第16話 お伽話の本当の姿
布を引き裂く音に振り向くと、踊っていた男性の一人が数名の男に殴られていて、女性のドレスが男たちの手で破かれていた。
他の男女にも男たちが群がって、女性の悲鳴と男たちの興奮した笑い声が舞台に響く。
体格の良いエフィムを警戒しているのか、武器を持った男たちは少しずつ包囲する輪を狭めてくる。
「ダヴィット! こんな酷いこと、やめさせて!」
王女の前で名前を呼んではいけないと思っていたけれど、呼んでしまった。
「……ごめん、エミーリヤ。僕が謝れば、君は何でも許してくれるだろ?」
王女に寄り添うダヴィットは微笑むだけ。
「どうして!? 正気に戻って!」
優しいダヴィットがこんなことを許すはずがない。私は目の前の現実を信じられずにいた。
「貴女のダヴィットなんていないのよ。ここにいるのはわたくしのダヴィット」
王女は私を嘲笑う。精霊のような美しい指が、ダヴィットの頬を撫でる。ダヴィットは微笑みながら王女のされるままになっている。
「……しっかり掴まっていて下さい」
硬い声で囁いたエフィムが私を片腕で抱きしめて走り出した。一瞬で距離を詰め、片腕で男たちを殴り、蹴り飛ばす。
自分の体が軽いと感じて、視線を下げると私の体に緑色の魔力光が煌めいていた。何かエフィムの魔法が掛けられているのかもしれない。
男の一人が持っていた剣を奪うと、エフィムは私の顔を自分の胸へと押し付けた。
「目を閉じて。見ないで下さい」
「はい」
私が目を閉じるとエフィムの動きが変わった。私を片腕に抱いているにも関わらず、剣を持ったエフィムの動きは恐ろしく速い。次々と周囲の男たちが悲鳴を上げ、倒れていく音がする。
遠くでも男たちの悲鳴が上がり始めた。エフィムは何度も剣を振っていて、夜会服の下で筋肉が大きく動いているのがわかる。何もできないことが心苦しくても、私が動いてしまえばエフィムの邪魔になるのはわかっている。しっかりとエフィムにつかまっているしかない。
いつの間にか女性の悲鳴も、男たちの笑い声も消えていた。斬られた男たちの呻きや怨嗟の叫び声だけが舞台に渦巻いている。
長い時間だと思ったのに、一瞬の出来事だったのかもしれない。エフィムが動きを止めた。
「……スヴェトラーナ様、誓いを破られましたね」
エフィムの声は静かな怒りに満ちている。そっと地面に降ろされて王女が座っていた場所を見上げると、王女を背に庇うようにしてダヴィットが立っていた。
「誓いなんて破る為にあるのよ。今回の生贄も取るに足らない平民だけだわ。お前も騎士とはいえ、平民上がり。平民が王族の娯楽に貢献できるのだから感謝するべきだわ」
ダヴィットの背に庇われた王女の声は笑っている。この人は平民を人と思っていないのだろうか。怖ろしさに私は震える。
ダヴィットは真っすぐにエフィムを睨みつけていて、私は視界に入っていない。寂しさに震えるとエフィムの手が私の肩を抱く。……温かい。
周囲を見回すと、血に汚れた下着姿の女性たちの手には剣や短剣、長い針のような武器が握られていた。平民と思っていた男性たちも武器を持ち、倒れた男たちに止めをさしている。
この光景は本当に現実で起きていることなのか。生きているとは思えない男たちが積み重なるように倒れ、どす黒い血が舞台の床を流れている。止めを刺す男性たちも女性たちも無言で、その表情は怒りに満ちていた。
見上げるとエフィムの顔にも血が付いていた。黒い服だからわからないけれど、エフィムも血まみれ。
貴賓席に目を戻すと、ダヴィットが王女を庇うように抱きしめている。私はその光景がうらやましいと思っていた。ダヴィットが私を庇ってくれたことは一度もなかった。ダヴィットは本当に王女だけを愛しているのか。突き付けられる事実が心に痛い。
入り口の扉が音を立てて開いた。
「スヴェトラーナ! すべて終わりだ!」
鋭い声を上げ、紺青色のロングコートを着たフェイと多数の兵士が入ってくる。エフィムは構えていた剣を下げた。
「……お兄様!」
「お前に兄とは呼ばれたくはない。王家の恥さらしが!」
王女に兄と呼ばれたフェイは、いつもとは全く様子が異なっている。厳しい表情は周囲を圧するような空気を発していて近寄りがたい。
扉の前に立つフェイと、貴賓席に立つダヴィットと王女を見上げていると、まるで舞台を見ているようで現実味がない。物語の登場人物は全員美しくて身分も高い。私は単に観客でしかないと感じる。
「ヴェーラ夫人は愛人と共に捕縛した。外患誘致、殺人教唆の罪で明日、処刑する」
フェイの言葉で、ヴェーラ夫人と淡い金髪の男性の姿が貴賓席から消えていることに気が付いた。いち早く逃げ出そうとして捕まったのだろうか。
「他の違法取引に参加していた者もすべて捕らえた。調べがつき次第、処刑する。……あとはお前とその男だけだ」
フェイの言葉が続く中、ダヴィットは王女を抱きしめている。
