花は二度散り一度咲く。

菱河一色

第1話 散らない花


 どこまでも続く夏の下で。六人は皆揃って、同じことを考えていた。


 他に人気ひとけも無い、物寂しい河原の土手の上で。

 同じ小学校に通う六人は、揃って、黙って。空を見上げていた。

 真っ暗闇の中で、ぼんやりと揺らぐ月よりも、強く儚く輝く火の花を。


 いつも一緒に遊んで過ごしていた六人の誰もが、これが全員で見る最後の花火大会になると、知っていた。

 これから先の人生で、いくつもの別れがあるのだろう。同じだけの出会いもあるだろう。様々な胸踊る出来事が訪れるだろう。涙と共に悲しみに暮れる夜もあるかもしれない。きっと、可能性は無限大に広がっている。


 けれど。

 今は、この六人は、この六人でいられるのは、今だけだ。これが終われば、これまでの全ては思い出になってしまう。もう二度と触れられない幻になってしまう。


 そうわかっていたからこそ、改めて確認するのが怖くて。

 この永遠の瞬間だけは、小さな世界の中で一番綺麗な光景に見惚れていたくて。

 自分たちではどうしようもないと初めて気付いた、強大で理不尽な現実から、目を逸らしたくて。

 何も言わずに。絶え間ない時間の流れに見つからないように。きっかけを作ることを極度に嫌って、身動きもせず、そっと息を殺して。

 ただひたすら、遠くから上がる大輪の花を、見つめていた。


 どこまでも澄んだ黒の中を、色とりどりの光が昇っては弾け、開いては落ちていく。風に乗って薄っすらと聞こえてくる祭囃子を押し潰す、震える爆発音と共に。

 牡丹、しだれ柳、菊、彩色千輪菊、蜂。様々な種類、形の花火が咲いては直ぐに散ってゆく。夏夜を一瞬だけ彩って、その一生を終えて燃え尽きる。まるで、極端に生き急いででもいるかのように。

 長い時間をかけて作られただろう、人間の叡智と努力の結晶は。ほんの瞬きの間に、役目を果たし消えていく。


 その様は。

 あまりにも、美しい。

 美しくて。でも、寂しくもあって。

 複雑で、どうにも掴み所のない何かが、そこに渦巻いている。

 陳腐な表現しか知り得ていない彼らが、壮麗なその姿を表す語彙など持ち合わせているはずもない。

 幼く発展途上な感性では、迫り来る情動の波の全容を把握しきれない。わけもわからないままに濁流に呑み込まれ、流されて沈んで溺れ、綺麗な空気を求めて息苦しく喘ぐだけだ。

 彼らはまだ、その感情の理由を知らない。侘びも、寂びも。別離も。彼らはまだ、理解することも出来ない。


 でも。


 彼らは、それに似たきらめきを、知っていた。

 死の間際でまばゆく光る命のともしびを、痛いほどに感じ取っていた。


 終焉を前にして、哀しいほど強く、泣きたくなるほど儚く。己の持てるもの全てを絞り出すかの如く、力の限り閃き尽くさんとする生命の脈動を。

 すぐ側の簡素な車椅子に収まっている、小さな身体に宿る、気高い魂を。


 彼らは知っている。


 今まさに、どこまでも限りなく瞬く彼女を、知っている。


 まだ昼間の余熱を孕んだままの温い風が、ゆっくりと遠くの喧騒の響きを運んできてくれる。髪を撫で、頰に触れ、裾や袖に乱雑に潜り込み、優しく暴れまわったかと思うと、開いた手のひらを摺り抜けてどこかへ逃げていってしまう。

