第8話 夕紅稲荷神社
赤い鳥居に見守られ、奥の賽銭箱に小さな背を預けて、うなだれる少女。ここまで走るために力を使い果たしてしまったのか、体を丸めている。
その
スミレは椿の前まで来ると、しゃがんで、じっと見下ろした。おそるおそる、片手をのばしてみる。小さな肩に触れて、なでなで。
逃げなかった椿に、ほっとする。
スミレから鳥居三つ分後ろで、宴が小首を傾げて心配していた。
「すみれ、怖くないか?」
「んー、正直言って怖いんだけど、でも、椿ちゃんだし……ほうっておけなくなっちゃったわ。これから、どうしていいか、わかんないんだけど……」
スミレは触れさせてもらえただけでも充分嬉しかった。なにげに、自分から逃げ回る椿に傷ついていたんだと思い知る。
「わたしには兄弟や姉妹がいなくて、両親も共働きで留守がちだったから、椿ちゃんが初めてできた友達だったの。だからかな、このままにしておけないって気持ちがわいてくるのは」
「昔馴染みなのだな」
「たぶん、そういうことなのね」
椿が顔を上げ、作り物であるはずの茶色い虹彩に、スミレを映した。
「椿、ここに何か用事か?」
宴が話しかけると、椿の眼球が宴に向いた。そしてまた、膝に顔をうずめてしまった。
その反応に、宴が口をへの字に曲げる。
「まるで私が何かしたような感じだな……。でも私は修理以外は、なにもしていないのだ」
「男の子が、怖かったのかしら」
「それなら夕紅寺の小坊主も、少年ではないか。私のせいとは限らないぞー」
宴が口をとがらせて、石畳にランドセルをぽんと置いた。
「とりあえず、このまま和尚さんの帰りを待ちましょうか。あ、宴は五時が門限だっけ?」
「うちは厳しい家庭でな」
「五時までに和尚さんが戻らなかったら、えーと……とりあえず和尚さんの家族の人に事情を話して、明日まで椿ちゃんを預かってもらいましょ。わたしの手元にあるより、お寺の蔵の中のほうが逃げられないと思うし。次の日になったら、どうするかみんなで考えたいわ」
「賛成だ」
スミレと椿は賽銭箱に背中を預けて、ぼんやり。宴は少し離れた
夕紅寺は街から離れた高台に建っている。昭和後半頃から変わらない街並みは、少しずつ寂れていって、ここから見える屋根や看板は、スミレが産まれたときから色
街を囲む山々の木々が、
「桜、始業式には咲きそうね」
ここからでも薄桃色のつぼみが、眺められる。あと数日もあれば、満開だろう。スミレは春風に髪をなぶられながら、今日の些細な非日常に、短いため息をついた。
「わたしはこの春、中学生になるの。宴は?」
「ん?」
「宴も中学生になるの?」
「私は、
「七年生?」
六年生のさらに先があるのかと、スミレは視線を空へ泳がせた。
「ふぅん、そんな学校があるのね……。こういうとき、スマホがあればねぇ、すぐに調べられるのに」
「すまほ」
「うん。宴も持ってなさそうね」
「持ってないのだ」
宴は財布もポケットティッシュも持っていなさそうだ。そんな手ぶらで来るもんだろうかと、少し不思議に思うスミレである。
そんなスミレも、今日はお寺へお人形を返すだけの予定だったから、ポケットティッシュとハンカチしか持っていない。お財布を持ってくるつもりで一度帰った家からも、けっきょく何も持たずに、ランドセルだけ宴に運んできてもらうという、意味の分からない事態になっている。
木にのぼっている宴は、ときおり看板の文字を読んでは、スミレに意味を尋ねていた。
コンビニの説明だけで、長い雑談が始まった。
のんびりした時間が、退屈な時間に変化し始めた頃、どこからか、ゴトゴトと重たい音が。
「え? 宴宴! この音なんだろう、聞こえる?」
「狐の像が動いているぞ」
ほら、と宴が目線で示すのは、スミレの右側にそびえる石台の上の、中型犬くらいの狐の石像だった。左にも同じ型の狐の像と台があり、それらが同時にがたがたと揺れていた。
スミレが目を丸くして左右を見上げるうちに、狐の像が台の上からくるりと前転。ボフッと勢いよく煙をあげて、地面に着地したのは、足の先から尻尾の先まで、白い毛並みがもっさもさに生えた、狐らしき存在が二体。
スミレは動物が好きだった。でも、怪奇現象は怖かった。好きなものと不得意に同時に挟まれて、真顔で左右を交互に見上げていた。
立てなくなっているスミレのそばへ、黒い鼻先をふんふんさせて、二体の狐が近づいてくる。
「いやあああ! 宴宴宴! 助けて!」
スミレは力の抜けた手で、その鼻先を押し返した。鼻はしっとりと濡れており、手の平がひんやりする。
「んー? この娘、我らの活躍する姿が見えておるのか」
「そのようじゃのう。いつ話しかけても反応せんかったが、今日ははっきりと我らに驚いておるのう」
声は若いけれども年寄りじみた口調で、人間の言葉を話す狐。まーた悲鳴をあげるスミレに、慣れてきた宴は苦笑しながら木のてっぺんから着地した。
「変なヤツなのだ。椿は平気になったのに、稲荷明神様の
宴は石畳に置いていた赤いランドセルを、スミレに投げてわたした。すかさずスミレが鞄を盾にして、目の前にかざす。
ランドセルに阻まれて、白い狐たちが不思議そうに黒い目をまばたきした。そして大きな前足で、ランドセルをがしがし引っ掻いてくる。深い意味はなく、ただ目の前にある障害物に反応しているだけなのだが、スミレからしたら獣二匹に襲われている非常事態だった。
宴が、狐に歩み寄る。気づいた狐たちが、宴を見上げた。
「ご無沙汰しております」
丁寧に頭を下げる宴に、二体は顔を見合わせてから、また宴を見上げた。
「はて、誰だったかの」
「誰だったかの」
「
「おお、
「背が高くなったのう」
二体が宴の足元にやってきて、ぴょんぴょん跳ねて背丈に届いたり、後ろ足で立ち上がって宴の
宴が若干押されていた。困り顔で微笑んでいる。
「稲荷ではなくて、護神鬼です」
「稲荷の宴、いずれは稲荷明神様の御使いとなる者。我らの後輩よ」
「可愛い後輩よ」
「護神鬼なんですが……」
年上の
しかし、宴は盾を作る気はなかったので、足元に置いた。二つの黒い鼻が、ふんふんと鞄のにおいを確認する。
「その娘と同じ匂いがするのう」
「給食のパンの匂いもするのう」
また二体の顔がスミレのほうへ向いた。まっすぐに走ってくる。
スミレが悲鳴をあげて二つの鼻先をがしっと掴んだ。振り払おうと頭をぶんぶんする狐に、スミレの悲鳴が警報機みたいになる。
そこへ、帰宅した和尚さんがヘルメットを小脇に小走りで駆けつけてきた。五時までデートしているはずの若い二人と、稲荷明神の御使いの
「あれ? 街へお出かけするんじゃなかったのかい?」
「それどころじゃないわ! 和尚さ~ん! なんとかして~!」
和尚さんが赤い鳥居をくぐってやってきた。
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