第15話 原点O

 何かが燃える音が聞こえる。

 それほど大きな音ではない。遠くも近くもない。母が枯れ木を集めて焚き火をしていたときの音にとてもよく似ている。聞き慣れた音。その背後で、風が効果音のように木の葉を揺らしている。その風に乗って運ばれてくる新緑と土の匂い。田舎の懐かしい香り。——土? そうだ。土の中……。

 僕の意識は少しずつ深海の底から引き上げられていく。やがて——。

 目を開こうとした途端、まぶたに引き裂かれるような激痛が走った。目が開かない。まるで厚いロウで固められているかのように、僕の目は固く閉ざされていた。今度は体を動かそうとしたが、金縛りにあっているかのように微動だにできない。せめて助けを呼ぼうと喉から声を漏らすと、今度はその喉に焼けるような痛みが走った。まるでアルコールの原液をそのまま喉に流し込まれたかのような熱さだった。

 これは夢……悪い夢なんだ。心の中で強く叫べば、そのうち夢から覚めるだろう。お願いだから、早く覚めてくれ。誰でもいい、誰か僕を叩き起こしてくれ……。

 声にならない声で叫び続けながら、僕は少しずつ察し始めていた。これはけっして悪夢なんかではないということを。

 脈打つたびにこめかみが疼く。それに合わせて最後に記憶している光景が頭の中で蘇る。

 確か、洞窟に入って、その最深部に手を触れたんだよな……。僕はあれから、どうなったのだろう?

 そのとき、誰かの足音が聞こえた。それはゆっくりと重い足取りでこちらに近づいてきた。たぶん夏希か母のどちらかだろう、と僕は思った。しかし、聞こえてきたのは知らない男の声だった。

「やっと意識が戻ったみたいだね」とその男は言った。「新しい肉体に身を宿した後は、誰でもそんな感じになる。だから心配することはないよ。あと少しだけ辛抱すれば、動けるようになるはずさ」

 落ち着いた低い声だった。その声を聞くと同時に、僕は洞窟の最深部に手を触れたときのことを思い出していた。指先を触れた瞬間の、湿っぽく冷たい感覚。服の袖からみぞれ雨のように冷気が入り込んで肌にまとわりつき、瞬時に熱を失っていく感覚。

 もし男の言葉が事実なのだとすると、洞窟の奥で僕は死に、新しい肉体を得て生まれ変わったということになる。だが果たしてそのようなことが本当に可能なのか、疑問が頭の中で渦巻く一方だった。

 わけもわからず様々な憶測を巡らせているうちに、男の言う通り、徐々に体の感覚が戻っていくのを感じた。しかしそれと同時に、今度は全身に強い痛みが走った。空っぽの血管の中に溶けた鉄を注ぎ込まれたかのように、焼けつくような痛みが全身を駆け巡る。

 永遠に続くような痛みに気を失いそうになりながらも、ただひたすら僕は耐え続けた。


 どれくらい時が経っただろうか。一時間以上経ったようでもあり、ほんの数分間の出来事だったかのようにも思えた。気がついたときには、体からすでに痛みは消え去っていた。

 おそるおそる目を開くと、見たこともない森の中だった。実家の裏にあるクマザサに覆われた針葉樹林の森とは異なり、比較的暖かい地方で育つような葉の広い高木に囲まれていた。そんな中、ひときわ高い一本の巨木がはるか上空までそびえ立ち、空の闇を貫いていた。その大木の真下の開けた場所で、僕は仰向けに倒れている。そのすぐそばに焚き火があり、薪をくべる男の姿があった。

 男は薄汚いうぐいす色のローブを身に付けた老人だった。頬は痩け、肌は浅黒く、まるで骸骨のような顔をしていた。顔に深く刻まれた皺とは対照的に、目だけは獣のように鋭く輝いている。年齢は判別できないが、八十を越しているのは確かだろう。

「ここはどこですか? それと、失礼ですが、あなたは誰ですか?」

 僕は喉の痛みを堪えながら言った。自分のものとは思えない、酒焼けした船乗りのようにひどく乾いた声だった。

「無理しちゃいけない。新しい肉体に慣れるまでは、むやみに動かない方がいい」とローブの男は慌てて言った。

「さっきも言ってましたが、その『新しい肉体』というのは何なんですか? 見たところ、よく見慣れた体のように思うのですが」

 僕は自分の両方の手のひらを交互に見比べた。多少の違和感はあったが、手のひらの皺の具合を見る限り、この体は紛れもなく自分自身のものだった。身に付けている衣服や靴でさえも、洞窟の中で意識を失う前と同じものを身に付けている。しかし唯一、左手首に装着していたスマートウォッチだけは、どこにも見当たらなかった。

 彼はうなずいた。そして深くため息をついた。「それにしても、こちら側に来るのにずいぶん時間がかかったね」と彼は話題を変えるように言った。

 ずいぶん時間がかかったとはどういう意味なのか、と僕は口を開きかけた。しかし、こちらから質問をしたところで、まともに答えは返ってこないだろう。男のペースに合わせて話を聞き出した方がいいと思い、僕は口をつぐんだ。

 薪のはぜる音が森の中に響き渡る。上を見ても、深緑の樹葉が空を覆っているだけで、星の輝きもなければ、はりぼてのようなオレンジ色の満月も見えない。

「せっかくこちら側に来たのに、こんなことを言うのも何だけど」と男は切り出した。「悪いことは言わないから、体が動くようになったらもとの世界に帰った方がいい。こちら側に来たところで、君の求めるものは何一つとしてないんだよ。天国や極楽なんてものはないし、世界の真理もここにはない。あるのは孤独、絶望、そして無——それだけだ。この世界こそ生き地獄なんだよ。……でも、こんな世界も、まもなく終焉を迎えようとしている。そしてこちら側の世界の終わりは、君たちの宇宙の最期をも意味しているんだ。どのみち終わりを迎えるのなら、せめて孤独とは無縁なもとの世界へと帰った方が幸せだと、私は思うんだがね」

 もとの世界に帰る? いったい、どうやって……。それに、こちら側の世界の終わりが、僕の宇宙の最期をも意味しているとはどういうことなのだろう?

 周囲を見て、男の言っている意味が少し理解できたような気がした。僕が元いた世界とは少し様子が異なっていた。ただの森の中ではない。全体的に負の空気が流れ、その淀んだ空気が滅亡の雰囲気を醸し出している。

 森は絶望していた。枯れてもいないのに葉が茶色く変色していた。目の前にそびえる巨木も例外ではない。灰みがかった樹葉によって空が覆われ、大地に深い闇を落としている。

「そもそもここはどこなのですか。それに元の世界に戻るといっても、どうすれば」

「元の世界に戻るには、いますぐここで絶命すればいい」僕の話を遮るように男は言った。それからローブの奥からナイフのようなものを取り出し、僕の傍に放り投げた。

「絶命?」

「そうだ。いますぐ死ねば、まだ間に合うだろう。迷っている暇はない。なんなら私が代わりに刺してやってもいいが、これでも人を殺すのははじめてでね、できれば死ぬまで潔白なままでいたいんだよ」

 男は射抜くような目で僕を睨みつけた。焚き火の揺れに合わせて、地面のナイフが鉛色にゆらめく。

 彼の言う通り、僕はもとの世界に帰るべきなのかもしれない。ここにいても無力な僕にできることは何もないのかもしれない。だけど僕がいまここにいるのには、きっと何か理由があるはずだ。

「僕は、あの女の人……麻衣さんを助けに来たのです」と僕は男に向かって言った。

 男の瞳の奥に揺らめくものを感じた。男は明らかに動揺していた。

「君は……麻衣に会ったのか?」

「はい」

「彼女は、何か言っていたか?」

「あの人……麻衣さんは、一日も早く解放されたいと言っていました。無に帰りたい、死にたい、と。彼女が何に苦しんでいるのか、僕にはわかりません。だけど、解放されることと死ぬことは同義ではないはずです。そのことを教えてくれた彼女に、何でもいいから僕は力になりたいのです」

 ローブの男は僕の目を見つめた。先ほどまでの猛禽類のような鋭い目ではなく、冷たさの中にも穏やかさを兼ね備えた目だった。

「すべてを知った結果、『死』こそが答えかもしれないという結論に至るかもしれない。果たして君にその覚悟はあるのか?」と男は言った。「私がここにいられるのは、そう長くはない。しかし君に伝えなければならないことは山ほどある。ここはどこなのか。君の身に何が起きたのか。私は誰なのか。そして彼女がどこにいるのか——」

「麻衣さんは、やっぱりこちら側にいるのですね」

 男はうなずいた。

「時間はそう多くは残されていない。だから要点だけをかいつまんで伝えたいところなのだが、しかしいったいどのように言えば端的に伝えられるのか、私は少々思いあぐねているんだ。時系列に、順番に話すくらいしか……」男はそのまましばらく口をつぐんでいた。

「それでもいいので、お話を聞かせていただくわけにはいかないでしょうか」と僕は言ってみた。僕は本当に知りたかったのだ。この場所がどこなのか。この男は何者なのか。そして彼女はどこにいるのか。

