平和の象徴をスポーツと言う
舞台は欧州から極東へ。
神々への捧げ物が、今や娯楽。
4年ごとに4年間、現代の参勤交代。
そこに国民の意思はなく、見せるは国力の低下のみ。
神事は戦に不要と、渡すは爆弾の如し。
終わりは始まり。
かかげる聖火は戦火の狼煙か。
- 自神管理教 きょうそ -
何事も先立つものが必要。
資金がなければ慈善活動もままならない。
つまり、「資金を減らせば、行動を制限できる」ということだ。
自由に使える資金がどのくらいあるか見れば、国の力も予測できる。
多額の借金、予算削減、増税。
自転車操業で何とかしている国は脅威ではない。
逆に生きるために必要のないものに資金をつぎ込めるなら、
その国は力のある国である。
それは文学であったり、スポーツであったりする。
なぜオリンピックで獲得したメダルの数にこだわるのか。
メダルは本人の頑張りによって得られるものであるのに、
あたかも国がすごいというような報道が行われている。
なぜ発表した論文の数にこだわるのか。
研究した内容の評価には触れず、
発表数のみで国の人材を語ろうとする。
やはり、それらは世界共通の国力を測る物差しなのだろう。
どんな手を使っても勝ち取らなければならないものなのである。
幸い今は平和な世の中である。
戦闘機を飛ばしたり、ミサイルを撃ち込んだりして、
国の強さをアピールできる時代ではない。
もっと平和的な方法で国の強さを示さなければならない。
そもそも武器を並べたところで、専門家が見れば性能くらい予想がつく。
たいした技術力もないのに馬鹿でかい兵器を作っても
まともに動かせるはずがないのだ。
逆に武器を持っていないのに技術力が高いのは脅威である。
武器を隠し持っていると言う根も葉もない噂が流れたら、
得体の知れない恐怖に襲われることになるだろう。
このくらいの技術力なら、この威力の武器が作れるはず・・・。
不意に出た幽霊は、張子の虎よりよほど恐ろしい。
だが知ってのとおり、戦争には金がかかる。
莫大な資金が要る。
技術力があっても資金がなければどうにもならない。
ゆえに、国の保有する資金への攻撃は効果的なのである。
どうやって平和的に資金を減らすか。
国の保有する資金は貯金箱に入りきらない。
2,3日豪遊したところでノーダメージだろう。
継続的に、大量に、資金を減らすには、文化的な催しに注力させるとよい。
学問に王道なし。スポーツだってそうだ。
ノーベル賞も長い時間が必要である。
来るべき日のために研究と育成に励まなければならない。
もちろん個人の素質にもよるが、基本的は国の資金の力比べである。
力を入れれば入れるほど、その国はすごいと認められる。
逆に力を入れていない国は、大した国ではない。
たまたま出てきた英雄を褒め称えるだけのくだらない国である。
くだらない国が力を示すにはどうするか。
やはり、勝てもしない戦争しか道はない。
やってみなければわからないという理論である。
結局、国をつぶすのは、計画性のなさである。
ところで、そこの貴方は物事をなすために、
どれくらい先まで計画を立てたことがあるだろうか。
明日のことさえ考えずに生きている人もいれば、
数年後を見据えて行動している人もいるだろう。
国も同じである。
その日暮らしな対応をしていれば、行き当たりばったりなことしかできない。
数年後、数十年後を見据えて計画を立てていれば、競争に遅れることはない。
いったいどこに差があるのだろうか。
それは、愛国心という便利な言葉があるので、それを使いたい。
主体を人間ではなく国に持っていくのである。
その日暮らしの人間が、数年後を見据えて行動するようになるのは、
いったいどのような変化があったからだろうか。
前述の通り、オリンピックなどの大きな目標がある場合か。
それとも、家や車を買って借金返済のローンを組んだ場合か。
いろいろ思いつくが、自分以外のことを考えるようになったとき、
人間は計画を立てて行動しようという気になるのである。
主催者の都合でオリンピックを明日やろうということにはならないし、
家や車を買って支払いはいつになるかわからないと言うことにもならない。
自分以外の要素を考えるようになって計画を立てられるようになるのである。
もっとも借金程度であれば、その日暮らしな人間でもできる。
誰かが何とかしてくれればいいのだから。
得るものを得て楽しんだら、あとは野となれ山となれ。
