エビでタイを釣りたいので
純黒を纏う主が城を離れ、早くも二週間が過ぎた。
あの凛とした声も明瞭な決断も無い城内では度々混乱が起こっているものの、その都度トウカ様とシド殿が赴き対応してくださっており、今のところ大した問題は起こっていない。
領主の娘といえども幼子で、幼子といえども領主の娘だからだろう。
出立の日こそ大粒の涙を流しておられたトウカ様だったが、それ以来は明るい笑顔で不安に揺れる皆を照らしている。
記憶を失くし、言葉もわからず不安しかなかったろうに、あの一度しか涙を見せずに過ごしておられたお嬢様。
声を殺して泣きじゃくり、疲れ果てて泣き寝入った幼い子のことは周知の事実で、それでも明るく在り続ける在り方に涙ぐましく思う者は多い。
保護者と引き離されて内心寂しいはずなのに、領主の娘として在られる姿は私自身、一人の子を育てた親として胸に来る物がある。
しかし齢三歳といった子供でありながら、自身の立ち位置を理解し周囲に気を遣い笑顔を務めているのは、やはりあの方の娘だからなのだろうか。
勇気があるのか余程の恐れ知らずか、使用人の一人が尋ねたところ否定されたそうだが、同じあの黒を纏う以上そういった噂は絶えず、この城だけでなく国中で囁かれていると聞く。
年老いた私は既にあの二人を主として、次期後継者として見守ることを決意している故にどちらでも構わないのだが、欲ある者達の好奇心はどこからでも湧いて出る。
それが鬼神の怒りを買わねば良いと願っているのだが、鬼神自身がそれを待っている節があるためいずれ雷が落ちることは免れないだろう。
実子であれ養子であれ、自身の子すら撒き餌にするとは。しかも本人もそれをわかっていて、自らを囮にしている様子が見られるから末恐ろしい物だ。
それ以上に、そうでもしなければならない現状に苦い嫌気がさす。
寒さに厳しい土地柄に、貧富の差など関係なく息絶える子供達を大勢見て来た。
どうか穏やかに過ごしてほしい。どうか健やかに育ってほしい。どうか生きて大人になってほしい。
老いた身として未来ある子供達に願うのはそういった願いだというのに、欲にまみれた者達によってそれも難しい。
それがやっと変わり始めたというのに、そのきっかけたる二人が危険に身を晒さねばならないのは、変革をもたらす者への試練なのか。
私が長年かけても、息子を巻き込んでも変えられなかったこの地が、突然降り立った者達によって変わっていく。
目の前の光景に少しの不甲斐なさと嫉妬はあるものの、それ以上の喜びと勝手に背負っていた重荷を降ろせた安堵に、ようやく息ができるようになった。
その代わりに息苦しくなってしまった彼らに、私は報いなければならないとわかっている。
本来ならば私の代でどうにかしなければならなかった。
欲に溺れ、泥に沈み、膿に呑まれ、ノゲイラの崩壊の始まりとなった先々代の領主に仕えていた身として、私がどうにかしなければならなかった。
時に泥に手を沈ませ、自ら膿に踏み込んで。それでも止められず変えられず、多くの命を犠牲にした。
そこまでしても成し遂げられなかった私と違って、彼らはこの地に降り立ち汚れることなく成し遂げた。
汚れ無きその輝きが眩しくて、焼けてしまいそうで。思わず目を背けてしまいそうになるけれど、願わくばそのまま清く輝いていてほしい。
闇夜を照らす月の輝きのように、その輝きは人を惹きつけて止まないだろう。多くの者を照らしてくれるだろう。迷わず歩く導べになるだろう。
そのためならば私は何でもしよう。汚れて老いたこの身でも、この地に長く生きた経験だけは彼らよりも有るのだから。
まずは我らが領主様に早く帰ってきて頂きたいところだ。
仕事が溜まってきているのもあるが、何よりお嬢様のために帰ってきてほしい。
あの方の出立後、大急ぎで早馬を飛ばしたあの子への手紙はちゃんと届いているだろうか。必要な時間は取れただろうか。
先ほど後にした執務室で、大人しく子供向けの本を読んでおられたトウカ様を思い、遠く王都へと願いを馳せた。
ティレンテが扉を閉めた音がして数秒、下げていた視線をそっと上げ、シドと顔を見合わせ二人同時にふぃーっと息を吐いた。
「あっっぶなかったぁ……!」
「申し訳ありません、俺も気を抜いていました……」
「いやいや、ほとんど隠してくれたんだから、全然……! シドがいて助かったぁ……!」
ドクドクと鳴る心臓に思わず倒れこんだ硬いクッション。
干したてだったのか溢れるお日様の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、一息吐いたところでクッションの下に隠したそれを引っ張り出す。
幼女にはとても重たいそれは、私がどうにか隠した歴史書の一つだった。
クラヴィスさんが王都に行ってしまって以来、指示通り私はほぼ一日シドの傍にいる。
なんと寝る時も同じ部屋で寝ています。護衛だそうで。最初は驚いたけど間違いなんて起こるはずもないので問題無し。多分。
朝起きて、休憩を取るシドと一緒にご飯を食べて、日がな一日執務室で過ごし、シドと夕食を取り、書類仕事をしているシドの横で寝る。
そんな一日の流れがほぼほぼ固まってきた今日この頃。正直暇である。
シドが気を遣って休憩時間と称して城内を歩いたり、城の人達と交流したりもするけれど、基本執務室に籠っているわけで。
まだ隠している以上、シドの前で異世界の知識を大っぴらにするわけにもいかず、大人しく本を読んで過ごすしかないのである。
本当は設計図とか作り方とか色々覚えているうちに描きたいんだけどなぁ。書きかけの物もあるし、完成させたいんだけどなぁ。
