予言のすゝめ
非公開
ルールについて
予言というものをご存知だろうか。
予言とは、これから起きる物事を前もって記述もしくは口述、することである。
「3年後に交通事故で死ぬ」のような個人的なものから、
「100年後人類は滅亡する」のように規模の大きいものまで、
未来の出来事をピタリと言い当てられれば予言となる。
しかし、「ビンに入った牛乳が3日でなくなる」というのは、
予言とは認められない。
事象が小さすぎるし、考えれば誰でもわかるようなことだからだ。
やはり、予言と呼ばれるには、ある程度の大きさと
ある程度の認知度の低さが重要である。
付け加えるならば、人間の力では変更ができないと言う条件もある。
先ほどの牛乳ビンの例で言えば、スケールが小さすぎるうえ、
子供でもわかりそうなところがよくなかった。
三日後に牛乳が残っている可能性があるが、
そのときは誰かが飲むなり捨てるなりすればよく、
無理やり予言に合わせることが可能である。
牛乳ビンを予言に使いたければ、
「三日後に牛乳瓶画原因で数百人の人間が死に至る」
とするべきだろう。
これならスケールも大きいし、
ほとんどの人が創造のつかない出来事が起きることになる。
では、予言はどうやって作られるのか。
方法は二通りある。
一つ目は、個人に備わっている能力に頼ることである。
例えば、夢で見た出来事が現実になる、予知夢を元に予言をする。
見事的中すれば、預言者として注目されることになるだろう。
しかし、本当にそのような能力が存在するのだろうか。
もし、存在するならば、世の中はもっと平和になったに違いない。
予言があれば救えた命がいくつあったのか。
まさに夢のような話である。
予知能力があると豪語する人間も、必ず的中するわけではない。
たまたま当たって、それを信じているだけである。
少なくともこんな文章を読んでいる人間は、予知能力を持ち合わせていない。
そこで、二つ目の方法である、事象を分析して予言するという、
誰にでもできそうな手法がある。
原理的には、先ほどの牛乳瓶と同じである。
「ビンの中に500mlの牛乳が入っている。
僕は1日に200ml飲んでいる。
だから、三日後にビンは空になる。」
このように論理的に考えれば、誰でも予言のようなものができる。
しかし、誰でもわかることでは予言と認められないことは、
既に説明済みである。
世間一般の人が知りえない情報を元に予言をする必要がある。
例えば、海底のプレートを一人で観測していたとしよう。
プレートのひずみのズレを知っているのは自分だけであり、
どの程度ズレれば地震が起きるか経験的に知っているとする。
だから、「3年以内に地震は起きる」と断言できる。
これがうまくいけば予言となる。
しかし、うまくいかないのが現実であり、地震の予想なんてものは当たらず、
関係ないところばかり大地震が発生している。
それもそのはずで、先ほどの予言の手順には、足りない要素があるのだ。
先ほど地震の予言をした人間は、
自分の観測しているプレートのズレしか見ていない。
どこか他の場所に大きなずれがあるかもしれないのに、一部しか見ていない。
そんな預言者は、嘘つき呼ばわりされてしまう。
そもそも地震が起きることがわかっているならば、
地震が起きないように何とかする人間もいるはずである。
予言は、善意で行うものではない。
もし、予言をして、その結果が回避されてしまえば、
それは予言ではなくなるからである。
不都合な出来事が起きるのを願う、悪意に満ちたものである。
地震が起きることを面白がって待っている預言者と、
地震が起きないように活動している正義の人間。
支持されるのはどちらであるだろうか。
にもかかわらず、私は予言することを勧めている。
なぜか。
それは、人間の視野が狭く、小さな物事にしか興味を持たないからである。
オイルショックと言う事件があった。
石油が手に入らなくなり、品物がなくなるという予想が的中し、
日の本の国は大パニックになった事件である。
この事件は的中したにもかかわらず、予言ではない。
なぜか。
石油が手に入らなくなったという事実がなかったからである。
