第9話 悪魔の口づけ

「えっと……難しい言葉が沢山出てきて、とりあえずわからないことが沢山あるんですけど……」


女子高生三人が一人暮らしの中年近い男の家にいるという、非現実的な光景の中で彩が早速会話を中断させる。

粗方の説明を終えたはずだった界人からしてみれば、もう話すことなんかない、と思っていたのにまだ続くのか、とがっかりさせられた思いだった。


「じゃあ、簡単に言おう。まず僕は離婚歴がある。結婚してたことがあって、子どももいた。相手方で育ててもらっているけどね。それから今僕は無職だ。趣味はアニメ鑑賞。まぁ無職ってことに関しては明日職場見学まで決まっているから、もうすぐ解消されるはずだけど」

「それってつまり、千夏を彼女として迎える準備ができた、ってことですよね」

「え?」


――何で君がそこで反応するの。

顔を赤らめながら驚く千夏と、それを見てうんざりした様子の界人。

二人の温度差にまどかは気づいている様だったが、彩は全く以て気付いていなかった。


「えっと……そういう意味で言ったわけじゃないから。でも、ある意味では君の言う通りだろう。僕も男だからこれから先何があってもおかしくはないし。そんな時、僕が仕事をちゃんとしていればある程度の不測の事態にも対応は出来るんだろうから」

「でも、そうなったとして元奥さんはどうするんですか?お子さんもいらっしゃるんですよね?」


まどかは彩と違ってどちらかと言うと、現実的な様だ。

仮に千夏と界人が恋人関係になる様なことがある場合、ゆかりと由衣はどうなるのか、という疑問はついて回る問題。

無視できる話ではないと思った界人は、ひとまずの説明をすることにした。


「別れている以上、復縁とかそういう話にはならないと思う。僕にもそういう気持ちはなかったし、正直千夏ちゃんと再会するまではアニメが恋人、くらいに思っていたくらいだから……そんな目で見なくてもよくないか?僕みたいな男は今もう珍しくもなんともないだろ」

「さすがにその歳でもう人生諦めた様な発言はどうかと思いますけど」


まどかの発言に千夏がうんうんと頷き、彩も何となく同調している。

――しかし……何でこうなったんだろう。

仕事が決まってついつい喜んで舞い上がってしまった界人の落ち度が原因ではあるが、界人にしてみたら機嫌が良いついでにたまには千夏と一緒に出掛けてやるか、程度のものだった。


――これからはこういうことがあってもおかしくないし、今まで以上に気を付けないと……やっぱり千夏ちゃんを連れて歩くのは危険だ。

ここ最近のツイてない経験から、彼は更に警戒を強めてしまう。

これから先、千夏が来ることも少し考えなくてはならない、と界人は考えた。


「中村さん、千夏を家に入れるのやめようとか考えてません?」


あまりにも的確な彩の言葉に、思わず界人は全身をビクッとさせて動揺をにじませる。


「か、考えてない」

「嘘ですね。千夏のこと連れて外歩くのは……とか考えてると思いますよ」


今度はまどかの一撃。

どうしてこうもグサグサ刺さる様な的確な内容なのか。


「いや、もしそう考えるとしたらそれは……」


そこまで言ってはっとして口を噤む。

――千夏ちゃんの、名誉の為……。

なんて言おうものならはしゃいだ千夏が引き下がらなくなるというのは、この数か月で界人も学んでいた。


「まぁ、そんなことはいい。今回みたいなことが今後起こらないとも限らないし、今回はたまたま君たちみたいな友だちに見つかっただけで済んだ。だけどこれからもそうとは限らないし、警察なんかが介入してきたら僕なんかじゃどうにもできないんだ。そうなったら千夏ちゃんだけじゃない、親御さんにだって迷惑をかけることになるだろう?」


