ある秋の日の話

くまみつ

ある秋の日の話

オオカミがでたそうだ。

ヒゲがもじゃもじゃの熊のような男がすっかり慌てて報告に来た。


「み、みどり色でよ。で、で、でっけくてよ。」ということらしい。


僕は日誌に「緑色」と書きこんだ。


月曜日の朝だというのに日誌にはもう書き込みが三つもある。僕は鉛筆を削りなおして「でっかい」と書き足した。これで四つ。


熊のような男は僕が日誌に書き込んだオオカミ情報「でっかい」をじっくりと確認し、何か難しい顔で指を折って数を勘定し始めたと思ったら口をパクパクして天井を睨みつけたりひとしきり色々やって、それからおもむろに「い、い、いっげね!」と大きな声で言って。

意外と柔らかそうな、特大のハンバーグみたいな手をぽんと叩き合わせたかと思うと大慌てで席を立って振り返りもせずに外へ出て行った。

落ち着きがない。


僕は男の座っていた椅子を元の位置に戻して、飲みかけの珈琲を片付けた。それからしばらくぼんやりと男が出て行ったドアを眺めて、窓から見える景色を眺めた。銀杏いちょうも葉を散らし、すっかり秋の様子だ。

時折ゆっくり頬をなでるように空気が動いているけれど、ほとんど風もない。


見上げると、空から光の粒が降りてくる。

太陽からの長い旅路を終え、ついに地球にたどり着いた光の粒は、平和な秋の道の黄色い枯葉の上にしんしんと降り積もる。細かく挽きすぎた大量の白い小麦粉が空から降ってきているみたいにはらはらと、延々降り続けている。

永遠が降り積もっていく。

時間がゆっくりと流れる。秋は良い。

 

どうやら時間が空きそうなので僕は目玉焼きを作ることにした。

ここには毎朝新鮮な卵とベーコンが届けられるのだ。この仕事を引き受ける時に条件として伝えておいたから。


「わかりました。引き受けましょう。そのかわり、毎朝新鮮な卵を届けて下さい。できれば新鮮な胡椒と、脂ののったベーコンも。」


おかげで毎朝僕はとびきりうまいベーコンエッグを食べることが出来る。

卵はさっきニワトリのお尻から飛び出してきたばかりみたいに新鮮そのものだし、胡椒は鼻から煙がでるくらい良い香りがする。それになんと言っても絶品のベーコン。


分厚い鉄のフライパンを火にかけてしっかりと温めてから、座布団みたいにぶあつい絶品ベーコンを2枚並べる。たちまちおいしい煙が立ち、脂がぜる。

煙突から流れ出る香ばしい脂の匂いが風に乗って向こうの山でオオカミが遠吠えをする。すごく切ない声で。


「べエエエー、コオオーン!(やまびこ)オオーン、、オオーン、、」


世界中探してもこんなにうまいベーコンエッグを出す店はない。


しばらくするとココンと小さくドアがノックされてとても小さな人が入ってきた。

小さな人はドアを閉めて丁寧にお辞儀をした後、てくてくと小さく歩いて、よじ登るみたいにしてイスに座ってからもう一度小さくお辞儀をした。


小さい人はとても不思議な音をたてて歩く。一歩歩くごとにまるで小さなカエルが小さなゲップをしているみたいな切ない音がする。

け、ぷ。け、ぷ。右、左、右。

小さな蛙が靴の中で、リズミカルにゲップをしている。


不思議なものだ、と思ってじっと見ていると小さい人は小さい手を机の上に乗せてつぶらな瞳でじっとぼくを見上げる。そしてやがてどんぐりぐらいの小さな咳ばらいをひとつして(「こほん」)「はい。わたしがおおかみを見た、です。」と小さい小さい。耳をすまさないと聞き取れないくらい小さな声でそう言う。


小さい人の声の音は、小さい人の口の動きから少しだけ遅れて聞こえてくるような気がする。近くにいるのにとても遠くにいるみたいに。まるで遠くの町にいる人とたくさんの衛星を中継して話をしているみたいに。


