幻獣の庭

ミヤマ

幻獣の庭

       1


 ある日、少年は洋館へ探索しようと思い立った。

 その洋館は住宅街の中心部から少し外れた場所に建っており、今は誰も住んでいない。噂によるとそこには老人が独りで住んでいたが、ずっとまえに発作だか脳卒中で亡くなって以来、廃屋のままだという。


 学校へと通う道すがら横切る、チューダー式のような建物は、現代の家居と比べて余りにも時代錯誤の感に堪えなかった。

 突如時空に断層ができ、数百年ものずれがある過去と現在との断層面から抜け出てきたばかりといった趣の建築物だった。

 剥げ落ちた漆喰と朽ち欠けた煉瓦の壁、繁茂した雑草の庭に居を構える蜘蛛くも蚯蚓みみず飛蝗ばったたち、ひび割れた窓ガラスが、貴族趣味の館の高貴さを失わせていた。

 初夏に差し掛かる時分、けだるい暑さで自転車を走らせる少年の白シャツが脂汗を吸う。 


 館へ着き、彼が荘厳な装飾の施された扉を開けると、冷気が当たった。玉の汗が浮かんだひたいは熱を奪われ、寒さが背筋をのぼる。扉を閉めたとたん、外の喧騒が、自動車のエンジン音も鳥の囀りさえも聞こえなくなった。


 少年の前に広がる隔絶された空間。玄関のアーチ窓から日光が射し込んでいる。

 太古の塵と空気を閉じ込めた琥珀のように、館の時間は止まっていた。

 玄関から広いエントランスルームにかけては緋を基調としたアラベスクの絨毯が敷かれている。壁に行き当たるとそれは左右に分かれた。壁側に置かれたキャビネットの中では動かぬ懐中時計たちが勝手な時刻を指している。絨毯は綿埃が薄層をなし、あちこちが弛んでいた。

 床を踏むたび、微細な塵が立つ。半ば腐った木材と剥離したニスや手入れのなされていない家具の発する黴臭さが鼻腔に充満する。

 床板の軋みと少年の呼吸以外、館に音はなかった。


 エントランスルーム脇には広間があった。中では樫製の長テーブルと猫脚の椅子が並べられている。マホガニー材で組まれた椅子は支那趣味シノワズリの色濃く、紅緞子べにどんすが張られていた。椅子は端然と並べられ、茶会でも行われそうな雰囲気だった。

 左右に走る廊下の奥には二階へと続く階段が伸びている。

 廊下を曲がれば、幾つかの洋室、調理場、トイレや物置があるだけの簡素な作りだった。

 奥へと進んださき、窓からは鬱蒼とした中庭が見える。

 そして、何かがいた。この館に住む何かが。

 無数の視線が肌を刺す感覚。どこにいるのだろうか。 

 ——多分、この洋室たちの中だ。

 ドアを隔て、ひしめいている何か。

 ——犬か猫なんかだろうか?

 少年は躊躇い、ドアを開けた。




       2

 

 そこにいたのは、人形たちだった。

 禽獣虫魚や、人型のマネキン。そして目を引くのが、多くの人外たちの人形だった。

 人外。この世界には存在しない生き物たち。

 胡粉を塗られて艶めく皮膚や鱗に覆われた人形たちの部屋が静まりかえっている様は、さながら先ほどまでしていたそれらの談笑が、少年の突然の来客によって遮られたかのようだった。


 鰓の部分から脚が突き出てた魚や、煌々と燃える眼球を嵌められた虎。

 数種もの動物の部分を縫合したキメラ。 

 女体に鶏の頭がくっついたマネキン。

 ハンプティ・ダンプティのような卵形の胴体に厳めしい渋面がついている怪物。

 その他名状しがたい人外人形たちが部屋に居座っていた。

 ほかの部屋も同じだった。

 扉を開けるたびに自分が招かれざる客として、これらに冷たいガラスの眼で迎え入れられている気がしてならない。


 一室にあった、蝙蝠の人形には、胴体にぽっかりと穴が開いており、そこから金属製の歯車や発条ばねが鈍く光って顔をのぞかせていた。

 少年が脇腹にあった螺子ねじをおもむろに回すと、人形に内蔵された歯車がいっせいに回転運動をはじめた。そして、馬の人形は前足をあげたり、頭を揺らし、機械の運動が止まる迄生き続けた。


 ——こいつらは、みんなこんな仕掛けをもっているのか!

