#1 空の色

 空は一面の雲に覆われて、重たくわたしたちにのしかかっていた。画用紙の上に、墨汁を溶かした水をさっと流したような、濃くてもどこか水っぽい色。予報では晴れると言っていたのに、この分では雨が降りそうだった。

 いや、雪か。

 窓ガラスをガタガタと鳴らす風は冷たそうで、暖房の効いた屋内にいるこっちも体が震えそうになる。制服の上から羽織ったブルゾンに首を突っ込んだ。施設の真新しさと清潔さが命の私立学校で、隙間風もないものだけど。

「――――で、最後の連絡なんだけど」

 声につられて、前を向く。教壇の上に立った担任の女性教師が、何事かを黒板に書いている。なになに、「クリスマスパーティ」?

「君たちは聞いたことはあっても参加するのは初めてだもんね。えー、来月のクリスマスに、我が白花女学院はクリスマスパーティを盛大に執り行います。参加は自由なんだけど、いろいろ出し物の関係で参加者の数を決めたいので、十二月の頭までに参加するかどうかを決めてね」

 クリスマスねえ。一般的には家族や恋人と過ごす日ではあるけれど、独り身のわたしにはどうにも関係ないことだ。甘いものは好きなのだけど、ひとりでケーキというのは虚しそうだった。

 壇上ではしゃぐ若い教師を尻目に、わたしはそっと教室の様子を伺った。他の生徒はクリスマスパーティにどういう反応を示すのか気になった。が、読心術の使い手でもないわたしが、ちらりと様子を見ただけで何かが分かるはずもない。他人の顔色を窺って生きるのに長けているわけでもないし。

 それは担任教師も同じなのか、生徒たちの反応をさして気にする風でもなく、連絡を済ませると「じゃあ気をつけて帰ってねー」と言い残して教室を去ってしまう。これで帰りのHRは終わり。今日は職員会議ということで部活も委員会もないし、もう下校してしまってもいいだろう。

「ねえ、どうする?」

「どうするって?」

「ほら、パーティ」

 お開きムードの中、教室はにわかに騒がしくなる。そこでようやく、クリスマスパーティに関する彼女たちの興味を聞く事ができた。

「ここのパーティ、いつもすごいらしいよねっ」

 会話の輪で中心となっているのは、ゆるくカールした茶髪の女子生徒だった。近くの席の数人と会話をしている。

「ツリーのイルミネーションがチョー綺麗なんだって!」

「へえ、いいなあ。いこっかな?」

「えー、でも」

 何人かが興味を示したところで、別の誰かが口を出す。

 殺される。

「誰に?」

 茶髪の女子生徒がとぼけた。

 …………とぼけたようにしか見えないのだけど、ひょっとすると本気の質問かもしれない。

「誰でも。だって、学校の中は危ないんでしょ?」

「イルミネーションで学校中が暗くなるし、確かに危ないかも」

「うんうん。ねえ、聞いた? 鉄黒高校じゃもう三人も死んだんだって!」

「どっかの学校だと、説明会の前に殺された人もいたらしいよ」

「怖いなあ」

 明らかにネガティブな流れ。ブレーキを掛けるように、茶髪の女子生徒が言葉を遮る。

「で、でもパーティは休日だよ? だったら大丈夫なんじゃないの?」

「ばーか。ちゃんとルールは確認しなって。学校内は終日危ないんだから」

「冊子もらったでしょ? 読んでないの?」

「う………………」

 完全に旗色は決まった。

「そっかー。でもクリスマスくらいいいのにねえ」

「後で管理官にお願いに行こうよ」

「えー。お願いして何とかなるのかなあ」

「殺されたくないなあ。でもパーティかあ」

彼女たちが発する「殺される」というその言葉は、軽くとも実感の籠ったものだった。少なくとも、宿題を忘れた小学生が口にする同じ言葉よりは。

 帰ろう。

 わたしも、殺されたくはないから。

「空ちゃーん!」

「むぐっ」

 わたしが立ち上がって自分の鞄を持ったところで、横から抱き着かれた。掛けていた眼鏡がずれる。自由になっている左手で眼鏡をかけ直して見ると、先ほどまで会話の中心にいた茶髪である。