不思議に思って、小さい人の口をじっと見ているとなにか吸い込まれていきそうな気がしてくる。

口が動いて、音が聞こえてくるまで。わずかなそのすき間をじっと耳をすまして小さい人の口元を見つめていると、時間が拡大していくようで息をするのも忘れてしまう。


気を取り直して立ち上がり、コンロの火を消してフライパンに蓋をして。大きくひとつ息をついてから日誌の前に座り、鉛筆を握って話を聞く。


「おおかみ。こんなに大きく、て。」と小さな人は小さな両手を広げて言う。

「おおかみ。こんなに、大きくて。おおかみ。こんなに。大きなおおかみ。」

そして自分の広げた手をみて、それから僕の目を見て、急になにかに気付いたみたいに笑顔になる。ムクムクと元気に目をかがやかせる。


ああ!そうだ。そうそうそう。そうだそうだ。

そうそうそうそう!


とっても大きいオオカミを見たんだった。最初見た時は山かと思ったんだった。山が歩いてるのかと思ったんだった。山にふさふさのしっぽが付いているのかと思ったんだった。そうだったそうだった。それですごいびっくりしたんだった。そうそうそう。すごいすごいびっくりしたんだった。


「おおかみ、でした!とてもとても大きなおおかみ、デシタ!」

小さい人はもう小さい声でなくなっている。とてもしっかりとした声がどんどん大きくなって。「こんなに、こんなに!もっともっと、こんぐらいに大きく。」


小さな人はぐっと胸を張って腕を広げようとしている。


「こんなに。こーんなに!こーんなに。こーんなになぐらい!」


わずかに遅れて聞こえていた声もだんだんと小さい人に追いついてくる。小さい人はしゃべるごとにどんどんたのしそうになっていく。口を開くたびに子犬が笑ってる感じのスタンプが空中に湧き出してくる。ぽこぽこした音とともにスタンプが湧き出てくる。どんどんどんどん湧き出してくる。まるでにぎやかなシャボン玉みたいに。


小さな人は真っ赤なほっぺで腕を広げているけれど、どうしても今日のオオカミを表現するには足りないようで。両手の先にある宇宙にまで手を伸ばそうとしている。


「わかりましたわかりました。それはこれくらい大きかったのですね。」

僕は手を広げて見せる。

部屋の空気がわくわくしてきている。少し眩暈がするような気がする。小さい人がこの部屋の空気を黄色とオレンジに塗り替えている。


小さい人は僕の両手の指先を交互に見て僕の顔を見る。目をキラキラさせて、ぱちぱちさせて僕を見ている。


「ええ!ええ!そうです。いえ!いえいえ。いえいえいえ。もっとです!もっともっとです。もっともっともっとだと(だと)、思います!(思います!)」


小さい人は小さいままでどんどん大きくなる。あのガンダルフがビルボの家ですごい怒った時みたいに。ぐんぐん存在感が増していく。

声も。ついに小さい人を追い越して、口を開く前に僕の鼓膜が震えている。音の壁をこえて、二重に重なって聞こえてくる。


「もっともっと、もっともっともっと。もっともっともっともっともっともっと、、」


口から色とりどりの音符が飛び出し、やがて小さい人の後ろで花火が上がりだす。リボンをくわえた白い鳩がいっせいに飛び立つ。


続けざまに。大きな拍手と大歓声がおきる。目の前で無数の火花が爆ぜる。夜の空が宇宙の誕生のようにきれいで。無数のミラーボールが回りだし光のシャワーが降り注ぐ。ああ、なんてきれいな宇宙なんだ。まるで花火の爆発するその中心で、四方八方に広がり瞬く火花を見ているような。なるほどな。これは、ちょっと、ダメだな。


これはダメだ。この小さい人は普通じゃないな。気付いた時には手遅れで。気付いた時には手遅れてありました。フェードアウトする僕の意識。そして、


(時空がぐにゃぐにゃとゆがむ)


ポン!(にわとりのお尻から卵がでてきた音)

はい。昔の力士はとても大きかったのです。いまでは考えられないぐらいとんでもなく大きかったのです。その昔、僕はおばあちゃんに教えてもらいました。


畳。色の褪せた座布団。古い木材のにおい。おばあちゃんの家の匂い。


「昔の力士いうたらな、まあそうやな。控えめにに言うてもそこら走っとるあのバスぐらい大きいかったでな、あのバスよりひとまわりもでっかいのもおったぐらいでな。あん人らのぶつかり稽古いうたら、土俵の真ん中でぶつかるたんびに裏山が崩れたみたいな音がしとったもんよ。」


