第3話 俺のことをもっと知ってくれませんか
十枚のコットンをカットした吉行は、コットンにリムーバーを染み込ませてから志穂の手をテーブル上に置かせた。
志穂が子供のようにすなおに広げた五本の指に、吉行が一枚ずつコットンを乗せていく。
コットンを乗せながら吉行は言った。
「ちょっとひんやりしますよ」
吉行は、志穂の身体にわずかな衝撃も与えたくない。
それは男としての庇護欲のせいなのか、いたわりなのか。何もかもが混然一体となって、吉行の頭のなかに極彩色の
いっぽうで、吉行の指は必要な作業を正確に無駄なく続けていく。
コットンを乗せた志穂の指を銀色のアルミホイルの上に置き、ホイルでくるりと巻き込んでいく。指からはずれないようにホイルの先をねじってあるので、志穂の指先はまるで銀色のつけ爪をつけているようだ。
魔女の指先のようにひね曲がり、
この指先が俺をとらえて離さないのだ、と吉行は思った。
もう十年以上も、おれはこのひとにつかまったきりどこにも動けなくなっている。
ふと吉行の指が止まる。
志穂は、吉行の恋について知っているのだろうか?
一人息子の親友として幼いころから可愛がっている人間から、欲情をかけられているなんて志穂は知っているのだろうか。
吉行は、そっと上目づかいに志穂を見た。
志穂はまだ少し
「
と、夫のことをそう呼んだ。
「千田がね、熱海のゴルフクラブであなたのお父さまと会ったと言っていたわよ」
「そうですか、このまま十五分待ってくださいね」
「気にならないの?」
「十五分ですか?」
「お父さまのことよ」
志穂は吐き捨てるように言った。彼女がネガティブな感情を見せるのは唯一、吉行の父親について言及するときだけだ。
そして吉行は幼いころに別れたきりで、ろくに記憶に残ってもいない父親のことより、志穂が夫を呼んだ“せんだ”という言葉が
彼女を意のままにできる、金と力と立場のある夫。自分が永遠になり替わることができない座をしめている男。
吉行ていどの若い男が、うらやましいと思う気持ちを持てないほどに上位に立っている男のことだ。
吉行は、自分と母親をすてて他の女のところにいった父親の動向など今さら知っても知らなくてもどうでもいい。
そんなことより、あと一時間ほどでこの部屋にやってきて当たり前のような顔で志穂をパーティ会場に連れ去っていく男の存在のほうが、よっぽど気になる。
千田さんの代わりに、俺とパーティへ行きませんか。
吉行はそんなことを言ってみたくなる。
一緒にダンスをして、そのあと俺のことをもっと知ってくれませんか。
ベッドの中で。
あなたの柔らかい指を使って。
もっと、柔らかい部分も使って。
吉行の
あとはもう、それほどやる作業はない。
リムーバーの働きで爪から浮き上がったネイルジェルを手早く
その時、吉行は志穂の爪が欲しいと思ってしまった。
志穂の爪は、それほど長く伸びているわけではない。そのまま新しいジェルを塗ればいいだけだ。
吉行は、今日の志穂のドレスの色にあわせて上品なピンク色のクリアジェルを用意してきた。これを塗れば作業は終わる。
女の爪を仕上げる準備はすべて整っているのに、吉行だけが作業を終える覚悟を持てない。
まだ、ここにいたい。
志穂とふたりで過ごす時間など吉行はこれまで持ったことがなく、今後もおそらくそんな機会は
だとしたら、この時間を引き延ばす努力をしても罰は当たらない、と吉行は思った。
一分だって一秒だって長く、好きな女と同じ空気を吸っていたい。
それ以上のことをする勇気を自分が持っているとは、とうてい思えないから。
「爪、少し
「もちろんいいわよ。塗りにくい?」
「それほどじゃないんですが、ほんの少しだけ」
どうぞと志穂は無造作な動きで、吉行に指を預けた。ジェルネイルを塗る前の志穂の爪はやや白っぽく、疲れたように見える。
まるで年相応の疲れを持った爪のように。
志穂の全身がこんな風に疲れていれば、他の男の視線なんて気にしなくていいのに。
世界中のどんな男も志穂に注目しなくなればいいのに。
子供じみた考えを自分で笑う余裕もなくて、吉行はガラステーブルの上にそっとシルクのハンカチを敷いた。
爪切りを取り出す。
やわらかく志穂の手を取り、どの指の爪を
小さくて可愛らしい小指の爪がいいか。それともひそやかな色気をたたえた、薬指の爪にしようか。
しばらく考えてから、吉行は左の薬指にそっと爪切りをあてた。
「じっとしていてくださいね」
そういった自分の声に、吉行はかすかな震えを感じる。
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