梅雨の日のアジサイの下で小さな人に出会った話

ギア

梅雨の日のアジサイの下で小さな人に出会った話

 北西から東南へと斜めに流れる川がある。それはかつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水だ。それは電車の駅から真北へと伸びるバス通りと斜めに交差する。


 岸辺には土を露出させた遊歩道が平行して伸びている。緑豊かな小道で、道路側にはアジサイが植えられている。梅雨に入ってから、このアジサイは今年も見事に花開き、今日はその上から音も無く細い雨が降り注いでいた。


 降り注ぐそれは雨粒と呼ぶほどの大きさもなく、俺の差している傘に当たる音は、雨の車道を走るタイヤの音にすら消されてしまう程度だった。


 遊歩道は、今歩いている歩道とは道路を挟んで反対側にあった。満開となった色とりどりのアジサイが目に入る。遊歩道は道路より少しだけ高い位置にある。道路とのあいだに植えられたアジサイの茂みは、身を乗り出すように道路側へ突き出していた。


 まるで軒先のように張り出したその茂みの下、まるで雨宿りするように立っている小さな人影を見たとき、俺は何かの見間違いだと思った。当然だ。何しろ道路より高いとはいえ、あくまで10~20センチメートルだ。


 しかし確かにそこだけ乾いているアスファルトに、ぽつねんと立っていたのは、ネコでも犬でもなく人の姿をした何かだった。俺のひざまでの高さもなさそうな、折り畳み傘程度の身長しかないその人物は着物のようで着物ではない、アジアのどこかの民族衣装風な恰好をしていた。浴衣に似ているようにも見えたが、それにしては生地が分厚くしっかりしている。


 旅装のようにも見えたが、荷物は何も持っていなかった。頭にはふちのない丸い布製の帽子。その下から伸びるおかっぱに切りそろえた髪の毛は真っ黒で、梅雨の空気の中、ぬれたように光っていた。整った顔立ちは女性にも男性にも見える。年の頃は、人間だとすれば高校生から大学生くらいのように思われた。


 吊り目気味の目つきがこっちを見た。見ていることに気づかれたらしい。


 しまった、と思った。何しろ、大抵こういう場合、人間に見られていることに気づいた不思議な存在は音もなく姿を消してしまうものだと相場が決まっていたからだ。少なくとも、俺が子供のころから読み慣れてきた本の類では常にそうだった。


 だから相手が特に警戒した様子もなく、軽く会釈してきたのはひどく意外だった。


 それでもさすがにこちらから近寄るのは気後れした。怯えさせてしまうのではないかと思った。どうしようか迷ってから、道路の反対側にいるまま声をかけてみた。あたりに他の人影はまったくなかった。車通りも絶えていた。


 小雨の音がしんしんと満ち満ちている中で俺は尋ねた。


「傘、入りますか? 俺はもうしばらくこの道を先まで進みますけど、もし方角が同じなら途中まで傘に入りますか?」


 緊張のせいか自分でも少し日本語がおかしいような気がしたが、相手は気にした様子も無く、笑顔で道路を小走りに渡ってきた。俺の足元にすりよると道路を渡るときにその不思議な衣装に付いた水を払った。撥水性の生地なのだろうか。張り付いた水滴は綺麗に弾け飛んだ。


「助かります」


 子供と大人のあいだくらいの声。今年で30歳になる俺からすると子供と言えばいいのかもしれないくらいの声。そういえば普通に日本語が通じるな、と気付いたのは歩き始めてからだった。


 無言のままのほうがいいのか、話したほうがいいのかは分からなかったが、もう一度相手の声を聞きたくなった俺は、答えてもらえるかはさておき、行き先を聞いてみることにした。


「どこまで行くつもりですか? 最後まで一緒に行くつもりはないですよ」


 どこまでもついてくるつもりじゃないだろうな、と不快に思われるのが嫌で、あえて突き放すような言い方になってしまった。弱ったな。別に相手さえ良ければ最後まで傘を差していってあげてもよかった。特に予定はないし、独り暮らしの6畳1間に帰ってすることがあるわけでもない。