「まじか!すげえな!そんなことあるんかばあちゃん。そんなでっかい人おるんか。あのバスよりでかいて、それ土俵よりでかいで。そんな力士さんおっても相撲取れんで。」


「そこよ。不思議なことよなあ。土俵よりでっかい力士がふたりでな。どんがらがっしゃん。相撲を取りよってな。まあぶつかるたんびに地震か思うぐらい揺れて揺れて。あっちのほれ、田辺たなべの駅の方まで揺れとった言うぐらいでな。田辺の駅がそのせいで屋根の瓦が全部落ちてしもた言うぐらいでな。」


「そんなことあるんかばあちゃん。田辺の駅の瓦が落ちるんやったらこの辺の家の瓦、いっこも残らんと全部落ちてしまうで。そらもう屋根ごと落ちてまうで。えらいことなるで。」


「ほんまに不思議なことよな。この辺の瓦はそれがいっこも落ちやせんでな。田辺の駅の瓦だけ落ちよるんよ。どーんとぶるかるたんびにぽろーん言うて一個ずつ落ちるんよ。」


「まじかばあちゃん。田辺の駅言うたら、とうちゃんも毎朝使いよる駅やで。いつもようけ人が出たり入ったりしよるで。ぶつかるたびにたちまち瓦落ちとったら危のうて仕方ないで。人にほら、頭に瓦が当たって怪我しよるで。」


「それよな。ぶつかってたちまちやのうてな。ここで力士がぶつかってな、その振動いうんか、どーんいうてあの地面のぶんぶんがな、田辺の駅にたどり着くまでちょっと時間がかかるんやな。力士がな、どーんとこう、ぶつかるやろ?どーん。わさびめし、かえるのはらをなでませば、いくどもでませ、かえるよもあれ。そんでから瓦がぼろーん。こんな感じや。」


「なんじゃそれ?わさびめしがどうしたんや?」


「どーんとぶつかるやろ?それから、わさびめし。かえるのはらをなでませば。いくどもでませかえるよもあれ。そんでからぼろーん。こうや。」


「だからなんなんやそのわさびめしは。」


「ばあちゃんが自分で作った短歌や。『わさびめし、かえるはらでませば。幾度いくどもでませ、えるもあれ』。力士がどーんとぶつかってから田辺駅の瓦が落ちるまでにこの歌を詠むぐらいの時間がかかる言うことや。」


「なんやそれ。わさびめしがどうしたんや。」


「ばあちゃんはわさびめしが昔から一等好きでな。おかわりいっぱいしたかったんやけど、ばあちゃん育った家が貧乏やったもんやからな。そらもう今から考えたらえげつない貧乏でな。」


「なんで急に蛙が出てくるんや?」


「ばあちゃん、蛙も好き好きでな。」


わさびめし。わさびめし。

かえるの腹を、なでませ、ば。

ああそうか、そうかそうか。えーと、そうか?んー。ばあちゃん。ばあちゃん?



はっ!どれぐらい意識が飛んでしまっていたのか、小さい人はまだ変わらずじっと僕の広げた両手を見つめて考えている。

もしかするとそれほど時間は経っていないのかもしれない。


小さい人はあごに手をやり考えている。まだおおかみのことを考えている。

今朝のオオカミはあれぐらいだっただろうか。いやいやきっともっともうすこし大きかったようだぞ。うんうんうんうん。

そしてまた少しずつ目が輝き出して、いまにもまたその天使のウキウキヴォイスでしゃべりだそうとしている。


まずい。またくる。まだ頭がぼんやりするのに。まだ夢の続きを見てるみたいなのに。またあれがくるとやばい。夢から覚めずに夢を見る。

夢の中で夢をみて、その夢の中でまた夢を見る。どこまで覚めれば朝がくるのか。わからない。くらくらする。先生。少し、眩暈がします。


(朝の駅の雑踏。心臓の鼓動。遠ざかる。電車のアナウンス。遠ざかる。そして聞こえてくるにわとりの声。)


コ、コ、コ、コ、(たくさんのにわとりがなにか言いながら歩いている)


えーと。はい。そうですね。あちらをご覧ください。あちらが人気のにわとり様の大行進でございます。

さあ、ご覧あれ。にわとり様の行進だ。お殿様が道を、踏み。小さな足袋で石を踏み。ほい。にわとり様だ、殿様だ。小さな足袋で道を。えーと。石を。え?なに?