 男は焚き火の方を眺めたまま、しばらく何かを考えていた。

「長い話になるかもしれない」

「それでも構いません」と僕は言った。

「話を聞く前に、幾つか心に留めておいてほしいのだが」と彼は前置きした。「これから私は、『ある男』の一生についての話をする。この話はいたって単純だ。しかし同時にひどく複雑な話でもある。なぜなら、この話は君とは無関係のようでいて、実は密接に関係しているからだ。したがって、最初からそのつもりで話を聞いてほしい。自分の身の起こった出来事のように、一つ一つ具体的にイメージしながら聞いてほしいんだ。そして、疑問があっても話をけっして遮らないこと。どうか最後まで黙って聞いてほしい。——以上が、これから私が話をするにあたり、君に心がけてほしいことだ」

 僕は黙ってうなずいた。

「その男を、仮に『S』と呼ぶことにしよう。彼は昭和五十六年三月一〇日、この世界に誕生した」とローブの男は語り始めた。「そして彼は三十七歳のときに自ら命を絶とうと心に決め、そこから二度目の人生を歩み始めた」

 話の出だしから、僕はすでにわけがわからなくなっていた。『S』と呼ばれる人物の誕生日が、自分と同じだったからだ。それに数日前、命を絶とうと一度心に決めた。Sという人物とすでに二つも共通点が見つかっていることに対して男に尋ねたいところではあったが、「話の途中で疑問があってもけっして遮ってはいけない」と言っていたことを思い出し、僕は男の話を最後まで聞くことにした。

「昭和五十六年——私から見たその頃の日本は、高度経済成長を遂げ、人々にとって豊かな暮らしは当然になっていた。凄惨な戦争の記憶はほどんど消え、理不尽な争いからも貧困からも解放された人々は、立ち向かうべき敵も寄り添うべき味方も見失っているように見えた。人々は常にどこかに仮想敵を作り、孤独と戦っていた。遺伝子に深く刻み込まれた闘争本能は行き場を失い、生存本能は鈍化していく一方だった。

 そのような悶々とした感情は、自分自身や周囲に向いた。自死。殺人。武力のような直接的な暴力だけでなく、人々はありとあらゆる手段を使って他人を貶め、自分を優位に立たせようとした。言葉による情報・印象操作。負の感情を煽ることで購買意欲を引き出す宣伝広告。人々は互いに洗脳し合い、世の中は心を乱す負のメッセージで溢れ返っていた。家庭は崩壊し、学校の窓ガラスは割られ、戦時中でないにも関わらず、人々の心は荒廃し、混沌としていた。世界大戦が集結しても、寿命と病気以外の要因による死者は減るどころか増える一方だった。

 そんな中、Sは東北地方の寂れた田舎町で生まれた。四人兄弟の末っ子だった。一番上に兄、それから姉が二人いた。

 彼の父親は単身赴任でほとんど家にいなかった。だが、たまに帰ってくると、溜まり溜まった負の感情を家族に当たり散らした。母親は何一つ口答えせず、黙ってしたがった。父親からの影響のせいか、やがてSの兄も母親に対してそのような態度をとるようになった。父親が家にいないときでも、家の中に怒声が鳴り響くようになった。

 必然的に、彼は常に他人の顔色を伺って生活するようになった。しかし幸か不幸か、頭だけは人一倍良かった。彼は一度見聞きしたものをすぐに記憶し、物事を関連づける能力に長けていた。そのため、大人たちの些細な会話から事の真相をすぐに見抜き、その気になれば容易に論破することができた。家族や親戚たちは、やがて彼のことを恐れ、避けるようになった。

 周囲の大人たちに邪険にされながらも、そのような些事に心乱されることもなく、彼は自分自身の世界を作り上げた。頭の中に、誰からも侵されることのない自分のためだけの領域を作り上げた。

 彼はよく勉強した。中卒で勉強嫌いの両親から生まれたとは思えないほど勤勉で、学業に熱心に取り組んだ。

 Sはこの世界の真理を常に追い求めていた。生命はどのようにして誕生したのか。生きるとは何なのか。なぜ宇宙が存在するのか。そして、人類はこの先、どこに向かっていくのか。このような疑問の答えを見つけるべく、彼は様々な学術分野へと手を広げ、多岐に渡って学問を習得していった。小学校を卒業する頃には、その辺の大学生を遥かに凌駕するほどの幅広い知識と教養を身につけていた。

 中学一年のとき、そんな彼の能力に目をつけた担任の教諭は、当時日本では珍しかった〝飛び級〟をすることを彼の両親に勧めた。しかし、勉強というものを学校のお遊戯の一つとしか考えておらず、教育そのものに価値を見出していない両親にとってはどうでもよい話だった。自分の息子には普通の人生を歩んでもらえればよいと、飛び級の申し出を勝手に辞退したのだった。

 両親が下した独断は、Sを深く失望させた。より高度な知識を身に付け、世界の真理に近づくための大きな一歩を歩み損ねただけでなく、言い争いの耐えない、息苦しい家の中から抜け出すためのせっかくの機会を失ってしまったからだ。

 それからというもの、Sは両親に対して完全に心を閉ざすようになった。賢い彼は、自由を得られないのは、まだ子供だからという単純な理由ではなく、根本にあるのはお金を稼いでいないことだと気がついていた。他人の援助なく、自分だけの力で生活することができれば、誰も文句は言わないだろう。そう信じた彼は、特待生入学を受け付けている高校を選んで受験した。そして見事に首席で合格を果たし、目論見通り学費は免除された。学費が浮いた分で一人暮らしをさせてもらえるよう、両親に頼み込んで下宿生活を始めた。こうして少しずつではあったが、彼は親から着実に独立していったのだった。

 三年が経ち——周りの誰もが予想していたことではあったが——彼は日本のトップを誇る大学の理学部に首席合格した。大学四年間の学費は免除され、さらに民間団体の支援により、毎月の生活費も援助されることになった。安アパートを借りて節約すれば、両親に頼らずとも生活できる程度のお金を得られる見込みができたのだった。

 春になり、地元を離れて上京した彼は、両親との直接的なつながりをすべて断つことに成功した。これで、彼は本当の自由を手に入れたのだった。

 だが、Sの大学生活はそう華々しいものにはならなかった。友人と呼べるものは一人もいなかった。その頭の良さが、同年代のエリートたちには目障りだったのだ。さらに不器用な性格によって、些細なことでよく誤解を招いた。大学入学時点ですでに大学院博士課程レベルの専門知識を身に付けていた彼に対して周囲が抱いた感情は、尊敬でも関心でもなく、恐怖と嫉妬だった。大学生活の始まりは、息苦しい牢獄生活の始まりだったのだ。

 とはいえ、雨がいつかやむのと同じように、絶望とはそう長く続くものではない。Sの飛び抜けた能力に目を留めたゼミの担当教授は、高IQ保有者しか入ることができない組織に彼を推薦したのだった。入会テストをほぼ満点でパスし、世界上位二パーセントのIQを有する集団の中でも、彼の知能はさらに上位に位置していることが判明したのだった。

 良くも悪くも、これが彼の人生にとって大きな転機となった。彼はそこではじめて自分の居場所を見つけた。世界の天才たちと接点を持つようになり、〝世界の真理を紐解く〟という壮大な夢に一歩近づいたのだった。そこには、いままで得られなかった人脈があった。人から人を紹介してもらい、世界の最前線で活躍する研究者とインターネット上で情報交換を行って、自分のやりたい研究を独自のやり方で進めていった。その時間は、大学に通うよりもずっと有意義だった。

 しかしそのとき彼は少しも気がつかなかった。独自で進めていた研究が、人類どころか、この宇宙全体の運命を大きく変えることになるということに——」

 ローブの男はここでいったん話をとめた。そして、勢いの弱まっている焚き火に新しい薪をくべた。炎は一瞬激しくうねり、木々の影が大きく揺らぐ。

 話を聞きながら、僕はまるで自分がその場で体験したかのように、その情景を鮮明に頭の中で描いていた。

 この長い話を始める前に、男は言っていた。「この話は君とは無関係のようでいて、実は密接に関係している」と。

 僕はSとは違って、学業の成績が良かったわけではない。大学だって中退しているし、家族構成も微妙に異なっている(僕は両親と亡くなった姉との四人家族だったが、Sには兄と、さらにもう一人姉がいた)。当然ながら、高IQ保有者が属するという団体にも所属していない。しかしそれでもSという人物とは共通点がたくさんあるように思えた。誕生日、出身地、家庭環境、内気な性格、友人のいない学生生活……。

 生き方は異なれど、自分の人生は、Sと似た境遇を辿っているかのように思えた。Sとは何者なのだろう? なぜローブの男は、見ず知らずの僕に対して彼の話をするのだろう?