他の人間に押し付けて、はい、さようなら。
そういうことを平気でできれば借金はできる。
しかし、オリンピックは違う。
選手に選ばれておきながら別の人にやらせてメダルだけ持って帰る。
そんなことはできない。
計画的にやることが必然的に必要になる事象が存在するということである。
戦争だって計画的にやらねばならない。
数日で終わる前提で戦う国と数十年かけて終わらせるつもりの国。
どっちが勝つか、想像に難くない。
やはり、国の実力を測るのに、非平和的な手段は必要ないのである。
しかし、勝負は時の運ともいう。
勝てないと思われる戦いに勝った例は、人間の歴史において少なくない。
賭けに出るという行為自体は悪いわけではなく、
勝つためのひとつの手段であることは間違いない。
その日暮らしの人間が、一発逆転を狙う。
ギャンブルは一般的な娯楽であり、資金を増やす手段である。
運さえよければチャンスが回ってくる。
計画性の有無は問われない。
宝くじを当てることを考えてみよう。
ご存知の通り、買ったくじの番号が当たればお金がもらえるという、
期待値の恐ろしく低いギャンブルである。
それでも購入する人間は後を絶たないし、
大金を当てる人もそれなりにいる。
最終的に当たるかどうかは運なのだが、
当たる確率を少しでもあげる努力はできなくもない。
とにかくたくさん買ったり、当たる売り場を探しに行ったり、
無駄かもしれないが、いろいろなことをするだろう。
このいろいろなことをするというのが重要なのである。
人間というのは問題を抱えて生きている。
それは病気であったり、人間関係だったり、金銭トラブルだったりする。
国としては、それらの問題を解決するために動かなければならない。
医療費の負担を減らしたり、働きやすい環境を作ったり、
不正が起きないように目を光らせたり、
さまざまなことをしなければならない。
最初の話に戻るが、何かをなすためにはお金が必要である。
問題を解決するために資金をつぎ込んでいくことになる。
国民の生活はよくなるかもしれないが、国の力は小さくなっていく。
国に対する投資ではないからだ。
では、国の力を強くするために、国に対して投資をしてみよう。
端的に言えば、軍事力の強化である。
武器を購入するという単純なものから、
情報網を整備するという細かな部分まで、
戦争が起きたときの備えは重要であり、怠ってはならない。
自然界は弱肉強食である。
何の自衛手段も持たずにうろついていれば狩られるのは必然。
人間界も同じであり、平和ボケしている国は、
戦争によって生計を立てている国に食われて当然なのである。
もっとも目に見えるような大きな戦争はめったに起きないのだが、
国同士の交渉の場において、軍事力の差は脅威となりうる。
切れるカードがあるとないとでは待遇も変わってくる。
国の敗北は、国民の敗北でもある。
国が外国に対して強い態度に出れないと、
国民もまた、外国人に頭が上がらなくなる。
外に出れば視界が我が物顔でのし歩いている外国人に埋め尽くされ、
今住んでいる国はどこの国の所有物なのか疑問にさえ思う事態となる。
いずれにしろ防衛というのは難しいものである。
備えあれば憂いなしというが、どこまで備えればよいのか。
準備をしすぎて困ることはないが、費用はどんどん増えていく。
必要最低限にとどめるのは難しい。
もしもを考えると費用は大きくなりがちである。
大きくなるのは仕方がないとして、費用はどこから捻出するか。
結局は国民に負担を強いることになる。
お国のため、国民は我慢しなければならない。
もちろん我慢にも限界がある。
国を動かしているのは国民である。
国民が国を見捨てれば、その国を守る人はいなくなり、国がなくなる。
国としては我慢強い国民が増えるように教育に力を入れなければならない。
今となっては大量破壊兵器の有無が重要だが、
そんなものがない時代は、生かさず殺さずの兵器が重要だった。
負傷した国民を切り捨てていては士気が下がる。
国は負傷した国民の面倒を見ることを強いられるため、
負傷者だけを増やす兵器はじわじわと国力を削っていく。
典型的なものが地雷である。
体の一部を吹き飛ばすだけで命は奪わない。
軍にとってはお荷物が増えるだけ。
見捨てると言う選択ができないからだ。
もちろん、見捨てることができる軍が生き残ったのは言うまでもない。
ネズミだって負傷しても平気な顔押して歩いているのだ。
