第2話 好きな女の視線には、重さと熱がある
「トップコートからオフしていきますね」
「お願いするわ」
二人きりのホテルルームで吉行と向かい合わせに座り、志穂はにっこりと微笑んだ。この邪気のない笑顔が吉行には、憎いくらいにいとおしい。
しょせん親友の母親だ。
そのくせ、吉行をくるわせる女だ。
吉行の機能的な手は、クレンズを含ませたコットンで志穂の小さな十本の指からトップコートを
人工的な
吉行は機械的に手を動かしながら、またしても
あなたがこんな風にはかなげに見えたら、いっそおれが、この世の果てに連れて行くのに。
「慣れているのね」
吉行の手元をじっと見ていた志穂が、感心したようにつぶやいた。
「仕事ですから」
短く答えたあと、志穂がじっとこちらの顔に視線を当てているのを吉行は感じ取っていた。
好きな女の視線には、重さと熱がある。
志穂がもっていない感情を、そこから引き出すために吉行はあらゆる妄想を自分に許さねばならない。
妄想と夢と欲情がまじりあって、かろうじて吉行の恋を支えている。
「私、あなたがネイリストになるとは思っていなかったわ」
「この仕事、好きなんですよ」
「ネイリストが?」
「美容関係が、です。血筋でしょ、きっと。おやじのことはおばさんも知っているはずだし」
おばさんと言うたびに、吉行は自分のかくし持っている感情に亀裂が入り、
志穂はここに
おやじ? と、志穂が小声で吐き捨てるようにつぶやく。
「幼いあなたとお母さまをすてた男のことを、まだ“おやじ”と呼んでいるの? あの人のことを父親だと思うのはもうやめなさい」
「おふくろは、今でも父親だと言っていますよ」
「生物学的な問題じゃなく、精神的なことを言っているのよ。もうあなただって
吉行は会話のあいだに志穂の十本の指のトップコートを
ネイルの表面に小さな傷をつけて、リムーバーが染み込みやすくするためだ。
おれが、この人の身体を傷つけている。
こう思うだけで、背筋を
やばい。
昇り詰めてゆくときのようだ。
この顔を志穂に見られたくない、吉行は思った。とっさに床の上に置いたバニティケースの上に顔を伏せる。
「すみません、忘れ物が」
といったん志穂の手をはなした吉行は、欲情のあまりしばらく身動きもできない。
爪にふれているだけなのに、志穂は吉行の身体から出してはいけない熱を引き出している。
自分が若い男の身体に何をしているのか、まったく知らずに。
志穂がのんびりと
「シャンパン、飲んでもいい?」
尋ねるので、うつむいたままの吉行は仕方なく答える。
「いいですよ、あんまり爪をグラスにつけないでくださいね」
わかったわ、と言ったかと思うと、志穂がぐいっとシャンパングラスを傾けた。その気配を感じながら、吉行はうつむいたままで背筋のふるえを押し殺す。
おれが、この人の細胞を傷つけた。
そう思うことで、吉行の暗い欲情に激しく火がつく。
吉行はきつく目をつむり、ひそかに呼吸を整えてバニティケースを開けた。
箱を開けても何も取りだすものがないので、仕方なく小さなミラーをとってテーブルに置いた。
これが不要なアイテムだということに、志穂は気がついてしまうだろうか。
もし気がついたら、それをきっかけにして俺のタガを
そんなことができない自分を歯がゆく思いながら、吉行は座り直して志穂の手を取りなおしてから残りの爪を削りはじめた。
そしてテーブルの上に用意したコットンを切り始める。
志穂の小さな爪よりも、ほんの少し大きなサイズのコットン。このコットンのように、ほんの少しだけ大きく志穂を包み込めたらいいと吉行は思う。
きゃしゃで小さくて、可愛らしい女性を包める男になりたい。現実に自分がそうなるには、年齢も経験も金も足りないことは十分承知だが。
志穂は金のかかる女だ。
高級品が好きというより幼いころから経済的にゆとりのある家に育ち、そのまま裕福な男と結婚したのでぜいたくが当たり前になっている女なのだ。
吉行は、みすぼらしい格好をしている志穂をどうしても想像することができない。
高校時代に初めて親友の母親として志穂に出会ったとき以来、吉行にとっての志穂はいつもいい匂いをただよわせている輝くような女だった。
歩くだけで足元が沈むカーペットを、ピンヒールで踏みつけるのが似つかわしい女。
ジバンシイのドレスを着こなし、胸元にランをかざり、ダイヤモンドをガラス玉のように身に
それでいて、ごく普通の主婦の顔を持つ女。
吉行は、志穂の持っているたくさんの顔のうちどれに
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