42 神 千里の日常 -11-
「へー…」
薄暗い店内を、視線だけ動かしながら観察する千秋。
俺達以外に客はいないんだから、もっと堂々と見ればいいものを…
今日は、どういうわけか千秋に誘われた。
『飲みに行こう』と。
そんなに酒に強くないクセに。
「いい店だな。」
「客がいねーからだろ。」
「おまえ、マスターに失礼だぞ。」
「聞こえてねーって。」
「目の前だぜ?」
ここは、俺が二十歳の頃から来てる店。
最初はアズに連れて来られたが、今じゃ俺の方が通ってる。
考え事をしてると、うっかり通り過ぎてしまうほど分かりにくい路地の地下にある『プラチナ』というバー。
店内にはカウンター席の他に、テーブルが少し。
常連しか来ないのか、俺が来る時はいつも黒服が数人…奥のテーブル席にいるぐらいだ。
干渉されねーし、静かだし。
俺は気に入っている。
…誰かを連れて来たのは、初めてだな。
「もうすぐ日本を発つ。」
そう言われて、俺は驚いたように千秋の顔を見た。
…いつまでも居るとは思ってなかった。
千秋は昔から、世界のどこかで研究したり新しい何かを作り出す。
だから…
「…寂しくなるな…」
つい、本音をこぼすと…千秋が小さく笑って俺の頭をくしゃくしゃにした。
「…知花ちゃんの事…」
「惚れてただろ。」
「…完全に、ではなかったと思うけどな。」
「そうか?俺から見たら完全にだったけど。」
「玲子の時ほど傷が深くない所を見ると、完全じゃないはずだ。」
玲子さんの名前が出て、グラスを持つ手が止まった。
こんなにあっさり…千秋が過去の想いを口にするなんて。
…どうした?
「知花ちゃんの事、どうやって口説いた?」
「……」
続けざまに出て来る意外な質問。
完全に惚れてはいなかった。って言ったクセに、俺がどう口説いたかを知りたがるって、どーゆー事だよ。
「…なんでそんな事聞く?」
「普通に好奇心さ。16にして結婚したいと思わせた口説き文句、気になるだろ?」
「……」
出逢ったマンションで『ここに住みたいなら俺と結婚しろ』って口説いた…
とは、言えねーよな。
て言うか…
最初は同じ目標に向かって…の、だったが。
俺は割と早い内に知花に惚れた。
知花はどの段階で、俺に惚れてたんだろう?
「覚えてないのか?」
あまりに俺が考え込んだせいか、千秋は呆れたように眉をしかめる。
「口説いたっつーか…まあ…結局、運命の相手だったって事だよな。」
「…おまえが運命を信じるとは。」
「そういう事もある。」
静かな沈黙が落ちたが、苦痛じゃない。
そこに控えめな音量で流れて来たのは、偶然なのか…Deep Redの『HOME』だった。
いつもはジャズかクラッシックが流れてると思うが…俺の見た目で気を利かせてくれてるのか?
チラリと視線を上げたが、バーテンダーは背中を向けている。
…まあ、偶然か。
イベントで、高原さんの歌を久しぶりに聴いた。
そして…当然のように震えた。
やっぱ、いくつになっても俺を刺激する存在でしかない。
俺が朝霧さんとナオトさんをF'sに引き入れてからというもの…Deep Redは周年イベントでも、あまりその姿を見せてもらえなくなった。
それについては…少し責任を感じている。
だからこそ、俺はF'sでもっともっと上を目指したい。
「…いい曲を捧げてくれた。」
千秋も聴いていたのか、曲が終わると同時にそう言われた。
照れ臭い気もしたけど、千秋が俺の自慢でしかないのは確かだし、これからもそうであって欲しいと思った。
「アキちゃんには、ずっと俺の自慢でいて欲しいからなー。」
「ふっ。何だそれ。」
「今回の帰国、すげー嬉しかった。」
「ん?」
俺は小さく笑いながら、少しだけ距離を詰めて…
「千秋が俺の大事な場所を守ってくれた事や、俺の嫁さんを好きになってくれた事、ついでに…こうして誘ってくれた事も。めちゃくちゃ嬉しかった。」
顔を見ずに、早口に言い捨てた。
あー、何恥ずかしい事言ってんだろ、俺。
こんな事口走る男兄弟っていんのかな。
俺が恥ずかしさを誤魔化すためにビールを飲み干すと、千秋もそうだったのか…釣られたようにカクテルを口にした。
「俺はー…」
千秋が小さく笑いながら、グラスを持つ自分の手に視線を落とす。
俺はそんな愁いを帯びた千秋の横顔を、頬杖をついて眺めた。
「おまえに自慢に思ってもらえるような男じゃない。」
「は?何言っ」
「全然ダメなんだ。」
言葉を遮られて、頬杖から顔を浮かせる。
「…ダメって、何が。」
「IQが高くても…俺は凡人以下だ。」
「は…?」
「誰かを好きになっても、その後どうすればいいのか分からない。」
「……」
まさか。
つい…そう思って一瞬目を丸くした。
いつだって完璧で、俺の自慢の兄貴。
その千秋が『分からない』って言葉を口にするなんて…
俺が無言で横顔を見つめていると、千秋は少し弱ったような顔で俺を見て。
「な?情けないだろ?」
小さく首を振って溜息をついた。
…情けない…
情けないか?