 勢いを増していた炎が穏やかなゆらめきを取り戻したとき、男は再びその口を開いた。

「そのときSが進めていた研究——それは、『この宇宙の他に、別の宇宙が存在すること』を裏付けるものだった。複数の宇宙の存在を仮定する《多元宇宙論》は、それまでは理論的な裏付けのない単なる妄想にすぎなかった。人々の生活には直接的な関係のない、SF小説の中で都合よく使用される世界設定の一つでしかなかった。だが、Sがその存在を理論的に導き出し、観測による証明手段を提示してみせたことで、それは〝妄想〟から〝予言〟へと変わったのだった。このことは世界中の宇宙物理学者たちに衝撃を与えただけでなく、一般の人たちの常識を変えてしまうほどの出来事になった。

 それだけでなく、さらに彼は『人間の手によって新たに宇宙を創造する方法』まで導き出した。しかし彼はその論文を発表することはなかった。人間の手で宇宙を創り出すことは、生命を人工的に誕生させるのと同じように、倫理に反することだと考えたからだった。

 世界の真理を追い求め続けた彼は、弱冠二十九歳にして、人類がけっして手を出してはならない禁断の領域に到達したのである」

 焚き火でゆらぐ木々の影を眺めながら、ローブの男はここで静かにため息をついた。その強い瞳の奥に、物憂げな光が見えた気がした。

 男はさらに話を続ける。

「さて、君から見たら、天才的な頭脳を持つSの将来は何の陰りもないように感じられるだろう。世界に名を轟かせ、大成功を収めるのも時間の問題だと思っていることだろう。だがしかし、君も経験上知っていると思うが、そう単純に事が運ばないのが世の常というものだ。絶望がそう長くは続かないのと同じように、良いことも長くは続かないのだ。光あるところには、必ず影がつきまとう。

 Sは、たとえば学問や研究といった強い目的を伴うものに関しては、きわめて頭の回転が良く、そのためには他人とコミュニケーションをとることも苦ではなかった。だが、特に目的のない遊びや雑談に関してはどう振る舞えばよいのかわからず、自ら輪に入っていくことができなかった。それが周囲の誤解を招いた。彼は、人の血の通っていない冷血人間と周囲から評されていた。

 そんな彼だったが、三十歳になってまもなく、同じアパートに住む年上の女性と親密になる。きっかけは些細なことだった。お互いに惹かれあい、すぐに交際は始まった。やがて二人は別のアパートで一緒に暮らし始めた。

 それからほどなくして、Sの恋人は体調を崩し、仕事を辞めた。責任感があり誠実な彼は、自分が恋人を一生支え続けることを強く決意したのだった。いま思うと、これが彼の運命を変えた大きな分岐点の一つだった。

 幸せだった。この暮らしがいつまでも続けば良いと願っていた。しかしやはり、良いこともそう長くは続かない。

 研究の成果を出している割には、Sは出世ができなかった。それは彼が知識欲以外の欲望を持っていなかったことに根本的な原因があると、私は考えている。食欲、性欲、物欲、出世欲……。人間が生きるためにはそれなりに欲が必要だと思うのだが、彼はそれらの欲望を一切持ち合わせていなかったのだ。だからいつも痩せていたし、自ら肌の温もりを求めることもなかった。日用品と書籍以外の買い物をすることもなかったし、周囲に媚を売るようなことも、自分の成果をアピールすることもしなかった。物静かで、真面目で、優しい性格だった。だから学問の発展のためなら、自分の手柄を他人に譲ることも厭わなかった。その性格は競争社会——特に実力以外の面も重要視される、その時代の日本の資本主義社会にはきわめて不向きだった。

 だから、飛び抜けた頭脳を持っているにも関わらず、大学での職務は講師で止まっていた。成果だけで考えたら教授になってもおかしくないのに、それでも昇進できなかったのは、すべて彼の不器用な性格が災いしていた。よく周囲の誤解を招き、頭の良さは嫉妬と反感を招いた。そのうち、周りに集まってくるのは、彼を貶めて成果を横取りしようと目論む連中ばかりになっていた。

 それでもSは、良い恋人に恵まれて幸せだった。恋人と結婚し、やがて二人の子供を儲けた。しかし、大学講師の収入だけでは、家族四人の暮らしを維持するのは困難だった。年々、借金は増えていき、彼が三十七歳になったときにはおよそ三百万円の借金を背負っていた。負債は負債を呼び、日に日にその金額は増加する一方だった。

 そんな状況になっても彼は誰にも頼らなかった。両親にも妻にも相談しなかった。家出同然で出てきた実家の両親に恩を作ることはしたくなかった。共働きしようにも、妻は体調を崩したままだった。子育てで手一杯で、Sと分担しないと家事も成立しない。だから金銭的に余裕がないことを伝えて、一定の金額以内に出費を抑えるようにお願いした。だが毎月の出費が予算内に収まることはなかった。

 家族を養うために、大学での仕事を終えた後、密かに副業をするようになった。学力テストの採点や、家庭教師や塾講師のアルバイトに次々と手を出していった。だが、そのような類の仕事は定常的にあるわけではない。だから仕方なく、レストランのウォッシャーやティッシュ配りなど、やれそうな仕事はなんでもやった。

 やがて彼は、夜の街で働くようになった。とは言っても、ホステスを自宅まで車で送り届けるだけの仕事だった。深夜の短時間で手っ取り早く稼げるのは、昼間の仕事と家事をしなければならない彼にとって、非常に都合がよかった。

 無口でありながら物腰柔らかなSの振る舞いは、日頃から頭の悪そうな男連中ばかり相手しているホステスたちの癒しになっていた。

 ある日、彼のことを気に入った一人のホステスが「あなたの時間を買いたい」と言い出した。普通であれば断るところだった。だが、家族を養うので精一杯になっていた彼は、しぶしぶ承諾した。自分の時間を売り、そのまま自分の体を売った。そして、いままで一ヶ月かけてアルバイトで稼いでいた分の金額を、たった一晩で稼いだのだった。

 不思議なことに、罪悪感はまったくなかった。女と寝ている間、「家族を養うため」という言葉を頭の中でずっと繰り返していた。シングルマザーでも、子供を養うために風俗で働く人がいることを彼は知っていた。それと同じことだ。何が悪いんだと、彼は自分に言い聞かせ続けた。

 Sが体を売ったのは、これが最初で最後だった。普通の中年男性であれば、若くてきれいな女性に求められて悪い気はしないだろう。それどころかこの上ない喜びを得るに違いない。だが彼にはそのような感情は一切湧かなかった。気持ち悪い。彼が感じたのはそれだけだった。自分が気持ち悪い。そもそも男と女という性別があること自体が気持ち悪い。人間……いや、生物それ自体が汚らわしい存在だと、彼は考えた。

 すべてが壊れていった。彼の中の何かが崩れ始めた。だが、精神的に辛ければ辛いほど、それに反比例して周囲には明るく振る舞うようになった。それまでの無口で不器用な性格がまるで嘘だったかのように、よくしゃべるようになった。家では子煩悩になり、いままで以上に家事を率先してこなした。それでいて、朝は家族の誰よりも早く起きて仕事に行き、大学の仕事の後は短時間のアルバイトをして、帰宅後は子供を寝かしつけた。それから食器の片付けをし、家族の誰よりも遅い時間に寝床についた。

 客観的に見たら、Sは良い父親であり、理解のある良い旦那だっただろう。

 しかしある日、Sは失踪した。妻と二人の子供を残して。そのような素振りを見せることも、書き置きを残すこともなく、ある日突然——。Sの妻のもとに警察から電話がかかってきたのは、彼が家に帰らなくなって一週間後のことだった。

 警察は彼女にこのように切り出した。『旦那さんが帰って来られなかった日、N駅近くにある老人ホームで大きな火災がありました。実はその焼け跡から、旦那さんのものと思われる遺体が発見されたのです』と。

 受話器を持ちながら、彼女はその場に立ちすくんだ。彼女は理解できなかったのだ。老人ホームに行くような用事などないはずなのに、なぜそこに夫は居たのか。そしてなぜ遺体となって発見されたのか。どんなに考えてもその理由に心当たりがなかったのだろう。

 警察はそのまま話を続けた。

『関係者の話によると、火災があったとき、施設には五人の老人が取り残されていたといいます。他人の手を借りなければベッドから起き上がることもできないご老人たちが外に脱出することはもはや不可能でした。誰もがあきらめていたそのときです。偶然近くを通りかかったSさんが、その方々を救出するために身一つで乗り込んできたそうなのです。その甲斐もあり、四人の老人は大きな怪我もなく救出されました。しかし、残りの一人を助けるために再び炎の中に飛び込んでいったのを最後に、Sさんは二度と姿を表すことはありませんでした。探しに行こうにも、その時点で建物は倒壊寸前まで追い込まれていました。我々警察もその場に居合わせましたが、残念ながら、消火活動が行われるのをただ見守るしかありませんでした。

 炎が収まった後、我々はその焼け跡からSさんともう一人のご老人の捜索を開始しました。剥き出しの鉄筋と瓦礫ばかりの現場で、生きた姿で彼らを発見するのはもはや絶望的でした。あの激しい火災の中では、人間どころか微生物ですら生命活動を維持するのは困難でしょう。そう考えてしまうほど、現場は凄惨たる状態だったのです。

