あっち
イネ
第1話
太郎が目を覚ますころには、辺りはもう朝の光でいっぱいです。けれども太郎にはそのことが気に入りません。大好きなおばあちゃんは毎朝、日の出よりずっとはやく起きて、まだ今日なのか昨日なのか分からないうちから、畑に出て行ってしまうのです。
「おばあちゃんどこ行ったの」
太郎はあわてて起きてきて、くやしがってお母さんにたずねました。お母さんは小さな赤ちゃんのお世話で頭がいっぱいで、ずいぶんとそっけなくこたえます。
「おばあちゃんは、あっち。さぁ、はやくごはんを食べてちょうだい」
それで太郎は、やっぱりおばあちゃんはもう畑に出てしまったに違いない、そう考えて急いで味噌汁を流し込むと、長靴を履いておもてへ飛び出しました。
家の裏へまわって農道を横切るとそこは、海が見渡せるおばあちゃんの畑です。そこでは太郎は、トマトやキュウリをもいで食べても、トウモロコシの茂みに隠れておしっこをしても叱られません。おばあちゃんはいつだって「いい子だ、いい子だ」と言って、真っ黒に日焼けしたしわくちゃ顔で、太陽みたいに笑うのです。
ところが畑に、おばあちゃんの姿はありませんでした。畑仕事をするにはすでに陽が高すぎるのかも知れません。それで太郎は、おばあちゃんは涼しい森へ入っただろうかと考えて、畑を突っ切ってひとり、森の中を訪ねて行きました。
森は一斉に太郎を見おろして、それぞれに縮れた枝や曲がった葉先などで「あっち」を指差します。やぶから飛んだ一羽のアオバトも、ずいぶんと悲しげな声ではありますが確かに「あっち、あっち」と鳴きました。
「あっちなら、きっと湧き水を汲みに行ったんだね。それならぼく運ぶの手伝おう」
おばあちゃんはその湧き水を、まるで薬のようにありがたがって、お茶を淹れて飲んだり、お米を炊くのに使ったり、それからこっそり、お母さんのお化粧水みたいに顔にパシャパシャやったりもしました。そしてそのたびに、お決まりの文句を言うのです。
「ほら、ばあちゃん若返った。あと百年も生きるよ」
けれども太郎が行ってみると、そこにはおばあちゃんが使っていたひしゃくがあるばかりでした。太郎はそのひしゃくで水をすくって飲みました。すると一匹のカエルが跳ねてきて「あっち、あっち」と鳴きました。
「わかった。おばあちゃんはアケビの実を見つけたんだろう。去年だってやっと見つけたのを、ぼくにだけこっそりくれたんだ。甘くておいしいんだ」
それで太郎はまた歩きだしました。アケビのつるが生える場所は二人だけの秘密です。ところがそこで、つるはまるで枯れたようになっていました。アケビの季節はまだ、ずっとずっと先なのです。
「おばあちゃんはどこへ行ったろう」
木々がざわーっと揺れました。遠くで山犬が吠え、頭上ではトンビがぐるぐると輪を描いて「あっち、あっち」と誘います。太郎は恐ろしくなって急いで目をおおいました。するとそこに、おばあちゃんの姿があるのです。おばあちゃんはたちどころに目をつり上げて、ひどく怒鳴りました。
「トンビを見てはいけないよ。トンビは人をだますんだ。迷子になるからいけないよ」
太郎は身震いして、それから早足で家に向かって歩きだしました。
「そうだ、おばあちゃんは今ごろ、家に戻っているかも知れない。それで午後にはきっと、ぼくと一緒になにかして過ごすんだよ。ぼく、お手玉でもいいよ」
けれどもやっぱり、家のどこにもおばあちゃんの姿はありませんでした。台所ではお母さんが、赤ちゃんをおんぶしながら、おばあちゃんの大事な糠床をかき混ぜています。
「おばあちゃんどこいるの」
「おばあちゃんは、あっち。さぁ、お茶を持ってってちょうだい」
お茶を運んでゆくと、おばあちゃんではなくお父さんが、仏壇に向かって手を合わせているところでした。太郎はたずねました。
「あっちってどっち」
するとお父さんは、お経を読むのをやめて向き直り、静かにこう言ったのです。
「あっちというのは、ここではないということだ。だから行ってみても、そこにはもうおばあちゃんはいないんだよ。わかるかい」
「わからない」
それから太郎は、お父さんのとなりにきちんとひざをついて座り、見よう見まねで仏壇に手を合わせました。壁の向こうか、お線香の煙の先か、どこからか大好きなおばあちゃんの匂いが漂ってくると、その方角を、太郎は一所懸命に見つめていました。
あっち イネ @ine-bymyself
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