 少年は、思いがけない宝を見つけ、俄かに胸が躍った。この機械仕掛けたちを、少年は自分のコレクションに加えようにしようと思った。

 彼が今まで訳もなく蒐集した、何にもならないガラクタのコレクション――貝殻やビイ玉だとか、蛍石や白雲母の小さな欠片だとか――に、新しく加わることのよろこびを夢想した。

 罪悪感も多少はあったが喜びに比べれば微々たるものだった。

 それらを並べ、ガラクタの博物館の館主として飽くまで眺めているのが、少年の密かな愉しみだった。

 生来の気質から同級生や放任気味の両親ともあまり話すことのない少年にとって、こうした一人の遊びが心の安らぎだった。

 


 二階へ上がると、円形のホールが広がっていた。。

 そこには、少年と同じくらいの背丈のものが立っていた。

 やはり人形だ。その背中からは真黒い翼。

 肩甲骨のあたりから伸びた双翼を広げているさまは天使のようだった。

 だがその翼の黒色は聖性よりもむしろ不吉さを示していた。ふと、少年の脳裏には凶鳥まがどりという言葉が浮かんだ。夜空を飛び、中世の街に疫病や飢餓を撒く凶鳥。


 少女だった。

 肩までかかるストレートウィッグが縫われ、ボールガウンのドレスを纏っている。

 大きく開かれた碧色の眼、細い眉や睫が少女に気高いの表情を与えていた。白い肌には煤や埃の汚れ一つと付いておらず、じっと窓から雑草の繁った中庭を見下ろしている。まるで、この人形が洋館の主人だとでもいうように。

 少女の首元の小さな螺子を回すと、黒い翼が上下に揺れた。

 ——夜な夜な、この少女は窓から黒翼を羽ばたかせ、街を翔んでいるのだろうか?

 妄想を膨らませ彼女に畏怖にちかい空恐ろしさを抱いた少年は、館を出た。

 その間際に、一階の洋室にあった人形の幾つかを、リュックサックに詰めた。


 帰路の途中、彼は前の住み手だったという老人を思い出していた。老人はあの人形たちと毎日を共にしていたのだろうか。一階の大部屋にあったテーブルに彼らを座らせ、会話に興じる老人。

 そんな光景を思い浮かべると、リュックサックにいれた数体の人形が外の世界へと攫われたことへの呪詛を吐いている気がした。

 夜、自分の部屋で人形の螺子を巻いた。机の上で踊る精霊や小鬼たち。

 彼は夢を見た。無数の人外人形が踊り、奇声をどよもして列をなしている。彼も列に加わり、一緒になって騒擾を楽しんでいる。

 その日から彼は、館で遊ぶようになった。そこは彼以外の誰も足を踏み入れぬ、彼だけが呼吸をし、機械が運動する秘密の場所だった。




       3


 館の中庭で、少年は気に入った機械人形を並べてはその螺子を回した。


 七本足の羚羊、手足が無い牡鹿、一つ目の倭人ピグミー、ねじれた角の生えた牧神(パン)、龍と虎の二つの頭が狗の躰にくっついた饕餮とうてつ、葦笛の音色で鳴くマンティコラ、痩せこけて肋骨が皮膚の内から浮かぶ貧相なニンフ、ボタンを押すとフルートを吹くサテュロスや琴を奏するキュクロプス、海泡石のパイプを気取りながら蒸かす紅毛の猩々、一本足でそこらを跳ねまわる畸形人形、古代の魔術めいた唸りを発するニスナス、渦を巻く貝殻から螺子を回すと顔を出す一角獣、脚が対になって結合した肉塊、古今のどの博物誌にも載っていない幻獣たち……。


 いつのまにか、庭を無数の機械仕掛けの幻獣たちが埋め尽くした。

 ボッシュの描いた地獄絵めく人形の衆。

 そしてそれらの庭を支配するかのように、あの少女人形があった。

 窓から人形たちの蠢動を眺めているそれは、それらを支配するこの廃墟の主だった。

 機械仕掛けではなく、己の呪法でそれらは動いているのだというように少女人形は庭を眺めていた。

 この庭で、人形たちの集いに交わっているあいだ、少年は充足した。無味の日常から逐電し、これらとともにずっと身を隠して戯れる憧憬。

 人形がいかなる歯車と発条の巧緻な作用によって動いているのかは、少年の与り知る所ではなかった。もとより、機械人形の内臓を果たして館の老人が作ったのか、何のために生み出したのかも、少年にとっては関心がなかった。




       4


 夜中、少年が家でラジオを聞いていた。投稿者の便りを読み上げる芸能人や流行りの歌を届ける音楽番組、近いうちの大雨を報せる天気予報や陰惨な殺人事件のニュース。

 そして、番組の間に混ざるノイズ。

 最近、番組の内容よりも少年はこのノイズにじっと耳を澄ませていた。

 これを聴くと、彼はきまってあそこに置いた物たちを想像するのだ。

 ——あいつらは実は人形なんかじゃく、夜の間だけ生き物の命を得て、昼間はあんな風に人形のふりをしているんだ。

 ——あいつらは、勝手に自分たちをさらった僕のことをなんと噂しているだろう!