 せめて、ご遺族の方々にご遺体をお引き渡しできるようにと思い、我々はどこかで眠っているはずのSさんと、もう一人のご老人の亡骸をくまなく探しました。

 捜索は三日三晩に渡りました。そしてようやくご遺体を見つけることができました。しかし我々は、新たな問題に直面しました。そのご遺体が、果たしてSさんのものなのか、もう一人のご老人のものなのかを区別できなかったのです。そう……我々が見つけたのは、高熱で焼かれ、粉々に崩れて〈灰〉と化した、人間の変わり果てた姿でした。

 残された骨は、量から考えておそらく一人分のものだろうと考えました。しかし誰の遺体なのかはそれだけでは判断がつきません。その時点では、ご遺体がSさんのものではない可能性もあったのです。しかし現場に不自然に残されていた幾つかの金属片によって、身元が判明いたしました。その金属片は歯の詰め物や差し歯に使用されるものであり、生前資料と照合したところ、Sさんの歯に装着されていた素材と一致したのです。ご老人の方は、詰め物をしていない歯が二、三残っているだけでした。詰め物をしているのはSさんだけであり、詰め物と同じ素材の金属が発見されたことから、ご遺体がSさんのものだと確定したのです。それで、こうして奥さんに電話を差し上げた次第なのでございます。

 ご老人の遺体は、未だに見つかっておりません。しかし、おそらく我々がまだ発見できていないだけで、あの現場のどこかに埋もれているのは間違いないでしょう——』

 それからもしばらく警察官は話を続けたが、彼女の耳にはほとんど届いていないようだった。彼女の中で、様々な現実が頭の中を巡っていたのだろう。夫と二度と会えないだけでなく、その亡骸さえも灰と化してしまったこと。これから自分独りで子供二人を育てていかなければならないということ。途方もない喪失、孤独、責任……。 

 役所に死亡届を提出し、葬儀を終えた頃には、彼女の心は少しだけ落ち着きを取り戻していた。しかし現実問題として、これから先、子供たちを食べさせていかなければならないという問題に直面していた。いきなり正社員として雇ってくれる会社はないだろうし、パートタイムで働いても収入はそれほど期待できない。それに、そもそも体が弱くて、安定して仕事することも叶わないかもしれない。

 弁護士を名乗る女から電話がかかってきたのは、日に日に苦しくなる生活に活路を見出せなくなっていた頃だった。弁護士の女は、鈍ったナイフのように冷たく無機質な声で話し始めた。

『この度は誠に残念でした。本日わたくしが電話を差し上げたのは、Sさんからの遺言をお伝えするためでございます。今回のように不測の事態が起きた場合に、私から奥様に伝えて欲しいと、生前、Sさんから承っていたのです。ですが、遺言をお伝えする前に、先に申し上げておくべきことがあります。

 Sさんは、奥様に内緒で借金を抱えておりました。金額はおよそ四百万円。誰かに騙されたわけでも、何かのローンを組んでいたわけでもありません。月々の生活費をまかなうためだけに、銀行やカード会社から借りたお金が積もり積もって、この金額になってしまったのです。

 Sさんはとても頭の良いお方でした。しかし、それがゆえに周囲からは断絶され、大学の中には居場所がなかったようです。給料も思うように上がりませんでした。自分一人であれば食べるのには困らなかったでしょうが、養うべき大切なご家族がおりました。

 少しでも収入を増やすために、Sさんは大学での仕事を終えた後、夜遅くまでアルバイトに励んでいました。帰宅が明け方になることもありました。奥様は旦那さんの帰りを待たずに先に眠り、旦那さんよりも遅く起きる毎日でしたので、このことをご存知ないでしょう。それにSさんは奥様に余計な心配をかけないように巧みな嘘をついておりましたので、もし帰りが遅いことに気がついたとしても、何の疑念も持つことはなかったでしょう。

 ですが、Sさんの努力も虚しく、家計は毎月赤字続きだったようです。その原因は、奥様にも心当たりがあるのではないでしょうか。胸に手を当てて、よく考えてみてください。毎月の決められた予算の中で、きちんとやりくりできた月はどれだけありましたか? 出費を抑えてほしいという旦那さんのお願いに対して、どれだけ真剣に考えましたか? お子様の習いごとやら、通信教育やら、学資保険やら、子供に与えるお菓子やら、その気になれば節約できる要素は山ほどあったはずなのに、出費を減らすどころか、お金の使い道を考えることばかりに知恵を絞っていたのではないですか?

 確かにあなたは体が弱く、仕事も育児も思い通りにならないでしょう。でも、それとこれとは別問題なのです。あなたはご自身の不健康を理由にSさんに甘えすぎたのです。自分が楽になるのと引き換えに、Sさんを追い詰めていたのです。もしもあなたがSさんの異変に気付き、問題を共有して一緒に向き合ってさえいれば、彼が無謀な行動に走ることを未然に防ぐことができたはずです。あのときSさんが火災現場に飛び込んでいくこともなかったのです。これは単なる私の憶測かもしれません。ですが、どうしてもその考えを拭うことができないのです。

 私はあくまでもSさんの担当弁護士にすぎません。それ以上でもそれ以下の関係でもありません。ですが、同じ女性として、どうしても奥様にお伝えしておかなくてはならないと思ったのです。すでに手遅れだとしても、Sさんが生前に感じていた心の負担を奥様と共有しておかねばならないと思ったのです。そうしないとSさんも報われませんし、あなた自身のためにもならないと考えたのです。

 ところで、この世で一番の悪は何だと思いますか? 私は胸を張って答えることができます。それは〝自覚のない悪〟です。せめて自覚があるならば、その悪を正す機会はあるかもしれません。ですが、本人に自覚がない場合、あるいは、本人が良かれと思ってやっている場合、それを是正するのは容易ではないのです。身近なところで言うと、戦争などはそういった類かもしれませんね。正義のため、国民のためと謳いながら、利益を享受できるのは一部の権力者であり、血を流すのは国民なのですから……。同じようにあなたは、夫のため、子供のため、家庭のためと主張しながら、夫の首を後ろから締め上げていたのです。どうでしょう。違いますか? こうして旦那さんが死亡したという事実を前にしても、まだ言いわけが通用するとお考えですか?

 ですが、私は別にぐちぐちと不満を述べるために電話を差し上げたわけではありません。あなたが何をどう考えようが、私の人生には一切関係のないことですから。でもこのまま終わってしまっては、あまりにもSさんが報われないのではないかと思ったのです。生前、Sさんの口から言えなかったことを、お節介ながら私が代弁させていただいたのです。

 さて、話を元に戻します。ここからはお待ちかねの、遺言のお話です。Sさんは万一の事態に備えて、数年前から生命保険に加入しておりました。そして今回、不慮の事故に巻き込まれて帰らぬ人となりましたので、条件を満たし、あなたのもとに死亡保険金が下りることになります。金額は三千万円。Sさんが残した借金を返済しても二千六百万円ほど手元に残ります。これでしばらくの間はお金のことで気を揉む必要はなくなると思います。

 後日、生命保険の契約書をご自宅に送付いたしますので、書類に記載されている電話番号に連絡してみてください。すでに私の方から事情はお伝えしておりますので、手続きは滞りなく進むことでしょう。

 私からあなたに電話を差し上げるのは、これが最初で最後になります。旦那さんの保険金で生活しながら、私が話したことの意味についてしばらく考えてみてください。そして、どうすればこの先、同じ過ちを犯さないのか、想像していただきたいのです。すでに失ってしまったものを取り戻すことはできませんが、新たに何かを失うことは防ぐことができるはずです。まったく関係のない第三者がこうして出しゃばったことを申し上げるのは不躾であることは重々承知しております。それでも、どうか少しでもご理解頂ければと思い、後世まで恨まれるのを覚悟に、私はこのようなことを申し上げた次第なのでございます』

 電話を終えた後、Sの妻は、怒りでも後悔でもない、それまでの人生で味わったことのない不快感で心が一杯になった。自分と結婚さえしなければ、夫が死ぬことはなかったかもしれない。自分と出会いさえしなければ、夫が死ぬことはなかったかもしれない。自分がこの世に存在さえしなければ、夫が死ぬことはなかったかもしれない。全部自分のせいなのだと考えるようになった。

 これまでの人生、それなりに前向きに楽しく生きてきたつもりだった。そんな彼女が、自己の存在を全否定したのははじめてだった。もしかしたら、Sはいままでずっとこのような気持ちで暮らしていたのかもしれないと考えた。能天気で何も考えていなかった自分が恨めしかった。

 そんな彼女のもとに、さらに知らない人物から電話がかかってきたのは、それから半年後のことだった——。

『もしもし、Sさんの奥様でいらっしゃいますでしょうか。わたくしは半年ほど前に火災で全焼した老人ホーム施設〈けやきの森〉に入居していた者であり、Sさんに命を救っていただいた者の一人でございます。本来であれば直接お会いして、きちんとお詫び申し上げるべきだと思うのですが、情けないことに、わたくしは自由に体を動かすことのできない身で、歩くことはおろか、一人で電話することもままならないのでございます。電話するだけでも、誰かの助けなしには不可能なのです。しかし、こうしてご連絡を差し上げるのに半年以上の時を費やしてしまったのは、また別の理由があってのことでした。