「みんなが酷いんだよー。パーティがあるのに、参加する気ゼロでさあ!」

「……………………」

「空ちゃんは? 空ちゃんは参加するよね?」

「いやだよ。わたし、人が多いところ嫌いだし」

「わーん空ちゃんの薄情者!」

「そろそろ離して、紅葉さん」

「おっと」

 そこでようやく彼女――鴨足いちょう紅葉は離れる。それから、わたしの帰り支度を見て尋ねてくる。

「空ちゃんはもう帰るの?」

「うん。もう学校に用ないし」

「じゃあさじゃあさ。今から管理官のところにお願いに行くんだけど、一緒に行こうよ」

「いやだ。というか、今日は職員会議だから管理官もそっちじゃない?」

「あ、そっか。じゃあ一緒に帰ろ? あ、でも図書室に本返しに行くから昇降口でちょっと待ってて」

「…………三分間だけ待ってやる」

「ラジャー!」

 紅葉は自分の鞄とコートをひっつかんで、あばれ牛のように教室から飛び出した。鞄につけられた古ぼけた赤いペンギンのキーホルダーが乱暴に揺れる。

その珍妙な光景を一通り眺め終ると、わたしは一度自分の椅子に座ってふうと息をついた。眼鏡を外して、ポケットから取り出したクリーナーで拭ってからかけ直し、もう一度息を整えてから立ち上がった。

「転校生」

 そこで、さっきまで紅葉さんと会話をしていたグループの一人が声をかけてくる。ポニーテールに、やけに鋭く強そうな目線が気になる女子生徒である。

「………………なに」

「いやね、紅葉、悪いやつじゃないんだけど他人との距離を測る定規がぶっ壊れてるから」

「だったら修理に出すよう本人に言ってよ」

「ま、ああいうフレンドリーなところがあいつの良いところなんだけどなー」

 美徳なのか、あれは。

 美徳なのだろう。

 わたしが持っている唯一のものよりは。

「でも面倒だったら言いなよ。もし本人に言いづらかったらわたしたちでもいいし」

「お気遣いどうも。今のところは大丈夫。じゃあこれで」

「おう、さようなら。…………どうした変な顔して」

「なんでも」

 さよならを済ませて、教室を出る。以前のわたしには考えられない社交性に、ついばかばかしくなっただけだった。

 教室の出入り口にある傘立てから、自分の杖を抜き取る。一か月の試行錯誤の末、ここがベストポジションということになった。

 昇降口で靴に履き替えて、紅葉さんを待つ。きっかり三分といきたいところだけど、あいつが教室を飛び出したタイミングで計測を始めていなかった。スマートフォンの画面を点灯させて、時間を確認する。十六時二十三分。今二十四分に変わったが、二十七分になったら帰ってもいいだろう。

 傍の壁にもたれながら、適当にアプリゲームを開いてリソースを確認していると、昇降口から人が出てきた。二人組だったので紅葉さんではないと察しすぐに画面に目線を戻したが、ふと気になってもう一度視線を上げた。

 一人は白花女学院の白いブレザーを着た女子生徒である。左腕に『生徒会』と書かれた腕章をつけている。背はすらりと高く、場所が場所ならスカウトに目を付けられそうだなと漠然と思った。

 もう一人は、恰幅の良い中年女性である。制服に合わせたのか白いスーツ姿で、体型の割にスマートに着こなしている。スーツの寸法が体型とぴったり合っているのだろう。つまり安物ではない。化粧は薄めらしいが、毒々しさすら覚える真っ赤な口紅が目立っていた。

