは血の気が失せ、今にも生き絶えてしまいそうなほど青白い。首の付け根のあたりにホースのような太いチューブがつながれ、赤い液体がめまぐるしく循環していた。ベッドの脇に吊り下げられた透明の袋からは細い管が出ていて、無色透明の液体を左耳のあたりに運んでいる。女の頭部からは無数の電極が生え、側にある脳波計に繋がっていた。リアルタイムにモニターに映し出される三つの波は徐々に躍動を失い、三本の線は今にも直線になりそうだった。
わたしはベッドの脇に立ち、女の姿を眺めていた。先ほどまで失われていたわたしの胴体は、何ごともなかったかのように元どおりになっている。服装だってそのままだ。見慣れたスニーカーに、初夏にしては少し厚めのパーカー。青木ヶ原樹海に行くときに着ていたのとまったく一緒だ。
どういうこと? これからわたしは、どうすればいいの?
そのとき、わたしの意識に直接語りかけてくるものがいた。
〈生きてください〉
それは間違いなく、いままさに頭部だけの姿でベッドに横になっている左右対称の顔の女の声だった。彼女はわたしの心に直接語りかけてきていた。
〈私は、あなたに生きていてもらいたいのです。そして、できることなら〝彼〟を助けてほしい〉
「……彼?」
〈そうです。私がこちら側の宇宙で見つけ出した〝あの人〟を助けてほしいのです〉
「あの人って、誰なの?」
透き通るような声が、頭の中で反響する。
〈どういうわけか知りませんが、あなたは〝あの人〟の住むマンションで目を覚ましたようですね。もしかして、あなたは彼と会っているのではないですか?〉
これまでの事の顛末を思い出しながら、わたしは口を開いた。「ローブを着た男の人……。その人がわたしをこちら側に連れてきたのかもしれません」
話しながら、わたしは気がついた。左右対称の顔の女が、彼女の分身であるわたしに幻覚を見せたのと同じように、ローブの男もまたSを利用したのかもしれないと。
〈そのローブの男の人は、どのような方だったのですか?〉夢の中で見た男の姿を思い描きながら、わたしは答える。
「男は、まるで浮浪者のようでした。継ぎはぎだらけの布をローブのようにまとい、フードで顔を隠していました。はっきり確認することはできませんでしたが、頬は痩け、やせ細っていました。それでも、彼の黒い瞳からは、何か強い意志みたいなものを感じたような気がします」
そしてその人は、自分のことをSであると同時にSではないと言っていた。あれはいったい何を意味していたのだろうか?
まさか、ローブの男と、Sは……。
わたしが気がつくと同時に、女は再びわたしに語りかけてきた。
〈夢の中に現れたローブを着た男の人こそ、この宇宙を創造した人物、その人です。私が生涯愛し続けた人でもあります。彼はきっと、私の存在に気がついたのでしょう。私がそうしたのと同じように、彼もまた、私が創り出した宇宙に入り込み、彼の分身となるSという人物を産み出したのだと思います。そして、あなたとSを接触させ、Sを媒体として、あなたをこちら側の宇宙へと連れてきた〉
女は力ない瞳でわたしを見つめた。顔色は先ほどよりも悪くなっていた。目のくまは薄墨を塗ったように黒みを増している。
焦点の合っていない女の目を見て、わたしは言う。
「夢の中で、わたしはローブの男に三回会いました。その度に彼はわたしに、手鏡を使って、首だけになったわたしの姿を見せてきたんです。もしかするとあの人は、あなたがこのような姿になっていることをわたしに知らせてくれたのかもしれません」
本当のところはわからない。でも、そう考えるとすべての辻褄が合うように思えた。
でも、だからと言ってわたしにはどうすることもできない。無力なわたしをこちら側の宇宙に連れてきて、彼はいったい何がしたかったのだろう? 頭部だけの状態になった彼女を救えるような力を、わたしは当然持ち合わせていない。
左右対称の顔の女は、焦点の合っていない目で宙を見つめていた。わたしの意識に語りかけてくることもなく、静かに時間だけが過ぎていった。彼女は、頭部だけの姿で、何かを必死に考えているかのようだった。
そのときだった。女は瞳だけを動かして、ベッドの脇に吊り下がっている点滴を睨みつけた。それから血液の循環装置に視線を移し、そして、訴えるような目でわたしを見た。
〈最後のお願いがあります。聞いていただけますね?〉
一瞬だけ考えて、わたしは静かに頷いた。それを見て、女は弱々しく笑った。
嫌な予感がした。この類の笑顔を見た後は、良いことはけっして起こらない気がした。
〈この点滴の針を、抜いてもらえませんか?〉
そして、その直感は、当たっていた。女の目には、強く訴えかけるものがあった。苦痛に歪む顔から、最後の力を振り絞っているのが見て取れる。
「でも、これを止めてしまったら……」
予想もしていなかった女の訴えに当惑し、返す言葉に困った。やっとのことで発した言葉も虚しく、彼女の瞳は変わらぬ決意を帯びている。
〈どのみち、私の命は長くありません。点滴で栄養を補給し、血液循環装置で脳に酸素を供給しているとはいえ、この調子だと、あと数分もすれば昏睡状態に陥り、やがて死を迎えるのは間違いないでしょう〉
女の言っていることはわかる。でも、だからといって自分で死を選ぶことはないだろう。そう反論したかった。しかし、そのようなことを言える権利がないことをわたしは知っていた。かつて自ら命を絶とうとしたことのある人間が、他人の生死に対して意見することなどできない。
