第2話 月にまつわるエトセトラ


「夏目漱石は『I love you.』を『月が綺麗ですね』と訳したと言われています」


 昼下がりの古典は拷問で、夢に堕ちる生徒はクラスの半数に達さんとする。


 ──こんなに気持ちいい穏やかな午後だ。僕だって君らみたく眠っていたい。


 そんな風に思いながら、香川教諭はチョークをケースにしまう。

「まあ、そのような発言をしたという記録が残っているわけではないみたいですが、いずれにしろ、月という存在は、日本人と馴染みの深い関係であることは間違いありません」


 鳴り始めたチャイムに、ぽつぽつと目覚め始める生徒、それにすら気づかない生徒。


「以上で、竹取物語は終了です。次回からは漢文の用意をしてくるように」


 ちなみに、月とは関係ないですが、二葉亭四迷は「I love you.」を「死んでもいい」と訳したそうです──と言ったところで、二葉亭四迷という名も、死んでもいいと思うほど誰かを愛する機微も、彼らは理解していないだろう。


 香川は白く汚れた指先を軽く払って、教室を後にした。


「香川先生」

 後ろから声が追いかけてくる。香川が足を止めて振り返ると、お調子者の男子生徒が駆けてきた。右手に冊子を持っている。


「課題、遅れてスンマセン」

「ああ。三日しか遅れないなんて、椎木にしては珍しいな」

「次は二日遅れを目指します」


 タンと足を鳴らして、椎木は恭しく敬礼した。青い坊主頭とあいまって、さながら兵隊のようである。


「そういうことじゃないだろ」


 香川は受け取ったばかりの冊子で椎木の頭を軽く叩くと、彼に背を向けた。


「スンマセン……。あ、そうだ先生、」


 また呼び止められて、香川は頭だけ振り返った。早く職員室でコーヒーが飲みたい。


「──先生って、誰かに『月が綺麗ですね』って言ったこと、あるんですか?」


 さっきまでの反省顔からはうって変わって、椎木の口元はいっちょまえに、ニヤニヤしている。


「なんだ、授業聞いてたのか。てっきり寝てたのかと思ったぞ」

「失礼なこと言わないでください。俺古典、意外と好きなんですよ」


 失礼なのはどっちだと苦笑しながら、香川は質問にどう答えるべきか考えた。


 恋愛に話を持っていけば、大体の生徒は関心を持つ。そういうお年頃だし、高校生でなくとも人類はみな、色恋沙汰に目がない。だから香川もなるべく生徒へのサービスとして、授業中にそういった類の小話を入れるのだが、そうすると香川自身の恋愛について質問してくる生徒がたまにおり、その度に香川は頭を悩ませることとなった。