弱っているのがバレれば狙われる。
弱者を切り捨てるのは自然界では当然であり、
それを当然としないのが弱者を利用するということである。
そもそもお荷物になるのは食料の確保が大変だからである。
働かざるもの食うべからずと言う言葉があるくらいだ。
補給路を断たれて全滅なんて珍しいことではない。
食べ物を備蓄するにも限りがある。
実際は食べ物以外もいろいろと必要になるのだから、
戦争がいかに準備のいるものかわかるだろう。
食べ物が一定の量しか確保できないとすると、
あとは燃費がよいほうがいいと言う結論になる。
1つ食べないといけないところを0.5でいいならば、
倍の人間を生かすことができる。
人体とは不思議なもので、極限状態に直面すると、
それに適応することができることがわかっている。
例えば、ダイエットをするとき、食事を極端に減らして成功したあとに、
元の生活に戻すとリバウンドすることがある。
これは、人体が少ない食べ物でも生きていけるように変化したためである。
0.5で足りる体になったのに1も食べていれば太るのは当然である。
太らないためには、常に0.5で生活を続けなければならない。
無理なダイエットがよくないように、急に食べ物を減らすのは難しい。
徐々に量を減らしていくのがよいだろう。
負担は少しずつ増やすというのが賢い方法である。
計画性のない人間は少なからずいるが、
過去を振り返らない人間もかなりいるのが現実である。
ふと昔を思い出して、昔はよかったと口に出すことはあっても、
一体何がどのようによかったか考える人は少ない。
ハンバーガーひとつにしても、昔と今の値段を比較すると、
いつの間にか倍以上になっているのがわかるだろう。
節目節目では、少し高くなった程度だったはずである。
大部分の人が許容してしまったのだ。
「昔と比べて」なんて文句を言う人がどのくらいいただろうか。
値段が倍になるということは、単純計算で量が半分になるということである。
値段据え置きで量を減らす場合もある。
少ない量に慣らしていくということだ。
貧富の差は食生活に現れる。
ゆえに平均的な食事量を見れば、どのくらい豊かなのかわかる。
国民全員にそれだけの食料が集められる資金があるということは、
非常事態に物資不足に困ることはないだろう。
もし、物資不足になることが避けられないのであれば、
普段から少ない食料で活動できるようにしなければならない。
足らぬ足らぬは工夫が足らぬとも言う。
わずかな食事量でも活動できる人間を育成するしかない。
だが、食わねば体は成長しない。
ボクシングのように減量の必要があるスポーツは稀であり、
相撲のように食べて体を作るのが一般的である。
いい結果のためには体作りのための食料の確保が不可欠である。
一方で、薬学の発達により、生きるために必要な栄養を摂取できる薬品が
数多く生み出されている。
サプリメントだったり、ダイエット食だったり、形を変えて、
一般の人間でも安価に手に入れられるようになってきた。
つまり、食料の確保に頭を悩ませることが昔より少なくてすむようになった、
ということである。
もっと言えば、効率よく体を鍛えられるように薬を使う選択肢ができた、
ということである。
だからスポーツにおいてドーピングは違反行為なのである。
ドーピングというのは、一般的に考えて、
勝つために体を鍛える期間を短縮しているだけなのだから、
何の問題もないはずである。
確かに薬の副作用もある。
薬を使えない国もある。
不公平感はあるかもしれないが、勝つための手段である。
事実、禁止されていても使う人間は数多くいる。
禁止されるようになった原因は何だろうか。
戦争で勝つには鍛え上げられた兵士が必要である。
その点はスポーツと大差ない。
適正はどうであれ肉体的な基準であればスポーツマンはクリアできる。
だからドーピングが当たり前になるとまずいのである。
少ない資金で軍隊を短期間に作れるのは脅威である。
いくら兵器が発達しても、最終的には現地に出向くことになる。
次々と生み出される軍と戦い続けることは、人間の消耗戦につながり、
少子高齢化の深刻な国は逆に負けることもありうる。
やはり、スポーツに力を入れられるのは平和な証拠であり、
オリンピックは国際的に必要な行事なのである。
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