 Sさんが亡くなられたと聞いた日、わたくしはひどく後悔しました。自分さえいなければ、Sさんは命を落とすことはなかったのかもしれないと思いました。このお詫びは死をもって償う他ないと思いました。奥様……あなたが感じていたのと同じように、自分さえいなければ、Sさんは悲劇的な運命を迎えずに済んだのではないかと考えたのです。わたくしは混乱しておりました。奥様とどう向き合えばよいのかわかりませんでした。怖かったのです。後ろ指を指され、非難されることを恐れていたのです。半年間、必死になって言いわけを探しました。あれは事故だったのだ。仕方なかったのだと。

 不思議なもので、逃げれば逃げるほど、問題というものは余計に大きくなって追いかけてくるものなのです。混乱する頭を抱え、わたくしは精一杯考えました。どのように謝罪するのが最も適切なのか。どうすれば、自己満足などではなく、お互いに納得のいく形で和解できるのか。そしてどうすれば悔いを残さず寿命を迎えることができるのかを。

 しばらくの間、わたくしは自分のことしか考えていませんでした。他人の目から良く見られるにはどう言いわけをするのがよいのか。ただそれしか考えていなかったのです。あなたへの謝罪の言葉が見つからなかったのは、結局のところ、自分の保身しか考えていなかったからなのでしょう。

 決心がつくのに半年間かかりました。そして、この気持ちが揺らいでしまわないうちにこの意志をお伝えしておこうと思い、本日、このようにして電話を差し上げたのです。

 さて、あの火災の件については、すでに警察から事情はお聞きになっていると思いますが、Sさんは、わたくしのように体の不自由な者たちを助けるために、自らの危険を顧みず、炎の中へと入っていきました。そしてそのおかげで、中に取り残されていた五名のうち、このわたくしも含めて四名の老人の命が救われたのでございます。

 しかし、命の恩人であるSさんの奥様に対してこんなことを言うのは失礼だとは思いますが、我々のように先の短い者など、最初から放っておいていただければよかったのです。今日一日生き長らえたとしても、そう遠くない未来に死にゆく身である我々に対し、Sさんは、人生のうちで最も脂の乗った年頃でしたし、必要としてくれる奥様とお子様たちの存在もありました。

 命の重さは対等だ、とは言い古された言葉ではありますが、今回の件は、その一言で簡単に済ませられる問題ではありません。Sさんとわたくしの命とではさすがに釣り合わないことくらい、この老いぼれでもさすがに理解しているつもりであります。命を救われた他の者たちがどう考えているかは存じ上げませんが、このわたくしに関して申し上げますと、これまでの人生には一片の悔いもありませんでした。やりたいことをやり尽くし、人間関係には恵まれ、金銭的にも何一つ不自由のない生活を送っておりました。もうすっかりこの世に満足していたのでございます。長年連れ添った妻はすでに亡くなり、子供達も立派に独り立ちしております。あとはあの老人ホームで、変わりゆく街の景色を目に焼き付けながら、お迎えが来るのをただ待ち続けるだけだったのでございます。

 そんな矢先に起こったのが例の火災です。奥様には申しわけありませんが、わたくしは、あのまま死んでしまっても構わないと考えていました。燃え盛る炎を眺めながら、〈嗚呼、この世に満足しているときに死を迎えることができるとは、何と幸せなことなのであろうか!〉とさえ考えていたのです。

 死を受け入れるつもりでいたわたくしは、助けの声をあげることもなく、ベッドの上で毛布を被り、誰にも見つからないように息を潜めました。万が一、消防士や施設の職員が助けにきても発見されないようにするためです。それに、このまま燃やされてしまえば火葬する手間も省けるだろうと、何とも不謹慎なことを考えたりもしました。そうやって、火の手が我が身に迫ってくるのを心待ちにしていたのでございます。

 そのときです。誰かの声が聞こえたのは。最初は、誰かが助けを求めているか、あるいは消防士が救助にやって来たのだと思いました。そのまま隠れていましたが、しばらくしても声がやまないので、毛布の中からこっそり周囲の様子を伺いました。すると驚いたことに、声の主は消防士でも施設の職員でもなく、見慣れないスーツ姿の男性でした。

 わたくしは驚いて、思わず声をかけてしまいました。〈こんなところで何してるんだ〉と訊くと、彼はわたくしの体を抱え、炎をかいくぐって施設の外へと救出したのです。その後、〈もう一人、中にいますので〉と言い残し、彼は再び炎の中へと入って行きました。もうおわかりだと思いますが、その男性こそがSさん、あなたの旦那様だったのです。

 もしもあのとき、毛布を被って隠れたりなどせず、素直に助けを求めていたら、Sさんは全員の命を救い、彼自身も無事に脱出する時間を十分に確保できていたことでしょう。わたくしが変な意地を張らなかったならば、あんなことにはならなかったのです。

 わたくしがSさんを殺したと言っても間違いではないでしょう。それなのに、図々しくも罪の意識から逃れようとしていたのです。どうですか? 殺してしまいたいほど、わたくしのことが憎いでしょう。殺したければ殺していただいても構いません。殺されても仕方のないことをしてしまったのですから……。わたくしは最低な人間なのです。この世に〝望まれた命〟と〝望まれない命〟があるとしたら、Sさんの方は当然ながら前者であり、わたくしの方は言うまでもなく後者でしょう。だからこそわたくしは、奥様にどう謝罪すべきか、ずっと悩んでいたのでございます。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、本当のことを申しますと、わたくしは別にこのような懺悔をするつもりでも、苦し紛れの言いわけを延々と続けるために奥様に電話を差し上げたのではありません。

 ようやくわかったのです。奥様が救われる方法が。そして、わたくしの中に渦巻く感情を晴らすことができる方法が。

 半年以上もかけて考え抜いた結論は、自分でも驚くものでした。あまりにも人の道に反しているものであり、わたくし自身が最も嫌う類の方法でした。

 それはお金でした。結局のところ、金銭で解決することがお互いに最も合理的であり、最善の選択であるという結論に至ったのでございます。でも、せめてもの言いわけをさせていただくと、これは安易に出した結論ではないということだけはご理解いただきたい。考え抜いた結果がこれなのです。だから、後生ですからどうか許してください。仕方がなかったのです。どんなにあなたが嘆き、わたくしが謝罪したところで、Sさんは戻って来やしないのですから。

 わたくしが他人より優れているものといえば、世間一般の方々よりも多少お金を持っている程度のことでございます。そして、これこそがいまのあなたが最も必要としているものだと考えたのです。

 実を申しますと、あなたのことを少し調べさせていただきました。奥様がいま、どのような生活をしているか。あなたが旦那さんの生命保険をいくら受け取ったのか。月々の出費がいくらなのか。これから先、働くあてがあるのかどうかも。

 あなたも薄々勘付いているとは思いますが、いまの生活はそう長くはもたないでしょう。お子様が習いごとを続けることも、高校や大学に進学することも難しいでしょう。

 つまりはこういうことです。Sさんの命の代償として、わたくしは奥様をいくらでも支援いたします。必要なときにいくらでも引き出すことのできる銀行口座をお譲りします。わけあって大金を入れることはできませんが、使った分の金額はすぐに振り込まれるようにしておきます。

 その代わりと言っては何ですが、あなたには旦那様のことを忘れていただきたいのです。過去の思い出など綺麗さっぱり捨て去り、これからは再び一人の女性として生きていただきたいのです。縁があれば、別の男性と再婚なさるのも良いでしょう。仮にそのような選択をされても、わたくしから支援の手を止めるつもりはございません——』

 その電話から数日後、Sの妻のもとに、暗証番号の書かれた紙と銀行のキャッシュカードが送られてきた。残高は百万円だったが、試しに引き出してみると、老人の言っていた通り、その翌日には減額分はしっかり補充されていた。

 それから彼女とその子供たちがどうなったのかは、誰も知らない。だが、彼女は間違いなく、一生かけても使い切れないほどのお金を手に入れたのである。かけがえのない夫の命と引き換えにして——」


 ローブの男の長い話を聞き終えた後、僕はしばらくその余韻に浸っていた。

 飛び抜けて頭が良いにも関わらず、その不器用さで周囲と馴染めず、自らの首を絞めてしまった哀れなS。誰が悪いわけでもない。世渡りが下手なSに非があるとは思えないし、彼の妻だって、別に悪気があって彼を追い詰めたわけではない。もしかすると、社会のシステムそのものが破綻していたのかもしれないし、たまたま彼らの運が悪かっただけなのかもしれない。

 彼はやはり火事に巻き込まれて亡くなってしまったのだろうか? そして、残された妻と子供は、それから幸せに暮らすことができたのだろうか?