確かに、品物がなくなったのは事実である。
トイレットペーパーなど生活必需品が店で買えなくなった。
だがそれは、石油がなくなった結果ではない。
予想にしたがって動いた人間が、愚かにも品物を買占め、
結果的に品物がなくなっただけだからである。
事態を冷静に分析できた人間は、港に来るタンカーを見ていたらしい。
タンカーには石油が積んである。
本当に石油が手に入らなければ、タンカーの数も減るはずである。
石油を積むことなく帰ってくるタンカーなんてない。
燃料が無駄になるからである。
一部の人間にとっては、オイルショックは予言でもなんでもなかった。
愚かな民衆によって人為的に引き起こされた事件だったのである。
悲しいことに現実を知らないまま動いた人間がとても多かった。
一部の人間が必死になってトイレットペーパーを買い込んでいれば、
ただの笑い話になっただろう。
現実はその逆だった。
多くの人間が与えられた情報から間違った分析をして、
作られた大災害の片棒を必死に担ぎ上げていたのである。
つまり、予言には三つ目の手法がある。
あらかじめ計画している出来事を公表せずに、
ある日突然起きるように発表する手法である。
マッチポンプとも言う。
馬鹿げた方法だが、一番行われている方法でもある。
宝くじで1等を当てる瞬間をカメラに収めたいとする。
一番簡単な方法は何だろうか。
もちろん、買った番号を1等の番号にしてしまうことである。
宝くじの当選番号は、人為的に決められているものではない。
世間の人間の間の共通認識である。
だからこそ、大前提がゆがめられているなんて考えもしないのである。
予言していれば、間抜けな人間は当たる番号を教えてもらいに来るだろう。
一人千円で教えていけば、儲けはどれくらいになるだろうか。
要するに、世の中の出来事は、人為的に起きている可能性が否定できない。
そういうことである。
だからこそ、世の中の事象を分析し、予言をすることは、
自分のみを守ることにつながるのである。
与えられた情報を元に予言するのではなく、与えられた情報を分析する。
そこだけは間違えてはならない。
情報はいくらでも改竄できるということを認識しなければならない。
例えば、地震が起きたときにガソリンスタンドにいるとしよう。
すぐにガソリンスタンドを離れるべきだろうか。
ガソリンスタンドには何があるか。
当然、大量のガソリンがある。
爆発したら大変だ。
すぐに避難しよう。
というのは、ガソリンスタンドというものを考えた結果の行動である。
どこにガソリンスタンドを作るべきか。
大量にガソリンがあるから、災害に強い場所に作るべきだ。
つまり、ここは安全な場所だ。
というのは、ガソリンスタンドの立地を考えた結果の行動である。
一般的に情報として流れるのは、前者である。
なぜそこにガソリンスタンドがあるかなんて誰も必要としない情報であり、
多くの人間にとって興味のわかない情報だからである。
しかし、正確な判断に必要なのは、後者の情報である。
広告というのは、メリットばかり表に出て、
デメリットが表に出てこないものである。
今時の商品は、デメリットがあると買い手がつかないようなものばかりだろう。
正しい情報がなければ、それを元に予言するどころか、
予測することも不可能である。
そうであるならば、なぜ正しい情報が流れないのか、
その理由を分析する必要がある。
災害に弱い土地に重要な施設を建築するだろうか。
そんなことを許可する経営者はいない。
専門化が安全だと言った場所を選ぶだろう。
つまり、専門家に頼んで間違ったことを広めれば、
どこに何を建築するか操作できるのである。
災害にあわない場所なんてない。
専門家の助言により、災害にあいにくい場所は限られている。
であれば、指定された場所に経営者は決定せざるを得ない。
裏を返せば、専門家に危ないと言われた土地の人間は不幸である。
いつ津波が来るかわからない場所に投資する余裕のある企業はいない。
哀れにも衰退の一途をたどることになる。
だが、安全と言われた場所で災害が起きるのはよくあることである。