こればかりは仕方ないので、改めてこの世界について知ろうとクラヴィスさんの蔵書を片っ端から読んでいる次第です。それぐらいなら許されるはず。
しかしこんな大人でも難しいような本を読んでも良いのは私を知っているクラヴィスさんか、ある程度察しているシドの前だけだ。
そのためティレンテが執務室に訪れた際、私は持っていた本をクッションの下に、シドは私が広げていた様々な専門書を机の陰やらに大急ぎで隠したわけである。
念のためカモフラージュ用の絵本も置いてあったが、仕事がさほど多くなくこの時間なら人もほとんど来ないからって二人して高を括ってたのが仇になった。
いやぁ火事場の馬鹿力って幼女でもあるのね。もう投げ飛ばす感じではあったけど、どうにかこれだけは隠せたよ。
普段ならクラヴィスさんが前もって教えてくれて隠す時間が十分に取れていたものだから、ついやってしまった。
何でもクラヴィスさんは常に周囲の魔力の流れが見えているそうで、城内の人の動きを大まかに把握しているとのこと。人間サーモグラフィーかな。
シドもシドで扉の先ぐらいの気配を察知できるらしく、頼りにしていたし実際何度も隠せていたのだけれど、シドも疲れが出てきているようだ。
ノックされる寸前、急に立ち上がってこっちに来たもんだから驚いたわ。部屋の前に立つまで全く気付かなかったみたいだ。シドも人間なんだねぇ。
さっきまで見ていたのはどの辺りだったか、記憶を頼りに読んでいたページを探していると、シドが隠してくれた十冊はあるだろう本の山を抱えて立ち上がった。
同じ作家の歴史書に別の作家の歴史書。他にも動物について書かれた物や魔法について書かれた物など。
様々な分野の専門書の数々が先ほどまで全部机に広がっていたと思うと、ちょっとやり過ぎてた気もする。だって関連してたんだもの仕方ない。
こちらに戻してくれるのかなと思っていたが、どうやら何か起きたらしい。
突然立ち止まったシドは、少し視線を逸らした後、本棚の方へと向かっていった。
「お嬢様、一度片付けましょう。どうやら少々問題が起きたようです」
「あらま。どこか行く?」
「いえ、こちらに来るかと」
「ん、わかった」
どうやら誰かが何かの報告に来るらしい。テキパキと片付け代わりに子供向けの本を数冊持ってきたシドは、私の持つ歴史書と取り換えてそれを机に置いた。
普段から城内で起きた問題の類はクラヴィスさんかシドのところへ報告に来たり現場に呼ばれたりするのだけど、クラヴィスさんが不在になってから少々数が多いように思う。
使用人同士の喧嘩や連絡忘れによる遅れなど、どれも大きな問題にならない程度の物ではあるものの、少なくとも一日に三回は何かしら起きている。
領主が居ないことに対する不安や緩みって感じかなぁ。それにしてもちょっと多いような。なんだろね。
普段の彼らならしないようなミスが増えてきている何とも言えない違和感に嫌な物が過ぎるが、シドが一番わかっているだろうから黙って呑み込んで元々机に広げていた絵本のページを捲る。
黒髪と金髪の二人の少年が剣を掲げる場面が描かれたこれは、この国の建国について描かれた物だったか。
軽く内容を思い出しつつ、本を読んでいて固まった首をぐるりと回していれば、数人の足音が近付いてきたので不思議そうな顔を意識して扉へと視線を向けた。
「ヴェスパーです」
「どうぞ」
「失礼いたします」
ノックの音の後、いつも通り顔色の良くないヴェスパーを先頭に数名の文官が入って来る。
その中に最近良く見かけるようになった数名の内の一人がいて、思わず固まりそうになった口元を緩ませ背筋を伸ばした。
「書類に不備がありまして、持って参りました」
「どういった内容で?」
「この、備蓄についてなのですが……」
私に対して会釈をし、シドの元へと近寄って報告を始めるヴェスパー。
喧嘩みたいなわかりやすい内容なら私も関わることはあるが、こういった子供がわかるはずのない内容だと関わるわけにもいかない。
一応大まかに把握するため報告に耳を傾けつつ本を見ていると、微かに視線を感じたが、気付いていないフリをしてページを捲る。
クラヴィスさんが居ないから動きやすいのか、ここしばらく、妙な視線を向けられることが増えている。
人によっては保護者に泣きついた子供に対する生温い物もあるけれど、今回のも探られているような気がして仕方ない。
恐らく国の監査か、別の思惑で入っているか。どちらにせよ味方ではないだろう。
正直釣ってしまっても良いのだけれど、まだ小物が突いているだけで釣るには早い。
何事もなく読み終えた雰囲気で本を閉じ、シドと決めていたタイトルの本を一冊手に取った。
それをゆっくりと読み進め、報告に視線の主の声が混じったところでシドを見れば図ったように視線が交わる。
すぐさま瞬き一つで了承の意を伝えられ、他の誰もがこちらに気付かないうちに本のページを捲る。
鍛えられているシドならまだしも、こんな一般人に悟られていて、なおかつ泳がされているのに気付かない。
その時点で高が知れている。釣ったところで大したうま味も無く、むしろ釣った後が面倒だ。
そもそも大物ににせよ小物にせよ、本腰を入れて釣るのはクラヴィスさんが帰ってからだしなぁ……早く帰ってきてほしい。私の精神安定のために。
ヴェスパー達が退出し、小さく零した溜息を聞いていたシドに苦笑いされた。おいこら何笑ってんだお前も敵か? おん?
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