 男の話は、何とも救いようのない話だった。バッドエンドで終わる映画を見た直後のような後味の悪さが、僕の胸に重くのしかかる。

「私からの話はこれでおしまいだ」とローブの男はため息交じりに言った。「さて、こうしている間に、君の体はそろそろ動くようになったんじゃないかな?」

 手足を軽く動かしてみると、男の言った通り、目覚めた直後に感じていたような痛みと痺れは、もうすっかり消え去っていた。その気になれば起き上がることもできそうだった。

「体は、何とか動かせそうです。でも何だか、とても眠たくて……」

 意識を失いそうになるのをこらえながら、男の顔を見た。フードで影になっていた口元を、焚き火の明かりが照らしている。ローブの男は森の奥を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。

「そうだな。日が昇るまで、まだしばらく時間はある。休めるときにしっかり休んでおいた方がいい」

 そのとき僕は気がついた。男の口には、歯が一本も生えていないということに。歯がないこと自体はそれほど珍しいことではない。僕の目を引いたのは、激しい凹凸で醜く歪み、赤黒く変色したその歯茎だった。

 僕の中の何かが強い警告を発している。しかしそれと同時に、強烈な睡魔が襲ってきていた。目を閉じれば、一瞬のうちに意識が飛んでしまいそうだった。本能に逆らえずに、重いまぶたを閉じる。

 そういえば、長い話を始める前に、ローブの男はこのようなことを言っていた。

「私がここにいられるのは、そう長くはない。しかし君に伝えなければならないことは山ほどある。ここはどこなのか。君の身に何が起きたのか。私は誰なのか。そして彼女がどこにいるのか——」

 だが男は、この場所がどこなのか、僕の身に何が起きたのか、ローブの男が何者なのか、そして左右対称の顔の女がどこにいるかについて、まだ何も話していない。にも関わらず、男は「これで話はおしまいだ」と言った。

 おしまい? 終わる以前に始まってもいないじゃないか? 男は見ず知らずの夫婦についての話を長々と語っただけだ。僕が聞きたかった話は何一つ聞けていない。

 もう一度、話を聞かなければ。

 薄れゆく意識の中で精一杯考えていると、突然、どこからともなくローブの男の声が聞こえてきた。

「……ここから先は、君がこれから見る夢の中で語られるだろう。眠気に身を任せ、安心して眠るがよい。だが最後にこれだけは覚えておいてほしい。夢は、君たちにとって重大な意味を持っている。それは常に何か重大なことを示唆しているのだ。だから、単なる夢だからと軽んじて考えてはいけない。注意深く観察し、よく分析しなければならない」

 男の言葉を頭の中で反芻しながら、僕は、四歳の頃に見た《砂漠の無人駅》の夢を思い出していた。夢の中で、どこからともなく現れた見ず知らずの男……。男は、薄汚いうぐいす色のローブを身につけ、骸骨のような干からびた顔をしていた。

 そう言えば、夢の中で僕は一度だけ、この男と目が合ったことがある。そのとき男は不気味な笑みを浮かべていた。きっと本人は優しく微笑んだつもりだったのだろう。しかし、開いた口の中から見える醜く歪んだ歯茎が、気味の悪さを余計に際立たせていた。男の口には、歯が一本も生えていなかった。

 そのとき、僕は確信した。ローブの男の正体が誰なのか。そして彼が、Sとその妻の話を詳しく話すことができた理由も。

 Sについての話を始める前に、男はこう言っていた。

「彼は昭和五十六年三月一〇日、この世界に誕生した。そして彼は三十七歳のときに自ら命を絶とうと心に決め、そこから二度目の人生を歩み始めた」と——。

 しかし話の中で、Sが二度目の人生を歩み始めるような描写はなかった。つまり、あの事故の後も、Sはどこかで生き続けていたということになる。運良く生き延びたのではない。彼は最初からそうするつもりで炎の中に入っていったのだ。自分の死を偽装して保険金が妻に支払われるようにし、彼は何者でもない誰かとして、第二の人生を歩み始めた。そして、その人物こそがローブの男だったのだ。彼こそが、僕が幼い頃に見た砂漠の無人駅の夢に登場した男であり、S本人なのだ。

 謎が解けたと思った瞬間、今度はそれ以上に大きな問題が僕の頭を悩ませた。どうしてローブの男は僕の夢の中に登場したのか? どうして自分の妻の話を僕に聞かせたのか? いったい、僕にどんな関係があるというのか?

 しかし、男の声は、もう聞こえてくることはなかった。

 僕はそのままなすすべもなく、深い眠りに落ちていった。


 夢の中で、僕は燃え盛る炎と煙の中を彷徨っていた。大量に汗を流しながら、病室のように並んでいる部屋の中を一つ一つ順番に覗き込んでいる。そしてときどき、大声で何かを叫んでいた。やがて、ある部屋の中から、一人の老人がこちらに向かって手を振っているのが見えた。僕は叫ぶのをやめ、その部屋の中へと入った。

 老人はベッドの上に寝たまま、こちらを見て言った。「例のものは用意できましたか?」

 僕は何も言わずに小さくうなずいた。それから、スーツの内ポケットから小袋を取り出し、老人に手渡した。老人は袋から中身をひとつずつ取り出して手のひらに乗せ、満足そうに頷いた。

 袋に入っていたのは、人間の歯だった。一本や二本ではない。前歯から奥歯まで様々な形状の二十数本の歯が詰め込まれていた。それが誰のものなのか疑問に思ったが、僕はそれを確かめるすべを持っていなかった。一挙一動が自分の思い通りにならなかったからだ。

 中身を一通り確かめ終わった老人は、不気味な笑みを浮かべて立ち上がった。そして老人は言った。「あとはこちらでうまくやっておきますので、あなたは裏口から脱出してください。それでは十分後、例のガード下で待ち合わせしましょう」

 僕はうなずいて、部屋を出た。いまにも炎で崩れ落ちそうな通路を抜け、裏口の重い扉を力一杯開くと、冷たい風が体を包み込んだ。外に出ると同時に、先ほどまで僕がいた建物は大きな爆発音とともに倒壊した。炎が舞い上がり、熱風を周囲に撒き散らしている。

 裏通りを走って駅のガード下に入り、柱の陰に身を隠した。車のヘッドライトが自分の姿を照らすたびに怯えるように震えた。そのとき僕は自分がスーツを着ていることにはじめて気がついた。いつも会社に着ていくスーツだ。でも、僕はどうしてこんな格好をしているのだろう?

 十分ほど待っていると、先ほどの老人がやってきた。それから、付いてくるように首で合図するので、僕は黙って老人にしたがった。駅のガード下を出て繁華街を抜けると、今度は静かな住宅街へと入っていった。新築の一軒家が立ち並ぶ通りを歩いていると、ときどき子供の楽しそうな声が聞こえてきた。

 老人の後ろを付いていきながら、この夢が何を意味しているのか、僕は徐々に察し始めていた。これはまさにローブの男が話していたSの話、つまり彼自身の話の中だった。聞いていた話とはまったく異なっていたが、僕は夢の中で、Sとして行動していることを理解した。僕が思っていた通り、やはり彼はあの火災で自分の死を偽装したのだ。そしてこれから、第二の人生を歩もうとしている。

「着きましたよ」

 そう言って老人が立ち止まったのは、メゾネットタイプの借家の前だった。玄関に掲げられている表札には「日並」と書かれている。

 その意味を僕が考えるよりも早く、老人は再び口を開いた。

「最後に、あなたのご家族の姿を目に焼き付けておいてください。これからあなたの新たな人生が始まります。そのためには、いまのあなたは消えなければならない。だから、あなたがあなたでいるうちに、しっかりと思い出に刻んでおくのです」

 僕は裏庭へと回り、カーテンの隙間から家の中を見た。Sの妻と思われる女性と小学生の男の子、それから三歳くらいの女の子が三人でダイニングテーブルを囲んでいた。少しだけ開いている窓から、中の会話の様子が聞こえてくる。

「パパは今日も遅いの?」聞いているのは男の子だった。

「そうね。今日も遅いみたい」答えたのはSの妻と思われる女性だ。「パパは私たちのために一生懸命働いてくれているの。だから感謝しなくちゃね」

「えー、さみしいなぁ。早く帰ってこないかなぁ」と男の子は言った。女の子の方はよくわかっていないのか、食事には目もくれずに、テーブルの上に人形を並べて遊んでいる。

 その様子をガラス越しに眺めながら、僕は涙を流していた。涙の理由はわからない。見ず知らずの家族の団欒を見て心が動かされるほど、僕は感傷的ではないはずだった。

 Sの妻は、この時点では何も知らないのだ。何も知らずに夫の帰りを待ち続け、やがて警察に捜索願を届けることになる。そして一週間後、警察からの電話で、夫が火災に巻き込まれて亡くなったことを知らされるのだ。

「では、そろそろ参りましょうか」

 老人の言葉を合図に僕はその場を後にした。

 歩きながら、三人の様子を頭に思い描いた。あれは本当に幸せな家族の図だった。僕がいままで味わったことのない理想の家庭像。フィクションの中でしかありえないと思っていた家族の温かさがそこにはあった。