 ——このノイズはひょっとしたら、夜な夜な繰り広げられる招宴の、獣たちの鳴き声や話し声が電波となってはるばる僕のラジオへと送信されたものではなかろうか……。

 妄想を膨らませた途端、このノイズはたちまち、アケオーンの奇声やマンドラゴラが大地から抜かれる時に発する産声のように聞こえた。



 だがこの遊びを続けていると、段々少年は奇妙な嫉妬と隔絶を感じるようになった。人形のネジを巻き、ボタンを押してそれらが歯車の回る音を立てて会話を始めても、ラジオのノイズで彼らの夜宴を想像しても、少年ただ一人はその集いで交わされている言葉を理解することもできない。それはひどく不公平に思われた。

 いまや、人形たちの列に加わるだけでは満たされなかった。

 ——ああ、自分もあの輪のなかへと入りたい!

 少年は、自分の体に詰まっている内臓が、血と脂に濡れた臓腑なんかではなくて、あの人形たちと同じであったら、と切望した。それさえ叶えば、自分は人外の人形たちが発する唸りや鳴き声、自分には聞こえない言葉を理解できるのだ。少年はそう信じた。

 良く晴れた日、いつものように小原で人形を動かそうとしたが、少年は気が乗らなかった。機械の運動による人外人形たちの魅力は、燻る孤独感によって靄がかかった。

 自分は人だから人の世界の外に住むものたちの遊宴には交わること能わず、それでも交ざりたいという願いを持った今、もうこの遊びに興じることは不可能であった。

 気まぐれで少女人形を庭へと連れだしてみても、やはりむなしさは変わらなかった。

 ——どうしたって、自分のこの惨めったらしさはどうしようもならないな。

 放心状態のまま、機械人形を館の中へ戻すのも忘れて、自転車で家へと戻った。




        5


 夜、夕餉を食べ終え自室にこもった少年は、外で雨が降っていることに気付いた。

 ——そういえば天気予報で近いうち大雨が降るって言ってたっけ!

 人形たちを野晒しにしていたことを思い出した。少年は慌てた。雨水が人形の体内に入って機械を駄目にしたらどうしよう。彼らをあのまま壊れさせてしまうのはやはり惜しいことではあった。そしてあの凶鳥を、少女人形を、風雨に晒し汚してしまうことで、自分が復讐をなされる気がした。

 両親にばれないよう家を出て、再び自転車を走らせた。

 雨脚は強く、たちまち少年のハンドルを握る手はかじかんだ。

 洋館へ着いた。雨はますますひどくなっている。

 人形たちはそこには一体もいなかった。

 だが、館で感じたような、ドア一枚を隔てての気配がそこらにあった。

 少年は上を見た。二階の窓。人影が映っている。

 それは少女だった。黒い双翼の少女。

 碧の瞳には光があった。

 肌には血が通っていた。

 翼はたおやかに揺れていた。

 ——ああ、やっぱり。あの人形たちは。少女人形は。

 雷鳴が鳴り響く。雨の勢いは増している。

 ——生きていたんだ。

 少女の碧眼に反射した雷光が、少年を射抜いた。

 意識が虚ろになり、彼は立ち尽くした。

 少女が呪文めいた言葉を発する。聞き慣れない言葉が呪力を纏い、少年の体に妖効をもたらす。

 生じる身体への違和感。雨に打たれる皮膚が変化してゆく。

 骨が軋み、骨格が変わる。手足の骨と筋肉が伸ばされる。衣服は破け、少年は雨に裸体をさらした。

 脚の骨が蜿蜒と曲がり、しゃがむような姿勢になった。足指の骨は音を鳴らして変形し、三趾足となった。足の皮膚の肉が波打ち、細胞の一つ一つが硬く黒い鱗となった。そして踵のあった部分から鋭い蹴爪が生えた。

 肩の関節が外れると、両腕が真後ろに回った。開いた手の指も、皮膚と肉ごと融合していく。

 腰椎は前へと曲がり、胸の内側から凸面形の骨が突起した。

 手足や胴体からは黒く柔らかい羽毛が生えて首から下を覆った。

 少年は一匹の黒鳥になった。


 大きな黒翼を広げる、少年の顔をもった凶鳥だった。

 黒い凶鳥は人語の代わりに、鋭い鳴き声を発した。

 あたりを跋扈していた人外が黒鳥の前に姿を見せた。

 血の通う肉を持ち息づく人外たちの光景はいま、現実として存在した。断じて少年の妄想などではない。

 嵐となった風雨が、庭を押し流さんばかりに飛瀑する。

 人外たちは一斉に雷雲立ち込める空へ昇った。

 少女は翼を羽ばたかせ窓から飛翔する。

 黒鳥もそれに倣い虚空へ舞い上がった。

 彼らは旁魄ぼうはくの群れとなり、雲居くもいの彼方へと消えていった。  




        6


 翌日、少年の捜索願が両親から出された。

 数年後、館は取り壊され更地となった。

 少年が姿を見せることはなかった。

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