 次第に、空気の流れが変わっていく。驚きを含んだ感動が、落ち着きを抱えた慣れへと。熱気に溢れる歓声が、次への期待が込められた吐息へと。

 小さな町の小さな花火大会だ、程なく、終わりがやってくる。物心つく前から毎年欠かさず観続けていた五人は、肌で、雰囲気で、それを察していた。

 全部合わせても、時間にして三十分もない。あとは大きいのが何発かあがって、スターマインがあって。それで幕は閉じる。閉じてしまう。終わってしまう。

 体感時間はもっと短い。それこそ、あっという間でしか。

 これまでの十二年間で、一番短くて。一番、過ぎ去ってしまってほしくない時間が。


「……嫌だなあ」


 本当に終わってしまう。その前に。

 誰かが、小さく呟いた。


 独り言じみた、いや、実際には独り言ですらない、止め処なく溢れ出ていた、心の内に留めきれなくなった気持ちが、口から零れ出ただけのもの。

 花火の音にほとんど掻き消されたその声はしかし、他の全員の耳に届いていた。


 だって。


 六人とも、全く同じことを考えていたから。


 何もおかしなことはない、友人への想いが、互いに一致していただけのこと。言葉にしてみたならば、とても簡単で、単純な。純粋で透明な祈り。

 この時間が。この、皆で一緒に居られる瞬間が、終わってほしくない、と。

 終わりが見えているからこそ美しい、を体現している、この花火を見ていたい、と。

 そして。


 そして、願わくば。


「ずっと、このままでいられたら、いいのに」


 ――と。


 その言葉が六人の耳の縁に残りながら、滑らかに蒸し暑さに溶けていくのと同時に、これまでで一際大きな花が咲いて。




 彼らの網膜に。記憶に。心に。焼き付いた。





















 けたたましい電子音が、それほど広くない部屋の中に響き渡る。


 朝か。


 日付が一つ進む以外、何も変わり映えのしない朝が、懲りもせずにまたのこのことやってきたらしい。

 唯一、新たな一日の訪れを教えてくれる目覚まし時計のアラームを止め、スヌーズ機能が作動しないようにスイッチも切ってしまう。最早無意識で行われるようになった、無数に繰り返される進歩の無い進歩。


 ぼんやりと光を放つデジタル方式の画面には、今が午前六時一分であることを表す数字が並んでいる。

 起きるはずの時間だ。これくらいでなければ、学校に間に合わない。

 煌々と光るデスクライトを消し、椅子から立ち上がって伸びをすると、凝り固まった背や肩、腰が小気味いい音を鳴らして疲労を訴える。


 室内を見回す。光源が皆無でほぼ何も見えず、足の踏み場に困るほどに物がそこら中に散乱している部屋は、たとえ見えていたとしても歩行には向かない環境であることは疑いようのない事実だろう、が。そんなことは関係ない。慣れた足取りで、視覚に頼らず進み、すぐに窓辺に辿り着いた。

 夜闇を染み込ませたような黒色の遮光カーテンに触れる。隙間から入り込んで来るひんやりした空気に急速に熱が奪われ、身体が勝手に震えた。冬を抜けたばかりの春先はまだ、それなりに冷える。

 少しだけ躊躇い、掴み、細く長く、息を吐いた。


 それは、ある種の矛盾を孕んだ願望。


 


 雨の日が好き、という話とは違う。体育の授業が苦手で嫌いだからとか、部活に行きたくない気分だからとかいうことではない。学校が遠いから親の送迎を期待しているというわけでも、雨の日にだけ会えるとかいう設定のあの娘との再会を心待ちにしているわけでも、なかった。

 どころかそれは、天候についてですら、ない。


 暫しの静止の後に、勢いよくカーテンを開く。

 東の空から昇ってきた日が、柔らかな光を窓ガラス越しに投げ込んでくる。

 投げ込んできている、のだろう。多分。おそらく。いや、もしかしたら雨が降っていて、どんよりした鈍色の雲しか見えないのかもしれない。雷が轟いて、暴風が唸り捻れているのかもしれないし、季節外れの雪が優雅に舞っているのかもしれない。


 しかし、それを知覚することは出来ない。


 爽やかな朝特有の空気は、鳥たちのさえずりは、視界の限りまで広がる清々しい青色は。俺の世界には存在していない。


「……うん、今日も、いい天気だ」


 窓ガラスを隔てた外の世界には。





 墨汁を垂らしたかのような、吸い込まれそうなほどの引力を内包した黒。

 そこに輝いているのは、太陽ではなく。


 あの夏の日の、一際大きな、一輪の花火。


 まだ、俺の中に焼き付いたままの景色が。幻覚となって、俺の世界に投影されていた。




 これが、俺、吉野柾樹よしのまさきの朝。いつまでも代わり映えがない一日の、始まりである。


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