 空を見上げた。星たちが弱々しい光を放ちながら不安そうに漂っていた。そこに月は出ていなかった。まるで二度とその姿を表すまいと心に決めているかのようだった。

 いまこの瞬間に、Sは死んだのだ。死んだと言ってもあくまで戸籍上の話で、実際にはこうして生きている。しかし、元の生活に戻れないことは即ち死を意味しているのだ。彼は自分自身の遺体を捏造するためにすべての歯を抜いた。先ほどから一言も発しないのは、彼の口の中にはまだ生々しい傷が残っているからに違いなかった。話さないのではなく、話せないのだ。

 裏庭から玄関の前に戻ると、街灯の当たっていない物陰に一台の黒塗りの車が停まっているのが見えた。車の前で黒ずくめの男が後部座席のドアを開けて誰かを待っている。老人は何も言わずに車に近づき、助手席のドアを開けて中に入っていった。僕もまた、黒ずくめの男が開いているドアから後部座席へと乗り込む。中には黒ずくめの男がもう一人、すでに座っていた。先ほど外に立っていた男も後部座席に乗ると、僕は二人に挟まれる形になった。そして、右側に座っている男が、僕の腹のあたりに硬く冷たいものを当てた。

 それが何であるのか、僕はすぐに察した。

 黒ずくめの男に銃口を当てられ、抵抗する間も無く、僕はもう一人の男に布のようなもので顔を覆われた。ただでさえ暗いのに、これで視界は完全に閉ざされてしまった。助手席に乗った老人は、抑揚の欠いた声で話し始めた。「これから、あなたをご主人様のもとへとお連れいたします。そこであなたは、第二の人生を生きるのです」

 僕は恐怖で身動きが取れなかった。老人は声色を変えることなく、そのまま話を続ける。

「なあに、心配ございません。お約束通り、ご家族の生活は保障されますし、ご自身も、これからは何一つ生活には困らないでしょう。これからは大好きな研究のことだけを考えて生きていけば良いのです。お金や人間関係のようなややこしい問題にいちいち頭を悩ます必要はなくなるのです。ただし、こちら側の条件にしたがっていただけない場合は、その時点でご家族への支援は打ち切られますし、あなたは戸籍上だけでなく、本当の意味で死を迎えることになりますがね」

 腹部に当てられた無機質な感触が、より一層、冷たく感じられた。

「家族を守ってもらえるのであれば、僕は何でもします」

 言葉を発するたびに鈍い痛みが歯茎に走った。鼻をつくような鉄の匂いが、口の中に充満する。

 老人は声を上げて嬉しそうに笑った。「そうおっしゃられると思いました。あなたがご自身の歯を本当に抜いてきた時点で、わたくしは確信しましたよ。この人の決心は揺るぎないものだとね。この人は信用に値する人だと。さて、これで安心して、わたくしもあのお方に顔向けができるというものです」

 やはり先ほどの小袋に入っていた歯は、すべてこの肉体の持ち主であるSのものだったのだ。ローブの男が口を開いたときに見えた赤黒い歪んだ歯茎が脳裏に浮かぶ。

 それから僕はヘッドホンを耳に装着され、注射のようなものを右腕に打たれた。意識が朦朧となり、睡眠と覚醒の間を何度も行き来した。夢の中にも関わらず、目覚めと眠りの感覚があるのは不思議なことだった。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。ヘッドホンが外され、顔を覆っていた布が取り除かれると、太陽の位置はすでに正午を過ぎていた。僕は見知らぬ場所に連れてこられていた。広大な針葉樹林の森を背にして、中世ヨーロッパの貴族が住むような豪邸が、目の前に堂々と構えている。

 黒ずくめの男たちに連れられて、僕は屋敷の中へと入った。あの老人はいつのまにか姿を消していた。玄関に入って正面のところに、踊り場のある大きな階段があった。導かれるまま二階へと上がる。外装だけでなく内装も、西洋の屋敷のような荘厳な雰囲気を醸し出していた。通路には赤い絨毯が敷き詰められ、階段の踊り場には重々しい甲冑が飾られていた。二階の通路は肖像画の入った額縁が一定間隔に並んで掛けられている。

 通路を進んで突き当たりにある部屋に、僕は通された。埃っぽい四畳半ほどの部屋の中に、本棚と机、それから一人掛けのソファーが所狭しと置かれていた。三日月形の小さな窓から差し込む光が、暗い書斎に仄かな輪郭を添えている。

 なすすべもなく佇んでいると、ドアの向こうから、何者かの足音が聞こえてきた。その音は、この部屋に向かって近づいてきている。僕は息を殺してやりすごそうとしたが、その足音はドアの前でぴたりと止まった。それから、一呼吸空いてから、トン、トン、トンと三回、礼儀正しくノックされた。

「はい」と僕は言った。声が震えるのが自分でもわかった。ドアが開き、中に入ってきたのは、身長一九〇センチメートル超はあろうかと思われる長身の男性だった。髪はしっかりとセットされ、見るからに高級で手入れの行き届いたスーツを身に付けている。ネクタイは締めていない。人懐っこそうな純粋な瞳で、彼はさやわかに笑った。しかし、強すぎる香水の匂いで、僕は思わずむせ返りそうになった。必要以上に先の尖った革靴を素足のまま履いている。

 以前、駅のコンコースで仕事帰りの僕を待ち伏せしていた黒ベストの男——外見も話し方も、彼と同一人物だった。見た感じ、あのときと年齢はそれほど変わらない。だが、彼の話しぶりは、まるで僕とは初対面のようによそよそしかった。

 考えてみればそうだった。僕はいま、夢の中でSとして生きているのだ。彼が僕のことに気づくはずはない。問題は、Sの夢の中になぜこの男が登場するのかということだ。

「どうも、初めまして。『日本アウトベイティング』代表の等々力敦史と申します」そう言って男は名刺入れから名刺を取り出した。名刺の上部には、砂時計をモチーフにしたと思われるシンボルマークが描かれている。「この度は、私のお誘いに快く応じていただきありがとうございます。日並響さん、あなたのお噂は、随分前から伺っております。あなたが書いたどの論文も素晴らしかったのですが、特に、宇宙が無数に存在することを裏付けた、あの論文を読んだときは、いままでにないくらいの衝撃を受けました。あなたの論文によって、それまではサイエンス・フィクションくらいでしか真剣に取り上げられなかったマルチバース理論を、世界中の物理学者たちが真剣に議論するようになったのですから」

 等々力は興奮した様子で上着を脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた。予想していた通り、上着の下には無駄に光沢の施された黒いベストを身に付けている。

 しかし彼が嫌味たらしい黒いベストを身に付けていることは、もはやどうでもよかった。先ほど彼の口から発せられた言葉が聞き間違いだったのか、僕は自分の耳を疑った。等々力は間違いなく、僕のことをフルネームで呼んでいたのだ。

 僕はいままで、ローブの男の過去を夢の中で追体験しているものだと思い込んでいた。いや、間違いなく途中まではそうだった。疑い始めたのは、Sの家族が住むメゾネットの表札を見たときからだ。表札に刻印されていた「日並」という苗字。全国的にも、それほど多いものではない。偶然とはいえ、その苗字が、Sの追体験としての夢の中で登場した時点で奇妙な話だったのだ。

 だけど、ローブの男がSであり、そしてSが僕自身なのだとすると、それなら僕はいったい、誰なのだろうか?

 黒ベストはそのまま話を続ける。 

「そして日並さん、あなたはこの人類史を大きく覆すことになるかもしれない大発見を成し遂げました。我々人類の手によって、新たに宇宙を創造する方法を——。ですが、その具体的な手法を記した論文はまだ世に出ておりません。その論文はどこにあるのか? あなたの頭の中です。私は知っているのですよ。あなたがその論文を世に出さずに墓場まで持って行こうとしているのを。しかし、そう簡単に事は運ばないのですよ。その論文は、必要とする人の手元に置かなくてはいけない。そのために私はあなたに救いの手を差し伸べたのです。もうおわかりですね? あなたの論文と引き換えに、ご家族の幸せを保証すると言っているのです」そして等々力は両手を広げて言った。「さあ、あなたのすべてを私に差し出してはいただけないでしょうか?」

 そのとき僕は思い出した。左右対称の顔の女が僕のマンションを訪ねてきた日、彼女が話していたことを。

「私たちは〝新たに宇宙を創り出す方法〟さえも見つけてしまったのです。ですが、それらの万能とも言える能力を手に入れたことで、私たちは大切なものを失いました。そして私たちは、永遠に続く地獄の中で過ごすことになりました。そこには希望はなく、絶望しかありませんでした」

 どうしてかはわからないが、僕はいま、〝新たに宇宙を創造する方法〟を発見した張本人になっている。だとすれば、もしかするといまこの瞬間がターニングポイントになっているのではないか。ここで僕が黒ベストに秘密を漏らしさえしなければ、絶望の未来はやってこないのかもしれない。永遠に続く地獄のような日々に、麻衣さんが苦しむこともなくなるかもしれない。僕はいま、過去の重大な瞬間にいるのだ。だから僕は、ここで過去を変えなければならない——。