「……わたくしが処刑される意味がわからないわ。平民を遊びに使っただけよ。平民を何百、何千と殺しても、命の価値は王族一人の方が重いでしょう? 私の替わりはいないけれど、平民の替わりはいくらでもいるじゃない」
王女の言葉とは思えない。平民を、自分の国の民をそんな風に思っているのか。
「お前はまだ、そんなことを言っているのか! 皆、お前に教えただろう! 国民がいるからこそ、私たちが存在しているということを!」
「王族や貴族が贅沢ができるのは、国民の税のおかげだ。我々は税を受け取る代わりに、国という盾を護り、国民を護る義務がある」
「我々が贅沢な服に身を包み、宝石を身に着けて外国の者たちと対峙するのは、国と国民を護る為だ。高価な装飾品で国力と財力を示し、それが武力へと置換できることを知らしめる。我々は我が国に外国を攻め込ませない為の防具だ。我々は戦争を防ぎ国民を護る盾であって、国民を殺す剣ではないと、何故理解できない?」
「そんなこと、誰も教えてくれなかったわ!」
王女が発する言葉は、幼い子供のものに聞こえて虚しい。
「教えた! 皆が教えたのに、お前は自分の都合に良いことしか耳に入れなかった! ヴェーラ夫人などという妖婦にそそのかされ、自らの享楽のことしか考えなかった! 国民は我々の享楽の道具ではない!」
フェイは静かに激昂している。王族は王女のような考えをしているのかと一瞬思ったことを恥じた。王女だけが異質なのだろう。
「六年が経っても、子を成しても、やはりお前は変わらなかった。ヴェーラ夫人を捕らえる為にお前の自由をある程度認めていたが、今後は一切の自由を認めない」
フェイの言葉が冷たく劇場に響く。
「嫌よ! 今だって、窮屈で退屈なのに!」
王女は我儘な子供のように不満を叫ぶ。そんな王女にダヴィットは寄り添っている。
「……連れて行け!」
フェイの指示で、兵士が剣を抜いてダヴィットと王女を取り囲み、貴賓席から連行していった。
フェイが大きな溜息を吐いて、威圧するような空気が消えた。エフィムと私が立つ舞台にフェイが降りてきた。
「エミーリヤ、本当に感謝するよ。ずっと追っていた大罪人を捕らえることができた」
ヴェーラ夫人は国内の様々な犯罪の裏で糸を引いており、今回は恋人たちの宴の他、盗品売買や競売、禁止薬物の取引など、主に外国人犯罪者を招待した大規模な集会を開いていた。劇場を封鎖することで、全員を捕らえることができたとフェイが笑う。
フェイはこの国の第三王子イグナートだった。兄たちは王城から動けないから、自分が責任者となってヴェーラ夫人を追っていたと話す。
これが現実とは思えない。フェイはエフィムと私にお礼を言うけれど、私は何もしていない。
「二人の着替えと宿は用意している。そちらに……」
フェイの言葉に首を横に振る。
「エミーリヤ? どうしました?」
エフィムの声が優しい。私はドレスの隠しポケットから取り出したハンカチで、エフィムの顔についた血を拭う。
「……私、帰らなくちゃ」
私の役目は終わった。もうここにいる理由がない。
「どこへ帰るつもりですか? 家はもうないのでしょう?」
エフィムが頬を拭く私の手をそっと掴んだ。手のひらに頬を寄せられると温かい。
「……お屋敷よ。メレフの世話を頼まれているもの」
私はダヴィットにメレフの世話を頼まれている。明日も本を読む約束をしている。
「どうして!? これ程までに酷い目に合わされても、まだあの男の言葉を守るのですか!? あの男はエミーリヤが想う価値のない人間です!」
私の肩を掴んで、エフィムが怒っている。目の前にいるのに声が遠く聞こえる。
「エフィム、彼女が怖がってる」
フェイの指摘でエフィムが息を止めて私を抱きしめた。深く息を吸っていて、心臓の音が早い。
「今まで僕はエフィムが怒っている所を見たことがなかった。エフィムが怒っているのは、間違いなく君の為だよ。エフィムは真面目で優しい男だ。それは僕が保証する。安心していいよ」
フェイの声が不思議と心の中に染み込んできた。エフィムは優しい。私もそう思う。
「エミーリヤ、貴女は今日、大変な目にあったんです。後から心に影響がでるかもしれません。静かな場所に移りましょう」
エフィムの腕が解かれて、私は少し寂しく思う。
視線を下げると、綺麗なドレスは赤い血で染まっていた。エフィムの腕も体も血に染まっている。エフィムは約束どおり、私を護ってくれた。
「……私を護ってくれて、ありがとう」
エフィムに微笑むと、何故か悲しそうな顔をする。そんな顔をさせたくはないのに。
「私は貴女の騎士ですから。……わかりました。屋敷に戻りましょう」
エフィムは小さな溜息を吐いてから、微笑んだ。
エフィムに抱き上げられて劇場の中を進む。見ないで下さいと言われても、気になって見てしまう。