それは確かに……と呟く声が聞こえる。

ここで界人は勝利を確信する。

何だかんだ言っても、やっぱり子どもなんだなと。


「そうなったらここに来ることだってもうできなくなるだろうし、別に僕は構わないけど……千夏ちゃんはそれでいいのかな」

「構わない……って何ですか。私、やっぱり邪魔だってことですか?」

「…………」

「中村さん、今のはちょっと……」

「千夏が可哀想だと思わないんですか?」

「…………」


この歳になってまで女子高生三人から詰め寄られて悪者扱いされているという現実。

昔もこんなことがあったなぁ、と界人は学生時代を思い出していた。


「……聞いてるんですか!?」

「あ、は、はい」


眼前に迫る千夏の顔と、怒声に現実へ引き戻されて界人は目を見張る。

――近い近い……こんな女の子に接近されたのいつぶりだ?いやそういう問題じゃない……。


「あっ……」


その時立ち上がろうとした彩がよろけて千夏にぶつかった。

そして当然、千夏もそのまま押される様にして前のめりによろけてしまう。


「ぶっ!?」

「っだぁ!!」


ガツッという何かがぶつかる音と共に千夏と界人が飛んで離れる。

界人の口からは血が流れ、千夏の唇が腫れていた。


「…………」

「…………」


突然の事故に流れる沈黙。

二人が何処をぶつけたのかは、明白だった。


「えっと……」

「ご、ごめん千夏……大丈夫?」

「あ、うん……痛いけど……」

「中村さん、凄い血!!」

「お?おお……」


ぶつけた時に唇を切ったらしい界人がティッシュで唇を拭っている。

――おいおいマジかよ……これ現行犯じゃないか……。

いくら不幸な事故だと言っても証人が二人、そして被害者が一人。


厳密には二人ともが被害者だが、世の中はそうは思ってくれない。


「あの、大丈夫ですか、中村さん……」


赤い顔をしながら千夏が問いかける。

痛みに目を潤ませているその表情が、界人にはやたら煽情的に見える。


「あ……ああ……まぁ、大丈夫じゃないかな、ちょっと切っただけだから」


そうは言うものの、界人としても先ほどの事故以来動悸が収まらない。

目の前の女子高生の、見慣れたはずの目を見ることが出来なくなっていた。

しかし、女子高生三人組は何やら界人に聞こえない様な音量でひそひそと話し合っている。


「中村さん」

「ど、どうした?」


いつになく真面目な顔をして、千夏が界人の顔を覗き込んでくる。

もちろんまた接近して事故を起こしてはたまらないということで、距離を取ろうとした。


「逃げないでください。中村さん、さっきのは事故です。そうですね?」

「あ、ああ……そうだな……」


千夏の意図しているところがわかりかねるが、彩とまどかは何となくニヤニヤして見える。


「でも、事故だと言っても事実として……その、接触はあったわけで……」

「…………」

「だ、だから……」


今一つ踏み出せない様子の千夏を、背後の彩とまどかが応援している。

――一体なんだって言うんだ……。金でも寄越せって言うのか?だったらもう少し待ってもらわないと金なんか入らないんだけど。


「だから、今度は事故じゃなくちゃ、ちゃんと、してほしいって言うか……」

「……は?」

「わ、私こう見えてあれが初めてだったんです。初めてがあれじゃ、ちょっと悲しい思い出になっちゃうなって……」

「い、いやさすがにそれは……」


――事故って言って認めてるんだから、カウントしなくてよくないか?痛みしか残ってないんだから……なんて言うのは無責任だろうか。


「じゃ、じゃなかったら親に、ありのまま言います。親がどんな顔するかわかりませんけど……お互いいいことにはならないと思うんです」

「…………」


捨て身の交渉とも言える千夏の提案。

それが失敗したら……つまり言い方によっては界人の家には来られなくなるかもしれない、という千夏にとっては危険なものだということは自覚している様だ。


「お、脅す様なことを言って申し訳ありませんが……ちゃんとしてくれるのであれば……私も、ちゃんと誤魔化します」

「ご、誤魔化す?親御さんに?」


ちゃんと誤魔化すという言葉自体がおかしいが、界人の頭にはもう明日からの仕事のことしかなかった。

こんな事故で折角決まった仕事がなくなってしまうなんて、困る。

そして千夏の背後で成り行きを見守る彩とまどかの視線が、界人の判断を鈍らせるのだった。

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