そのとき、彼女は再び微笑んだ。わたしが罪悪感を抱かないように気遣ってくれているのかもしれない。
〈私は、もう十分に生きました。永遠の命を与えられ、人類が宇宙の果てまで到達するほどの年月を生き続けました。それからも、自らの脳の中に宇宙を創造し、幾つもの宇宙が誕生し、滅んでいく様子を見守り続けてきました。だからもう十分なのです。死ぬことだって、もはや、怖くはありません——〉
「もうそれ以上しゃべらないで」わたしは声を絞り出して言った。
〈あなたならきっと理解していただけると思っています。私はもう、これ以上生きるのは嫌なのです。苦しいのです。それにどちらにせよ、もうそんなに長くはないのです。どうせ死ぬなら、そのタイミングくらい、自分で選択してもよいのではありませんか?〉
女の話を聞きながら、残酷な決断を下す方向に意志が傾いていた。そう考えている自分を、自分でも驚くほど冷静に分析していた。
これからわたしは、人を殺そうとしている。でも、その相手は自ら死を望んでいるし、あと数分後には死ぬ運命にある。
わたしもかつて、誰かに殺して欲しいと思っていたことがある。地獄と砂漠しかないこの世界から脱出するためには死ぬことが一番の近道だと考えていたし、いまでもそう考えている。でも、自分では決断できないし、もし決断できたとしても致命傷を負うことは簡単ではないことも知っている。だからわたしは、自分の命を絶ってくれる人を探していた。不謹慎にも、世を怯えさせた凶悪な殺人犯に対して自分の命を差し出したいとさえ願ったこともある。生きることを望まれている誰かの代わりに、誰からも必要とされない自分の命を代わりに差し出したいと本気で考えていた。
状況は異なれど、似たようなことを目の前の女は願っている。いまこのときも、懇願するような目でわたしを見つめ続けている。
いったい、どうするのが正解なのだろう? 誰か、教えてはくれないだろうか。わたしはどうすればいいのか。言われた通りに実行すべきか。それとも彼女の願いを無視して、わずか数分の延命を優先すべきか。
時間としては一瞬だったかもしれない。しかし、わたしが考えている間にも、女の頬はみるみる白くなっていった。
わたしは彼女に近づき、その頭部をそっと抱きしめた。見た目以上に頬は冷たくなっていた。抱擁を解き、わたしは再び彼女を見た。
答えは、最初から、決まっていた。
わたしは、彼女の頸部に刺さっている点滴の針をゆっくり抜いた。針が刺さっていた箇所からは、思ったよりも出血はない。
彼女は微笑んでいた。そして、女の頬にひとすじの光が流れた。時空を超え、宇宙を超えたその先で、最愛の人と再会することもなく、女はいまにも息を引きとろうとしていた。その無念の気持ちが最期に涙となって表れたのか、それとも、長い人生に終止符を打つことができることへの喜びなのか、わたしにはわからなかった。
そのときわたしは、ふと思った。
左右対称の顔の女が死ぬということは、彼女が創り出した宇宙もまた、この世界から失われてしまうのではないだろうか、と。だとすると、両親も、唯一の親友である友美も、Sも、本人たちの知らぬ間に、泡のように消えてなくなってしまうのだろうか。
もしこれが本当なら、悲しい出来事のはずだ。なのに、怒りも後悔も、何も感じない。
なぜなのだろう、とわたしは思ったが、その理由はすぐにわかった。これと似たような感覚を、前にも何度か経験したことがあるからだ。幼い頃に絵本で読んだ物語。そのどれもが、ただの架空の話だと知ったときの気持ちにとてもよく似ていた。わたしたちはいままでずっと、左右対称の顔の女が創り出した世界の中に生きていたにすぎないのだ。現実の世界ではない、事実と虚構の間の、どっちつかずの世界で暮らしてきたわたしたちは、空想上の世界の住人と何も変わりないのだ。
女の顔を見た。生気は感じられないが、安らかな表情で静かに眠っている。
まもなく彼女の命の炎は尽きるだろう。その引き金をわたしが引いたのは紛れもない事実である。だがわたしは間違ったことはしていない。誰から何を言われ、後ろ指を指されようと、わたしは自分なりに考え、自分なりの答えを導いて選択したのだ。この決断は責める権利は誰にもない。
最善の選択ができたのかどうかはわからない。この先ずっとわかる日は来ないだろう。でも、自分もまた地獄を生き、頭部だけの姿で絶望を味わったことで、彼女の決意を正しく汲み取ることができたと信じている。
女の顔を見ながら、わたしは考えた。
わたしがこちら側の宇宙に来た意味は、未だにわからない。ローブの男が道を示し、左右対称の顔の女がわたしを導いた。その意味がどこにあるのか。
もしかすると、そこに意味などないのかもしれない。あるのは、いまわたしが、こちら側の宇宙にいるという事実のみ。だとしたら、そこに意味を見出すのは、このわたし自身なのかもしれない。
女の髪をそっと撫でた。それから、その美しい左右対称の顔を目に焼き付けた。点滴が刺さっていた所は、すでに出血が止まっている。脳波計は、相変わらずの聴き慣れない電子音を病室内に響かせていた。わたしは女に背を向け、病室の扉へと向かった。
カーテンと窓枠の間から入る光は、先ほどよりも強さを増し、扉に向かって一本の明るいラインを伸ばしていた。
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