(宇宙の映像を背景に、壮大なピンクの脳みそが木星のように浮かびぐるぐるとまわりだす。ナレーションが聞こえてくる。)


人類の進化。その優位性の鍵はあらゆる環境に適応する柔軟性にあります。

人間は、未来に想定されるあらゆる環境に適応するための柔軟性を保つために、その誕生の時点にはあえて脳を不完全にシャバタバな液体として搭載し、その成長のなかでじっくりコトコト時間をかけて、環境の鋳型に流しこんで固めるという戦略をとるようになりました。

豆乳ににがりを入れて豆腐を作るみたいにです。


(宇宙のBGMが流れ出す)


なによりも柔軟さを求めた神様は、生まれた時の人間の脳みそを液体にしました。

まわりの環境に合わせてどんな形にでもなれるように。白い液体にしました。それが豆乳です。

じっくりと時間をかけて周りの環境に合わせて脳みそを固めていくことができるように。どんな環境であって、きっと適応できるように。液体から固体へ。それが私たちの頭に収まっている。そう。お豆腐なのです。


(BGMが高まり、盛り上がりを見せる)


ですが、そんな大切なお豆腐を、もう一度液体に戻してしまう。小さい人はそんな不思議な力を持っているのです。小さい人の不思議な力で豆腐が豆乳に。大人がこどもに。

そうなのです。小さい人の能力は、「忘れてしまったあの頃に、きっと戻れる魔法の力」

もう一度、豆乳からやり直しましょう。輝かしい未来を取り戻しましょう。後悔の多い人生を、溶けて忘れてやり直す。そう。これは、あなたへの。ラスト・チャンス!(チャンス!・・チャンス!・・・ディレイ、ディレイ)


待って!待って待って。ちょっと待って。

溶けて忘れてやり直したくない。面倒くさい面倒くさい。


小さい人はさっきと同じ姿勢で、きらきらと僕のことを見つめている。すっかりできあがっている。目が光ってる。きれい。それに、いまにも口を開きそう。


僕は小さい人にそれ以上しゃべらせないように、とりあえずできるだけ真剣な顔でいっぱい頷く。先手を打つ。うんうんうん。うんうんうんうん。

勢いよく、とにかく頷いて見せる。これが一番良い対策だとは全然思えないけれど、これ以外に思いつかない。


なんとかしないといけない。いずれまた小さい人がしゃべりだす。


うんうんうん。うんうんうんうん。

とにかく時間を稼ぐ。考えろ。考えろ。どうする?ベーコンはとっくに冷めてる。


小さい人はしばらく驚いたようにこっちを見ていたけれど、やがて楽しそうに僕の真似をしてうなずきだす。


そうそうそうそう。そうなんです。とっても大きかったんです。うんうんうんうん。


うんうんうんうん。

なるほどなるほどなるほどなるほど。そうかそうかそうか。


小さい人が僕を見ながらたのしそうに頷いている。うんうんうん。うんうんうんうん。そうなんですそうなんです。そうそう。そうそうそうそう。


ほどなくしてまた花火が上がりだす。始まったばかりなのにすでにクライマックス。怒涛のスターマイン。メリーゴーランドも回っている。笛と太鼓とオルガンの音が聞こえてくる。うんうんうん。うんうんうんうん。「13番台、スタートしました!14番台、スタートしました!15番台、16番台スタートです!」アナウンスが場内に響き渡る。どよどよ。ざわざわ。にわとりの声が聞こえてくる。豆腐が。ぼくのお豆腐が。


まいった。まいったな。

豆乳に、なってしまうのか。

そうか子どもたちは、今この時だけを懸命に生きている。過去や未来に拡散することなく。今の、今の、この瞬間だけに、100パーセントフォーカスして、生きているのだ。

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