「すぐ近くです」


 あらためて、男性とも女性ともつかない声だな、と思った。


 俺がそんなことを考えているとは当然知らないであろう相手は、淡々と目的地の住所を告げた。それを聞いて驚いた。俺の住んでいる下宿先の大家さんの住所じゃないか。すぐ隣だ。驚くと同時に、なぜか少し安心もした。実在する人間の家を訪ねようとしている、ということはきっと別段そこまで不可思議な存在でもないのだろう、と思ったからだ。


 超常現象などに出くわしてみたいと思ったことはもちろんあったが、そんな特別な事態に出会ってよいほど自分を選ばれた人間だと信じることもできなかった。


 だから「そうではない」と間接的に告げられた気がして、安心した。お前はそこまでどうしようもない人間ではない、と認められた気がした。


「その住所ならちょうど帰り道の途中ですよ。運が良かったですね」

「そうみたいですね」

「ああ、途中ってのは本当ですよ。なんならうちの住所、確認しますか? 運転免許証に書いてあります」


 嘘をついていると思われたくなくて、そう言ってしまったが、相手は「傘を差したまま出すのは大変じゃないですか? 別にいいですよ、そこまでしていただかなくても」と顔の下半分だけふるふると揺らすような不思議な首の振り方をして断ってきた。


 数分と立たずに大家さんの家の前に到着する。俺の下宿先は、この門の前を通り過ぎて左に曲がったところにある。大家さんの家の隣、昔は離れとして使われていた建物だそうで、今は、トイレと風呂とキッチンのある独り暮らし用の6畳1間が各階に1つずつしかない2階建てのアパートになっている。


「それじゃ、ここで」


 特に相手に嫌われるようなこともなく別れのときを迎えられたことに軽い安堵を覚えつつ、俺はその場をあとにしようとした。しかし相手は俺のスラックスの端を固く握りしめて「ここではないです」と俺を見上げた。


 そう言われても言われた住所は確かにここだ。


「この家に離れがあるはずです。そこへ行きましょう」

「離れはもうないらしいですよ」


 相手の言葉に俺は困惑してそう答えた。元々離れだった建物はあるが今ではそこはアパートになっている、と言うべきなのか迷った。そこでよいと言われたら、今しばらくこの小さな人と一緒に時間を


 一緒にいられることは嬉しい。しかしせっかく良い雰囲気のまま、お別れできそうだったのだ。これ以上一緒にいて相手の気分を損ねずにいられるだろうか。相手を不快にせずに、嫌われずに別れたい。そう願う気持ちがあった。


 しかし嘘をつくこともできず、元々離れだったという建物があり、そこの2階に俺が住んでいることと伝えると、「ではそこに行きましょう」という言葉を笑顔で告げてしまった。せめてもの抵抗というわけではないが、俺は玄関先で「部屋を簡単に片づけるので少しだけ待ってください」と頼み、先に家に入った。


 朝に家を出るときに敷きっぱなしのままだった布団を押し入れに詰め込んだあと、簡単に箒で畳の上を掃いた。普段であればそのまま廊下を掃いて玄関先までゴミを集めてしまい、開いた玄関の外へと掃き出すまでが俺の「掃除」だが、今日は外にお客様がいる。仕方ない。滅多に使わないちりとりでゴミを集めてビニール袋に捨てた。


「どうぞ。何もないところですけど」

「お邪魔します」


 玄関を開けたらいなくなっているのではないか、という期待はあっさりと裏切られた。家に上がる前に軽く相手は少しかがみこんだ。何をするのかと思ったら、その衣装の長いすそに隠れてよく見えなかった小さな靴を脱ぎ始めた。この蒸し暑い季節にふさわしい、涼し気な草履のようなものを履いていた。しかしとても小さいのにしっかりした作りをしている。伝統工芸品のようだ。


 玄関から伸びる短い板張りの廊下の先にある6畳1間に案内する。部屋にある座布団2つのうち、お客様ということで分厚いほうを差しだした。真ん中にちょこんと座った姿はどこか神様のようだった。その神様が精一杯の重々しさで告げた。