「あ、もうお帰り? 天色さん」

 首をすぼめて存在感を消したつもりだったのだが、あいにく二人はこちらに気づいてしまった。生徒の方がわたしに話しかけてくる。

「……はい、どうも、朝山会長」

 クエストとか始めてなくてよかった。

 スマートフォンを仕舞って、背中を壁から離す。目上の人間への対応くらい心得ていた。

「転入してもう一月経つのね。学校には慣れた?」

「ええ、まあ、はい」

 朝山会長――白花女学院の生徒会長である朝山朱里あさやまあかりは、言ってしまえばあまり好ましいタイプではなかった。わたしにとっては、であって、おそらくこの学校の生徒の多くは彼女を好ましく思っているのだろう。だからこその生徒会長だ。

 彼女はわたしをじろじろと見た。たぶん、「慈愛に満ちたまなざしを向けた」と言う方が正確かも知れないが、わたしにはそう表現することができなかった。

「このあたりは冬になると途端に冷え込むから、風邪はひかないようにね。そのブルゾン一枚で寒くない?」

「ええ、別に」

「困った事があったら言ってね」

「…………………………」

 …………気のない返事もレパートリーが尽きたな。次はもう少し考えないと。

 スマホを取り出すこともできないが、おそらくいい時間だろう。もう紅葉さんは無視して帰ろうかと思ったところで、廊下からバタバタと大きな足音が聞こえる。もしやと思って振り返ると、荷物を抱えた紅葉さんがこちらに手を振って駆けてくるところだった。

 朝山会長は、その様子をぽかんと眺めていた。

 よし。

 他人の振りしよう。

「それでは会長、わたしはこれで」

「え? ええ………………え?」

「ちょっと! 空ちゃん、待って! セーフだから!」

 一挙手一投足がアウトだよ。

「あっ、朝山会長! こんにちは」

「…………ああ、あなたは鴨足さんね」

 会長の声色は、後に「問題児で有名の」と続きそうな具合だった。どのみち、生徒会長に名前を憶えられているということは相当だろう。

「廊下は走らないでね。あと、白花女学院の生徒として恥じない気品と清楚さを忘れないでね。いつも言っているでしょう?」

「やーすみません! 次の次くらいから気を付けます」

 絶対に注意しないやつだ、これ。でもいいな、気のない返事レパートリーに追加しておこう。

「ふふっ、でもいいじゃない、元気があって」

 と、ここで、初めてスーツの女性が声を上げた。

「校長…………!」

「あ、校長先生、いたんですねっ」

「わたしを見落とすとはなかなかのうっかりね、鴨足ちゃん」

 彼女は白花女学院の校長で、白鞘実子しらさやさねこという。普段は忙しく立ち回って学校に留まれないと言っていたが、今日はいるらしい。

 わたしが朝山会長と白鞘校長に出会ったのは、転入前の諸々の説明のためにここを訪れたのが最初だった。教師という職業はうさん臭さでは詐欺師に並ぶというのがわたしの認識だったのだが、どういうわけか白鞘校長からはそんなうさん臭さを感じなかった。どちらかというと会長の方がうさん臭いくらいだ。

「しかし校長……」

「朝山ちゃん、そんなお堅いこと言わないで。『清廉・高潔』がうちの校訓だけど、そんなの昔のジジイが決めたことじゃない。もし校則が生徒の長所を損なうなら、そんな校則は無視しても構わないでしょう」

「校長がそれを言うものではありません」

「そう? 生徒の長所を大事にしてこそ教師じゃない?」

「さっすが校長先生、わかって――――もごごっ」

 茶化しに入った紅葉さんの口を塞ぐ。これ以上話をややこしくするな。

「と、ところでっ」

 しかしするりとわたしの妨害をすり抜けた紅葉さんが会話を続ける。

「どうしてお二人は一緒に? 何かあったんですか?」

「いやね、別に物騒なことがあったわけじゃなくてね」

 ふふっと白鞘校長が笑う。

 笑うところだろうか。

「ほら、例のクリスマスパーティの準備。職員会議が始まる前に、いくつか確認事項があっただけ」

「もう来月ですもんねー。一年早いなあ」

「あなたたちも出る?」

「そりゃあもう」

 あれ、これわたしも出る流れ?