いや、情けなくなんかねーよ…。
そりゃ…意外だけど…
意外だけど…!!
俺は少し背筋を伸ばすと、グラスをバーテンダーに掲げてみせた。
無言のバーテンダーから、もう一杯ビールが差し出される。
「情けねー………なんて、思うわけねーだろ。」
「……完璧じゃないから、ガッカリしないか?」
千秋はそうつぶやいて、長い髪の毛で顔が隠れるほど俯くと。
「俺は全てにおいて完璧じゃないと、みんなガッカリするだろ?」
早口でそう言った。
「は?何だよそれ。」
「……」
「そりゃ…こーゆーの話してくれるの、初めてで…驚いたし、意外なのもあるけど…」
「……」
「…なんつーか…まあ、こっぱずかしい気もするけど…」
「……」
千秋が正直に心の内を話してくれたんだ。
だから俺も…恥ずかしい気持ちを押し込めて、嬉しさを言葉にするべき…だよな。
「うん…その…嬉しい…。」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……ぷっ……」
「あっ、笑うか?」
「だって、おまえ…真っ赤だぞ?」
「うっ…」
「照れてやんの…ふふっ…ははっ。」
「…くそっ。ダセーな。」
「あははは。」
千秋は前髪をかきあげると、初めて見るほど笑い転げた。
ガキの頃でも、こんなに笑った千秋は見た事がない。
もしかしたら…千秋が天才と言われて嬉しいのは俺達だけで、本人は苦しんでいたのかもしれない。
「千秋もそういう相手と出逢ったら分かるさ。あ、こいつだ。って。」
「何の話だ?」
「何だよ…もうどうでもいいのか?誰かを好きになった後…ってやつ。」
「あー…しばらく好きにならない。失恋の痛手は早々消えそうにないからなー。」
「…ほら、認めた。やっぱ知花を…」
「知花ちゃん可愛いよなー。料理上手いし、すぐ赤くなるのも可愛いし。」
「…嫁が褒められるのは嬉しいが、複雑だからもういい。」
「独り占めすんなよー。」
「…酔ってんのか。」
「酔ってねーし。」
「…酔ってるな。」
いつもずっと先を歩いてた千秋が、近付いてくれたような…そんな夜。
嬉しいのに…もうすぐここを離れると言われた事が、とてつもなく寂しく思えた。
「うちに泊まるか?」
プラチナを出て夜空を見上げる。
何となく…まだ千秋と一緒にいたくて、そう問いかけると。
「やだね。」
完全に酔っ払った顔の千秋は、座った目で俺を睨んだ。
「知花がいるぞ?」
「…俺にくれるって意味か?」
「バカか。見せびらかしてやるって意味だよ。」
「意地汚い奴めー!!」
「うわっ。」
千秋に抱き着かれて、よろける。
「ちー、じーさんちまで送ってくれー。」
「…わあったよ、アキちゃん。」
「ちー…」
「あ?」
「ちー…ごめんなー…」
「…何が。知花の事なら別に…」
「ごめんな…ちー…」
「……」
何をそんなに謝られてるのか分からないが。
知花の事、千秋なりに罪悪感があるのだと勝手に解釈した俺は。
「さ、神幸作邸に帰るか。」
千秋の腕を肩に担いで、ゆっくり歩き始めた。
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