「何か悩みごとはありますか」


 いきなりそう聞かれた。困った。もちろんある。それも1つではない。だが話したいとも思わない。なぜならその悩みというのは、たとえば非常に個人的なことだったり、たとえば人に話すと途端にくだらなく思われるようなことだったり、もしくは仕事のことなので職場の人以外に話しても伝わらないようなことだったり、そういった悩みばかりだったからだ。


「あるけどあまり言いたくないです」

「恋愛の悩みごとを聞きたいです」


 聞きたいです、と言われても困る。聞かせたくない。何しろ先に挙げた例の中でも「非常に個人的なこと」であり、かつ「人に話すと途端にくだらなく思われること」でもある。しかし綺麗な黒髪のおかっぱの下から興味津々といった具合に見上げてくる相手の目に俺は根負けしてしまった。


「連絡がないことくらいですかね」

「家族からですか?」

「いや、恋愛の悩みごとですから、それはないです」

「じゃあ、片思いの相手、もしくは恋人ということですね!」


 袖から手を出さずにパタパタと上下に振る。妙に嬉しそうだ。なぜか、仕方ない、と思わせる何かがあった。俺は簡単に状況を説明した。


 付き合い始めてまだ数ヶ月。最初の1週間か2週間ほどは打てば響くような早さでメールも返って来たし、電話にも出てもらえた。しかし1ヵ月経ったあたりから返事が滞り始めた。そして、最後に相手からメールをもらったのは1ヶ月半前。電話をもらったのは2ヶ月も前だった。


「しかもその最後のメールも非常にそっけないものだったんです。それ以来、こっちからもあまり頻繁に送ったら迷惑かもしれないと思って10日に1回程度に抑えてます。そのどれにも返事はないです。電話も何度もかけていますけど、一度もとってもらえてません」

「なるほど、なるほど」


 うんうんとうなずいている。


「その最後にもらったというメールを見せてもらっても良いですか?」


 思わず嫌な顔をしてしまったらしく「嫌ならいいですけど」と付け加えられた。しかしここまで来たらもうどうでもいいような気がしてきた。この相手が彼女と会うこともあり得ないことだ。別にかまいやしないだろう。


 受信したメールを開き、相手にスマホを手渡す。まるで新聞を掲げるように両手で持ったスマホの画面に相手が目を走らせる。もっとも30文字程度の短歌みたいに短い文面だ。目を走らせるといっても1歩もない距離だ。


「なんだ」


 あまりの短さに相手が思わずそう呟いた。俺はそう思ったが、実際は違った。長さに対しての感想ではなかった。


「大丈夫ですね」


 相手がほっとしたように笑顔を浮かべた。本当に嬉しそうだった。相手の言葉のよく意味が分からなかったので、何がですか、と聞いた。


「書いてあるじゃないですか。しばらく忙しいから連絡できません、って」

「でも」

「デモもストもないです。相手がそう書いてるんだから、それでいいじゃないですか。書いてないことを心配してはいけません。相手を疑ってもいけません。いずれまた連絡します、で文章は結ばれてるじゃないですか。それまでは待つしかないじゃないですか。何が心配なんですか?」

「嫌われたんじゃないかと」

「そうは書いてないです」

「書いてないですけど、それ以来、メールを送っても返信はないし電話もとってもらえないんですよ」

「しばらく忙しいから連絡できないそうです」


 そう書いてあります。そう言われた。確かに、そう書いてある。なるほど。


「そう書いてありますね」

「そう書いてあります」


 考えてみたら確かにそのとおりだ。


 変だな。何かがおかしい。いや、おかしくないのか。問題ないんだぞ。それならそれでいいじゃないか。何かがおかしくても、そのほうが安心できるならそれでいいじゃないか。


 ふと咽喉が渇いた。


「何か飲みますか」


 俺は立ちあがりながら相手にもそう聞いてみた。暖かいものが飲みたいと言われた。言われてみると、湿気はあっても気温は低い。少し汗の乾いてきた俺の体は寒さを感じていた。相手もそうなのかもしれない。