それもそのはずで、安全と言われればその土地は栄えるのだから、
事実を捻じ曲げてでも安全ということにしておきたい。
あたかも安全に見せかけた場所がどんどん発展し、
災害にあって大損害を受ける。
一部を除き、誰も予想しなかったことである。
誰だって危険なところに住んでいたくはない。
安全だというなら、国において最重要な人物は、
当然その土地に集まり、何の心配もなくすごしているはずである。
したがって、安全かどうかはそこに住んでいる人によって確認するべきであり、
一般的に公開されている情報から考察するべきではない。
公開されていない情報から答えを導き出せば、それは予言と言えるものとなる。
では、仮に予言をしたところで、世界に向けて公表するべきか、
という問題がある。
もちろん、答えはノーである。
前述の通り、予言というものは悪意から作られる呪いのようなものであり、
世界を救うべききっかけにはなりえない。
公表したところで世間を騒がせることになるのは稀で、
飲み会の場において話題が尽きたときに使える話のネタにもなりえない。
そもそも、伏せられている情報が公開されるというのは、
権力者たちにとって都合の悪いことであり、
次々と予言を的中させる人間がいるならば、排除しようとするだろう。
命を狙われることがないにしろ、行動を制限されることは多々あり、
場合によっては自ら死を選ぶ状況になることもありうる。
最も平和的な弾圧は、時間を浪費されることである。
例えば、頭の中に予言が浮かんだ人がいるとしよう。
予言を他人に知らせるためには、頭の中にある予言を、
何らかの形にして外部に発信しなければならない。
紙とペンを用意しているところに仕事の電話が来る。
その仕事の対応に追われ、気がつけば日付を跨ぎ、寝る。
次の日も残作業の対応に追われ、その次の日も・・・。
すべてが終わるころには、予言の大部分が失われてしまう。
果たしてこれは偶然の出来事だろうか。
この文章を書くきっかけとなったのがまさにそれである。
予言のようなものは何百、何千とあったが、
外に発信する機会の損失があまりに多く、ひとつとして世に出なかった。
幸いにも、別の誰かが同じ予言を行い、
世間に公表することなく実行してきてくれているからこそ、
世の中の出来事は致命傷ですんできている。
予言は、自分の頭の中にしかない、とは限らない。
志を同じくすれば、同じ予言を持つことも可能である。
だから予言はヤクノヒナホシのようにひっそりと
世界の片隅においておくべきである。
何かが起きたときに目を凝らして探したらあった程度でよい。
そして、予言はできる限りあいまいにしておくべきである。
1点日ではなく、1週間。
1週間ではなく、ひと月。
場合によっては数年間でもいい。
期間が長いほうが成功率も高く、注意を心がける日も長くなる。
対象もあいまいに記載するべきである。
ストレートに記載すると、情報の流出を良しとしない集団に見つかり、
予言そのものがなかったことにされていくだろう。
わかる人にだけわかる文言を使い、悟られない形で記載するべきである。
具体的に記載したければ、文学作品などにして実際にありえない前提で、
話を進める方法もある。
文学作品は架空の世界観や設定で構成されていることが多いが
未来を予言するような作品もいくつか残されている。
私なりに予言するとしたら、このとおり
「2020年、サンドボックスとして重要な使命を果たすことが約束されている。
輝かしい未来を捨て、我々は敗北を受け入れる。」
よくわからない書き方をする。
どこで何が起きるかわからない。
しかし、これは確実に当たる予言である。
何も起きない年なんてないのだから、絶対に当たるのである。
だが、予言には元になる情報がある。
表に出したらそれは予言ではなくなるから公開しない。
詳細を知りたければ、志を同じくして、予言をするしかないのである。
貴方の予言を聞かせてほしい。
- 自神管理教 きょうそ -
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