 意に反して、言葉が勝手にこぼれていく。

「わかりました。僕のすべてを等々力さんにお伝えします。だから、どうか家族のことは守ってほしい。この命に代えてでも、妻と子供を守りたいのです。時間さえいただければ、僕の頭にある内容を論文として書き起こすことは可能です。ですが、その方法を実践するには、いまの我々の科学力では不可能でしょう。まだまだ、気が遠くなるほどの時間がかかると思います。おそらく私たちが生きている間は不可能ではないかと——」

 ここで黒ベストは話を遮った。

「だからあきらめろと? あなたも科学者なら、できない理由を探す前に考えられる可能性を考え抜くべきではないですか? 気が遠くなるほど時間がかかる? 生きている間は不可能? まあ、そうでしょうね。普通の人間ならそう考えるのも仕方ないでしょう。しかしあなたは普通の人間ではない。この私ですら嫉妬するほどの、現代を代表する天才の一人なのです」等々力は興奮した様子だった。「宇宙を創り出すくらいですから、人間の一生などという小さなスケールで達成できるだなんて、最初から私だって考えていませんよ。時間が足りないのであれば増やせばいいのです。言っている意味はご理解いただけますよね? 我々の寿命の方を伸ばせば、時間の問題は簡単に解決するのではないかと、私はあなたに建設的な意見を申し上げているのです」

「でも、医学は僕の専門分野ではありません」

 等々力は見下すような目で僕を見ている。「天才に専門もクソもないでしょう。黙って私の言う通りにすればいいのです。あなたにはもう、選択する余地などないのですからね」

 その言葉を聞き終えた瞬間、僕の夢は突然、速度を増した。時間が不連続に飛び始め、断片的な映像となって視界に飛び込んでは消えていった。まるで一つの映画の内容を数分間にまとめたダイジェストを見ているかのような気分だった。

 翌日から、僕はその書斎で研究に打ち込んだ。黒ベストに言われた通り、物理学の分野から一時的に離れ、医療の分野に足を踏み込んだ。専用の実験室と優秀な助手があてがわれ、研究環境としては申し分なかった。日が昇る前に起きて、深夜二時過ぎまで研究に没頭した。そのようなな生活を何十年と続けた。

 そしてある日、僕は人類の長年の夢である不老不死の技術を発見した。細胞のライフサイクルが永遠に続くように改良し、それでいて柔軟な適応力を備えることで、不老不死でありながらも進化し続けられるという、生命の背反事項さえも超越することを可能にした。

 それにより、人類から〝寿命〟という概念が消えつつあった。だが最先端科学の恩恵を享受できたのは一部の富裕層だけだった。普通の人間は、彼らに長寿を与えるための使い捨ての実験台にすぎなかった。

 世界を掌握したのは、特定の政府でも国連機関でもなく、資金と影響力を持つ個人と企業になっていた。中でも『アウトベイディング』は不老不死技術の利権によって膨大な利益を手にしていた。等々力は世界有数の資産家になった。これもすべてSの天才的な頭脳がもたらしたことだった。いうまでもなく、等々力は永遠の命を手に入れ、Sもまた彼に生涯を捧げるために永遠に生かされた。そして、新たな宇宙の創造に向けて、研究漬けの毎日を送っていた。

 夢はさらに速度を増していく。映像はさらに不連続になり、断片的なイメージが僕の頭の中に投影される。

 地球の資源が尽き始めると、人々は宇宙へと進出するようになった。何百年、何千年とかけて宇宙を航行し、他の惑星から採掘した資源を地球へと持ち帰った。やがて地球環境に近い惑星を居住地とする者も現れた。このようなことを繰り返して、人類は宇宙を開拓し、何千億もの銀河を超えていった。そしてついに人類は、〝観測可能な宇宙〟の限界地点にまで到達した。かつて地球上で開拓を繰り返した人類は、宇宙も同様に開拓し、ついにこれ以上進めない地点にまで来てしまったのだ。この世界から未開拓地が無くなってしまうことは、つまり、限りある資源を奪い合うための戦争が始まることを意味していた。そして、それは現実になった。

 人間は再び略奪を始め、全宇宙を巻き込む戦争に発展した。しかしそうしている間にも資源は枯渇し、人々は自らの首を絞めていく。

 中には、観測可能な宇宙の外側に目を向けたものたちもいた。宇宙の外側に行くことは容易ではなかった。そのためには自らの肉体を捨て、精神だけを転送する必要があったからだ。残されるのは抜け殻になった肉体だけであり、切り離された精神がどうなったのかを第三者が知るすべもなかった。

 もはや、この宇宙で人類が存続するために残された手段は、再び原始的な生活に戻るか、あるいは新たな宇宙を創造し、そちら側に移住することだった。だが人類は、原始的な生活に後戻りできる体ではなくなっていた。永遠の命を維持するために、貴重な資源を常に肉体に取り込み続ける必要があった。文明を持ち始めた頃のように、肉や穀物を摂取するだけでは生命を維持することはできなくなっていた。人類に残された手段は、新たな宇宙を創造し、そこで新たにやり直すことだった。

 気が遠くなるほどの年月を経て、ついにその方法を実用化する段階にまで至っていた。しかしそのためには大きな犠牲を払う必要があった。宇宙を創造するためには、宇宙と同様に十一次元の構造を持つ物質を利用する必要があったのだ。

 その物質とは——人間の〝脳〟だった。脳細胞の樹状突起が鎖のように細胞同士をつなぐ様子は、多数の銀河の集団が鎖のような「ネットワーク」でつながる〝宇宙の大規模構造〟と酷似していたのである。

 Sは自身の体を犠牲にして、その実験を遂行した。肉体を捨て、自らの脳の中に新たな宇宙を創造したのだった。

 Sの実験は成功した。彼は肉体を失った代わりに、自分の中にもう一つの宇宙を作り上げた。脳の中に広大な宇宙空間を高次元圧縮し、彼自身の中に収めたのだ。

 彼は宇宙の創造神になった。

 ここで僕は、すべてを理解した。

 僕がいままで生きていた宇宙は、僕自身が作り出した宇宙そのものだったのだ。遥かに文明が進んだ世界で、かつての宇宙を思い描いて創ったもう一つの世界。そしておそらくその世界の中で、僕はSの望み通りの人生をやり直しているのだ。大切な妻と子供と離れ離れになり、自身の研究によって宇宙の命運を大きく左右させてしまった過去を、自らの手でやり直すために。

 僕は、はじめて左右対称の顔の女と会ったときに彼女が言っていたことを思い出した。

「実はこれまでの人生は、すべてあなた自身が『選択した』ことだとしたらどうしますか? あなたが恵まれない境遇と考えている、生まれた環境、親、国、時代——そのどれもが、言葉通りあなた自身で『選択した』ものだとしたら」

 Sは、彼自身の天才的な頭脳を恨んでいた。あの頭さえなければ、もっと人間らしく生きられると考えていた。世間をうまく渡り歩き、ごく普通の一般的な幸せというものを手に入れられると思っていた。

 だが実際にはそうではなかった。僕は頭は良くないが、世渡りもけっしてうまいとは言えない。親友と呼べる友達もできなかったし、恋人だっていない。つまりは「頭が良すぎるから」というのは、自分にとって都合の良い単なる言いわけに過ぎなかったのだ。

 左右対称の顔の女は、きっとこのことを僕に伝えたかったのだろう。僕の生まれた宇宙は、他ならぬ僕自身が創り出したものであることを彼女は伝えたかったのだ。そして、その宇宙の中で、僕がどのような結末を迎えるのかも知っていたに違いない。些細なことで自身を追い詰めて、死を選択することを彼女は知っていたのだ。でも、どのようにして彼女はこのことを知ったのだろう?

 自分が創り出した宇宙を神のように俯瞰しながら、僕の意識は徐々に遠のいていった。そろそろ目覚めのときが近づいているのかもしれない。目まぐるしく流れ去った時の流れに終止符を打つべく、僕は心を無にした。果てしなく深い海の底から、意識が一気に引き上げられていく——。


 目が覚めると、森の中にいた。ローブの男と会った、あの深い森だ。すでに夜が明け、太陽は高く昇っている。深い眠りから覚めたにも関わらず、意識ははっきりしていた。

 ローブの男の姿はもうどこにも見当たらなかった。焚き火の跡だけが、彼と会ったことが夢ではないことを物語っている。

 左右対称の顔の女は言っていた。

「私たちは文字通り、万能の存在になりました。そして私たちは、自分たちの宇宙のことを全宇宙の《原点》であるとして、〝オリジン〟と呼びました。すべてのはじまりである《原点O》と」

 僕は、自らが創り出した宇宙から抜け出し、すべてのはじまりである宇宙——原点Oにやってきたのだ。

 この先に何が待ち構えているのかはわからない。だけど、これだけは確信がある。幼い頃に見た砂漠の無人駅の夢は、この先に進むためのプロローグに過ぎなかったのだ。

 僕は立ち上がり、深緑の森の中に入った。そよ風が木の葉を揺らし、甘い緑の匂いを運んでくる。差し込む木漏れ日が苔に鮮やかな明暗を付け、刻一刻と森の表情を変化させた。生と死の両方を感じさせる幻想的な森は、かつて訪れた青木ヶ原樹海そのものだった。

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