 やかんを火にかけて、部屋に戻る。小さい人はまだ分厚い座布団の真ん中で小さな神様みたいに座っていた。


 俺は安心して、少しだけ目を閉じた。


 やかんのしゅんしゅん言う音が驚くほど大きく聞こえて、俺は慌てて目を覚ました。蒲団の上に寝転んでいた俺は急いで起き上がった。


 少し混乱気味に、朝出かけるときに敷きっぱなしだった布団を見る。自分の体を見回すと、会社から帰って来たときの服装のままだった。変な夢を見ていた。思い出せないのに、変な夢だったことだけは覚えている。よくある話だ。


 そんなことはどうでもいい。慌てて火を消しにキッチンへ向かう。カチリと音がするまでコンロのボタンを押しこむ。ガスの火が消える。しゅんしゅんと勢いよく吹きだしていたやかんの湯気が弱まった。


 何を飲もうとしていたんだろう。思い出せない。やかんを火にかけたまま、布団に寝転んではいけない。本当にダメだ。そのとき部屋の机に放ってあった携帯電話が鳴った。今度は部屋へとバタバタと駆け戻り、急いで電話をとった。


「お兄ちゃん?」

「なんだ、お前か」

「なんだって何!? ってか、もしかして寝てた?」

「いや、今は起きてる」


 妹からだった。干支1周り分ちょうど離れている彼女は、まだ大学生だ。同じ都道府県に住んではいるがお互いに独り暮らしをしていることに加えて、俺が平日に働いているため、会う機会はあまりない。


 もっともここ最近は、隣県に住まう祖母の具合が悪く、一緒に見舞いに行くことがあったため、ここ数年に比べるとこの半年は会う回数が少し多かった。案の定、今回の電話も、次の見舞いのスケジュールを調整するためのものだった。


「何かお土産もっていこうと思うんだけど」

「フルーツバスケットとか?」

「食欲ないらしいから、そういうんじゃなくて小物とかさ。携帯のストラップにしようかなって思った」

「ストラップの使い道あるのか? スマホも持ってないだろ」

「別にストラップだけでもいいじゃん。ベッドとか壁に吊るしてもいいしさ。そういえば前にお兄ちゃんにストラップあげたよね。ちゃんとつけてる?」

「ああ、鞄につけてるよ。そうだな。別に電話につけなくてもいいのか」

「ほらね? まあ、いいや。なんか適当に持ってく。じゃね」


 電話が切れた。


 妹に言われるまで忘れていたが、そういえば鞄には色々と小物をぶら下げている。海外出張のときに現地の会社の人にもらったキーホルダー、妹からもらったストラップ、出張者の方からもらったお土産のピンバッジ。


 妹からもらったのは北海道土産のストラップだ。北海道に住まうという、折り畳み傘程度の背の高さしかないという妖精だか精霊だかの木彫りの人形だった。裏に住所を書くための紙が貼りつけてあるので、本当は小学生くらいの子供向けに作られたものなのだと思われた。おそらくファンタジー小説や伝奇物が好きな俺のために、と選んでくれたのだろう。もらったときは素直に嬉しかったので、まさか鞄を落とすようなこともないだろうと思いつつも、その裏の紙に今の下宿先の住所を書き込んでみた。


 住所について思い出したとき、ふと何かが引っ掛かった。さっき見たはずの、思い出せない夢に関係あるような気がした。あと少しで思い出せそうで、絶対思い出せないことが分かっているそんな夢。


 実物を見れば思いだせるかもしれない。鞄を持ちあげてみた。不思議なことに、たくさんぶら下げた小物の中から、その人形だけが無くなっていた。


 それから数日後。1ヵ月以上のあいだ音信不通だった彼女から電話がかかって来た。忙しかった、と近況を簡単に説明したあと、別にあなたのことが嫌いになったわけではない、と教えてくれた。またね、と電話を切られた。


 小さな神様のおかげかもしれない。何の脈絡もなく、そんな考えが浮かんで自分でも不思議になった。


 余談だが、祖母の見舞いに妹と一緒にいったとき、あの人形を無くしたことを妹に伝えたらとても怒られた。

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