「そうだなあ、椎木は言う予定あるのか?」

「あ、そうやってはぐらかすんですね。先生の悪い癖ですよ」


 椎木の頭を掻く姿を見届けて、香川は頭を戻した。彼は自分に不利なことを言われたとき、頭を掻く癖があった。


 ──後輩のマネージャーにでも告白するときに使うつもりなんだな。


「スンマセン。はぐらかすつもりはありませんでした。『月が綺麗ですね』か、言ったことは……あるよ、一度だけ」

「え、誰にですか?」

「誰に? そうだなあ強いて言えば、宇宙人だ」

「うわ。そうやってまた、はぐらかす」


 人の後頭部によく話しかけてくるやつだ。香川先生は冗談は言っても、嘘は言わない。


「嘘じゃないよ。それより告白、うまくいくといいな」


 教室三つ分先の廊下に立つ椎木に聞こえるよう、香川は大声を出した。


「え、なんでバレたの?」と頬を染めて頭を掻く椎木の姿を想像しながら、階段を降りる。


 ──だがそれで伝わるような頭の良い子には見えないぞ、あのマネージャーは。……あの人にさえうまく伝わっていたかどうか分からないんだから。


 香川は職員室に戻ると、熱いブラックコーヒーを片手に、深く腰掛けた。

 そう言えば今夜は満月らしい。陽が沈むまでに、授業は二コマ残っていた。


 ***


 今となってはずいぶん昔のことに思われるが、五年前、香川が国語の教員になって二年目の夏のことだった。

彼は学生時代の友人とキャンプに出かけ、星を眺めながら酒を飲むという贅沢な休みを過ごしていた。


「ちょっとトイレ行ってくる」


 だいぶ酔っ払っていた彼は周囲の制止を振り切り、近くにある公衆トイレではなく、わざわざその裏手に広がる暗い森へと足を踏み入れた。そして。用を足し、ふと我に返ったとき、自分が今どこにいるか分からなくなってしまったのだった。


 携帯電話はテントに置いてきていたし、森の中は暗いという言葉では表現できないほどの闇に沈んでいた。

満月の明るい光も高く伸びた木々に遮られ、香川はまるで世界から切り離されたような気分になった。


 いくら酔っているとは言え、そんなに深く入り込んできてしまっただろうか。


 酔いはすっかり醒めてしまい、香川は血の気が引くという感覚を生まれて初めて味わった。


 ──それにしても、足元の草や落ち葉さえ見えないとはどういうことなのか。


 徐々に冷静さを取り戻してくる頭が、小さく警告を発している。


 気づけば木々がざわめく音も、正体の分からない生き物の鳴き声さえも聞こえない。まるで神隠しにでもあったかのようだ。このまま動かずにいるか、勇気を出して動いてみるか。そもそも、この妖しい状況の中、僕の脚は動くのか。


 トイレを済ませておいたおかげで、ちびってしまうリスクを回避できたことに安堵する余裕を取り戻すまで、五分程を要した。時間感覚がなくなっており、香川にはその五分が一時間くらいに感じられた。


 その時唐突に、まず音が戻ってきた。さらさら、さらさら。


 笹の葉が揺られる音だ、と香川は直感した。そして、ここには竹など生えていなかったはずだと考察し、厳密には笹と竹は別物だったと訂正した。


 そして次に風景が戻ってきた。目が慣れてきたから、ではなく、突然茂みの向こうに光源が生じたようだった。


 ああ、ここは竹林だ。


ぼんやりと露わになる周囲の風景は、竹林の影絵に見える。僕は、異界に足を踏み入れてしまったようだ。


 香川はもうどうしようもなく、その光源へと近づいていった。


 光が強くなるにつれて、香川の中の確信も強くなる。


竹と光。


日本人であれば、否が応でも脳裏に浮かぶ。遺伝子が乗せて運ぶ物語と言っても過言ではない。


 ──やっぱり。もと光る竹なむ一筋ありける。


 藪をかき分けた先には、根元が光る竹が一本。不思議に思って近づいてみると、竹筒の中が光っているようだ。香川は斧も鉈も持ち合わせておらず、どうしたものかと思案した。


「竹を割らなければ、三寸ばかりなるうつくしい人は、すくえませんね」


 唐突に、澄んだ声が香川の脳内に響いた。響いた、というよりは浸透したという表現が適切かもしれない。その琴の音のような声は耳を介さずに伝わってきたが、不思議と声のする方向は感知できた。


 もと光る竹から、その気配のする方へと身体を向ける。


「あなたも日本人であるならば、ゆめゆめ知らないことなどありますまい」


 そこにいた彼女は光ってなどおらず、身に纏うものも現代的で、香川は一瞬、同じキャンプ場に来ている女子大生が自分と同じように異世界へ送り込まれたのかと勘違いした。


 ただ、彼女は美しかった。


香川の想像よりも、もう少し美しい姿でそこにいた。端整、清らか、という言葉は彼女のために、もしくは彼女のおかげで生まれた言葉なのだろうと思われた。


「あなたは」


 愚問を、と言わんばかりの微笑をたたえ、今度は彼女自身の口から言葉が発された。


「なよ竹のかぐや姫──地球では、日本では、古来よりそう呼ばれています」

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