御釈迦様の御受難

石田緒

弟が異世界転生した姉の話

 はすの葉のうえで玉のような朝露が小さな陽光を跳ね返しています。

 今朝も御釈迦様おしゃかさまはたいそう大らかな足取りで散歩をしておりました。あたりをひと巡りすると、やがて鏡の如き平らかな池の端へと歩み寄っていきました。池をのぞけばその遙かな底には多くの罪人が先の世での責め苦を受けていることでしょう。

 さて、今日の地獄の容子ようす如何いかがなものだろう。

 腰を折って屈み込んだそのとき、御釈迦様の肩を気安くトントンと叩く者がおりました。

「あのー、すみませんけど御釈迦様ですよね?」


  *


「なるほど。交通事故でとつぜん他界した弟君おとうとぎみに会いたいと、あなたはそうおっしゃるわけですね?」

「はい。そうなんです」

 なんという心の優しい女子おなごであろう。御釈迦様は感服しました。

 一瞬、ちょっと声のかけ方が軽々しいんでない?と思ったけれど、これほど弟思いの人間はそうそういるものではない。なんたってここは極楽である。こんなところまで愛する弟に会いたい一心で訪れてくるとは……。

「えっと……、あなた、もしかして死んでませんよね?」

「死んでるわけないじゃないですか」

 ああ良かった。後追いなんて別の悲しみを先の世に生むばかり。天寿を全うしてこその浄土である。

「けれど、見たところ魂だけのようですが?」

「はい。そうしないと御釈迦様には会えないって聞いたんで」

「うーん、まあそうなんですけど、しかし……」

「幽体離脱です」

 その女の子はきっぱり言い放ちました。

「でしょうねえ。だと思います。ですがね、そうは言っても幽体離脱などそうそう簡単に出来るものではないと思いますけれど」

「あたしも最初そう思ったんですよ。だからまず霊視から始めて」

「霊視!?」

「三日でマスターしました」

「そんな、普通の女の子のあなたがどうやって?」

「気合いです」

 あ、そうなんだ……。

「でも霊視じゃあいつが見つかんなくって。しょうがないから次は口寄せを覚えて」

「口寄せって、あのイタコの?」

「はい。で、それでも降りてくるのは織田信長とかそんなんばっかで肝心の弟がぜんぜん降りてこなくて。こうなったら直接会いに行く方法はないかなーって考えて、あ、とりあえず御釈迦様に聞いてみたらてっとりばやいじゃんって感じです」

「そこで幽体離脱ですか。しかし、そんな簡単に……」

「気合いです」

 よし、今は納得しておこう。御釈迦様は深く頷きました。

「それではお望み通り、弟君の居所を探してみましょう。肉体を離れた魂はたいていこの天界へとやってくるはずですので。ええと、弟、弟と……」

 御釈迦様は首を捻りました。

「おかしいですねえ。見当たりませんなあ」

「そんなかとかどうですか? その穴の」

「ああ、そちらは極悪人の落ちる地獄ですので……。ちょっ、ちょっと、そんなに際へ寄ったら危ないですから。覗き込んでニヤニヤするのもお止めなさいな。どれ、いちおうわたくしが見てみますので。たぶんいないとは思うのですが……。ううむ、やっぱりおりませんなあ」

「ったく、どこ行ったんだろあいつ」

「あいつ? まあよろしい。そうですねえ。考えられるとしたらさいきん流行っているらしい異世界転生とかいうものでしょうか」

「異世界!? どういうことですか?」

「極楽とは言えこちらは現世とは同じ世界に属するものです。現世で生を終えた魂がやってきては次の生、いわゆる来世へと向かうわけですな。ひとつの輪としてのこの世界と異世界とはまったく別の世界ということです」

「マジですか? もっかいこっち戻ってこいって呼べません?」

「それは出来かねます。残念ながら異世界はいわば管轄が異なるので……」

「え、待ってください。ひょっとしてそれって輪廻転生の理から脱したってことじゃないですか? それって解脱ってやつですよね? ヤバくないすかうちの弟。御釈迦様の力が及ばないほど徳が高いってことじゃないですか?」

「もしかして煽ってます? ええ、わたくしもいちおう仏ですからここで顔色を変えるわけには参りませんが。しかし、あなたの弟君をこちらに呼び戻せないというのは致し方ございません」

「えー」

 幻滅を露わにする彼女。それを見ては御釈迦様も無碍むげに突き放すわけにはいきません。少々口が軽いとは言え弟を思うあまり天上界までやってきた女の子です。

「仏の教えは本来はこの世への未練や執念を断ち切ることにあります。しかし、あなたはまだ亡くなってはいらっしゃらない。元の肉体に戻りましたらば是非とも心を安らかに、その弟君を愛する尊い気持ちを生まれ出ずるすべてのものに分け与えてください」

「はっ? あたし別に弟のことこれっぽちも愛してなんていないんですけど」

「え、そうなの? とはいえ弟君を探してここまで来たんじゃ……」

「めっちゃ探してますよ。だってあいつあたしにお金返さないまま死んじゃったんですもん」

「お金……」

「八千円ですよ八千円! ありえなくないですか!? 踏み倒していい金額じゃないでしょう?」

「金額の問題ではないでしょうけれども、ええまあ」

 女の子の剣幕に御釈迦様は言葉を濁しました。

「あ、そうだ。あたしも異世界転生とかできません? あいつみたいにいきなり交通事故とかで……」

「これこれ、滅多なことを言うものではありません。それにああいう転生はあくまでも例外ですからあまりにもリスクが高すぎます。今はただ弟君のあちらでの安寧を願って信心すればあるいは現世での幸福も、その、八千円とかそういうことも……」

 ほんとにー? と女の子は御釈迦様に疑り深い目を向けました。

 と、女の子が突然あの深い穴の一隅を指差しました。

「そういえばさっき見たんですけどあそこにいるのってあの人ですよね?」

「あの人? どれどれ……。どの罪人ですか?」

「違くて、あの一番奥に座ってる、帽子かぶった真っ赤な顔の」

「ああ、あれは人ではなくて閻魔えんま大王ですよ」

 御釈迦様の頭に嫌な予感がよぎりました。

「ですよね! あたしあの人に頼んでみます。八千円は返ってこなくてもせめて異世界のあいつに罰とかそういうの送れそうじゃないですか。なんかパワーでバーって」

「そんな無茶な。それにあそこは地獄っていう……」

「ちょっと行って頼んでみます! 万が一あたしが帰ってこなかったらなんか蜘蛛の糸とかそういうの垂らしてください。下の奴ら蹴落としてのぼってきますんで!」

「あの話、本当に読んだことあります?」

 御釈迦様が止めるのも聞かずに女の子は両手で頬をバチンと叩いて一声あげると穴の中へ飛び込んでいきました。

 女の子が閻魔大王の下へと一目散に駆けていくのを見届け、たぶん自力で帰ってくるだろうと思いつつも念のため御釈迦様はいそいそと蜘蛛の巣を探し始めました。

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