「出ません。校長先生、分かっていて言っているでしょう」

「空ちゃん、もうちょっと考えてからでも…………」

「わたしはわざわざ殺されに行くのは勘弁なので」

 朝山会長は困ったように笑う。

「仕方ないかもしれないわね。今年は状況が状況だから。他の生徒たちも不安がっているし、いつもは夜に行うパーティを、昼に繰り上げたり早めに終わらせたり、いろいろ考えてみるわ。だからあなたも、ね」

「…………………………」

「それじゃあ、わたしたちはこれで。鴨足さん、天色さん、さようなら」

 朝山会長と白鞘校長の二人は正門の方へと歩いて行った。あれ、職員会議なんじゃなかったっけ? まあいいか。

「いやー、いつ見ても会長は凛々しいなあ」

 隣でぼそっと紅葉さんが呟く。

「金持ちの余裕ってやつでしょ」

「あれ? 空ちゃん知ってたの?」

「そりゃあね」

 わたしたちもまた、並んで正門の方へ向かう。

「詳しいところまでは知らないけど、白花女学院は名門校で通ってるって話だし。金持ちがわんさか通ってるってところまでは聞いた。そこのトップが金持ちじゃないはずがない。だからあの会長さんは金持ちだと思った」

「無茶苦茶な理屈だね。間違ってないけど」

 歩きながらコートをもごもごと羽織る紅葉さんは、前がよく見えていないのか足取りがふらふらだった。

「朝山家っていったら、関東じゃあまり有名じゃないけど、東海地方では有名な名家なんだよ。土地持ち、不動産王って」

「典型的な金持ちか」

「なんだっけ? 朝山、昼日、夕月、夜島。うん。そういう四名家が戦前はいたんだって。今は朝山と夜島くらいしか聞かないし、夜島は政治的な舞台には出てこないからまず東海の人たちも知らないと思うよ」

「じゃあなんで紅葉さんが詳しいのかって話になるんだけど」

「あたし、一応そっちの出身だし」

 それだけだと「東海の人たちも知らない」と矛盾するんだけど。彼女については何をどう詮索してもどこかで矛盾しそうだ。

「隣の鉄黒高校の生徒会長さんも朝山家なんだって。従兄弟なんだっけ?」

「いや知らないけど」

 正門を出る。ちらりと空を見ると、相変わらず重たい雲が天上を覆っている。ただ、気持ちだけ雲が薄くなっているような気もした。今日くらいは、雨も雪も降らないだろう。

「そういえば、空ちゃんはどっちの道通るの?」

「ストリートの方」

「あたしと一緒だ! じゃあ行こう」

 とてててと駆け出しそうになった紅葉さんは、わたしの少し前に出たところで立ち止まって振り返った。

「おっとっと。そういえば空ちゃん、足悪いんだっけ?」

 彼女の目線はわたしが持っている杖に向いていた。

「いや、悪いのは足じゃなくて体」

「もっと悪いじゃん。どうする? 早く帰った方がいい?」

 紅葉さんがわたしの顔を見る。その目には、朝山会長よりは幾分か暖かいものがあった。

「………………………………」

 本音を言えば早く帰ってもいいのだが……。

「まあ、そこまで深刻なものじゃないよ。しばらく養生が必要で、今転んで怪我でもしたらけっこう尾を引くから、文字通り転ばぬ先のってこと。つい先日も医者には『療養も大事だけど少しは運動しろ』って言われたから、ちょうどいい」

「そう? じゃあいこっ!」

 今にも飛び跳ねそうな声色で喜んで、紅葉さんは駆けていく。とはいえ一応、こっちが見失わない程度に距離を測ってくれているらしい。わたしは杖を突きつつ、適当に歩いて彼女を追いかけた。

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