円形劇場の舞台は大量の血が泥水のように流れ、音楽が聞こえていた床の穴へと落ちて行く。下着姿だった女性たちは夜会服の上着を羽織り、兵士に指示をしている。血まみれで髪も乱れているのに、その姿は凛々しい。
「彼女たちは王家の間諜です。平民のふりをして参加していました。この夜会は女性の身体検査は行われないとわかっていましたから、ドレスの下に武器を隠していたのです」
宴が始まる前、廊下で見かけた女性がしきりに裾を気にしていたことをエフィムの説明で思い出した。男性たちも間諜で、兵士にも顔が知られないように、この場からはすでに離脱している。
「女性の間諜は顔を知られてもいいのですか?」
「女性は服と化粧でいくらでも変えることができるそうです。男の化粧は一般的ではありませんから」
成程。確かにこの国では化粧をする男性はいない。貴族の男性が化粧をする国もあると本に書いてあっても、実際に見たことは無い。
廊下へと出ると、そこにも惨状が広がっていた。黒い壁には赤黒い血が飛び散り、武器を手にした夜会服の男たちが絶命して床に転がっている。兵士たちが慌ただしく走り回っていても、舞台を見ているような気持ちは続いている。本当に現実感が薄い。
「……血が飛び散っても目立たないように壁が黒く塗られているのですか?」
「そのようです。ここは演奏会や演劇を行っていると見せかけて、奴隷の売買を行う場所だったそうです。奴隷を買って、なぶり殺すことが頻繁に行われ、血を拭っても染みが取れない為にすべてを黒く塗ったと聞いています」
不気味な黒さは、それが理由かと血の付いた壁を眺める。
「この劇場は閉鎖されていたのに、どうして開催することができたのですか?」
「名前を隠したヴェーラ夫人が、この建物を管理している町長から莫大な金額で借りたと聞いています。……貴女から取り上げたお金と、貴女の家を売ったお金と合わせた金額とほぼ同じですよ」
私は少し悲しくなった。私のお金は、ダヴィットの研究に役立てられたのだと思っていたのに、こんなにも酷いことに使われていたのか。
「……ここですね。……っ!」
エフィムが小さな部屋の扉を開けて息を飲んだ。異国風の織物があちこちに飾られた部屋の中央には、円形の大きなベッドがあるだけで、衝立も何もない。
エフィムが首を振り、フェイを軽く罵って溜息を吐く。
部屋の奥の床は色あざやかな模様が描かれたタイルが敷き詰められていて、シャワーが見える。お湯で血を流してしまいたいと思っても壁も衝立もないので、これではすべてを見られてしまう。
「すぐに着替えて屋敷に戻りましょう。シャワーは帰ってからです」
「はい」
ドレスを脱ぐとエフィムの目が落ち着かない。靴も靴下も血に染まっていたので、脱いで揃える。濡れたタオルを手渡され、手や足に残る血を拭う。
「……これは洗って落ちるでしょうか」
「血を洗う専門の者がいますよ。……このドレスを持ち帰るのですか?」
「いいえ。もう二度と着たくありません。ここに置いていきたいと思います」
「……良かった……」
夜会服の上着を脱いだエフィムに頬を撫でられる。
「良かった? 何故?」
「物には良いことも悪いことも含めて記憶を結びつけ、保存する力があります。今後このドレスを持っていれば、何年経っても今日のことを鮮明に思い出すことがあるでしょう。私は今日のことは早く忘れて欲しいと思っています。だから貴女が手放すと言ってくれたので安心しました」
エフィムの声は優しい。頬を撫でていた手がそっと離れた。
ベッドの横に置かれていた箱の中には、服と下着、靴が入っていた。
「……背中合わせで着替えましょう」
そう言って顔をこわばらせたエフィムに頷いて、背中を向けて着替える。シルクで作られた深緑色のワンピースはエフィムの髪の色と同じ。背中のボタンを留めながら、鏡が欲しいと思う。
「私は着替え終わりました。エミーリヤ、手伝いましょうか?」
残り三つのボタンはエフィムに留めてもらった。独りでも留められる数のボタンではあったけれど、誰かに留めてもらうほうが早い。
「ありがとうございます」
お礼を言って振り向くと、エフィムは貴族のような紺色の後ろ裾の長い上着に白いシャツ、黒いズボンにブーツという姿だった。似合うというより、着慣れていると感じる。
「……素敵です。似合っています」
私が微笑むと、エフィムは耳を赤くする。
「エミーリヤの方が似合っていて、綺麗ですよ」
エフィムは微笑んで、私を抱き上げた。
劇場から出ると、中庭や周辺にはさらに多くの兵士がいた。隠れている者がいないか隅々まで探しているという。
夜空には赤と緑の月。そして白い月が輝いている。空の静寂の下、魔法灯で煌々と照らされる劇場は騒がしさで包まれていた。
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