早春

 3月下旬の昼下がり。

 風はまだ少し寒いけれど、日差しはもう優しい春の暖かさを湛えている。


 神岡は、今月いっぱいで育児休業期間を終え、来月から副社長の任務に復帰する予定だ。

 俺は、先月下旬に育児休業1年目を終え、現在育休2年目に入っている。神岡工務店の社内規定では最大で3年の育児休暇取得が可能であり、とりあえず2年目の取得申請を済ませた。

 やがて職場復帰するにしても、設計部門内で俺の担うポジションはリモートでの業務が可能なようだ。子供たちの側から離れずに仕事を継続できることは、親にとって本当にありがたい。復帰はまだ先になるが、少しずつ神岡から部門の様子や現在進行中の業務の内容等を聞いておこうかと思う。


 今日は、少し遠出をしてきている。

 俺たち家族は、房総のとある海沿いの小さな街に来ていた。

 かつて俺の母方の祖父母が住んでいたこの街は、いつでも潮の匂いと穏やかな波の音に包まれている。冬でも温暖で、この時期にはもう花畑が愛らしい花々で彩られる。


「君が突然姿を消した時のこと、はっきり覚えてる。何がなんでも君を取り戻したくて、この街まで車飛ばして迎えに来たっけ。

 あの海辺のガソリンスタンドで君の姿が目に飛び込んだ瞬間、夢じゃないかと思ったよ」


 俺の横でハンドルを握り、神岡が淡く微笑む。


「——そうでしたね」


 数えてみれば、5年前のことだ。

 神岡ともう二度と会うことのないよう、俺は誰にも行き先を告げずこの街へ逃げ込んだ。

 神岡がどれだけの苦難を乗り越えて俺を取り戻そうとしているか、知りもせずに。

 何かもうずっと昔のことのようにも思えるし、ついこの間のことのようにも思える。


「あの時は俺も、あなたのホワイトムスクの香りにもう一度包まれていることが信じられませんでした」


 かつての記憶に、思わずきゅんと甘く胸を締め付けられる。こんな感慨に浸るとは、それなりに俺も歳取ったってことか?とおかしなことを思い、小さく笑った。



 今日の大きな目的の一つは、祖父母の墓参だ。

 大好きだった祖父母の墓に向き合うのは、いつぶりだろう。激流のように動いていく時間に追われ、すっかりご無沙汰してしまった。

 記憶を辿りながら、両側に畑の続く長閑な道を走る。神岡のベンツは、こういう街の風景の中では更に存在感を増すようだ。時たますれ違う農作業姿のおじさんおばさんが、「あれま」という顔でこちらを見たりする。その優しげな顔つきや佇まいが、懐かしい祖父母を思い出させる。


 民家や小さな商店のぽつぽつと並ぶ辺鄙な通りを抜けると、その先に、緑に包まれた寺の屋根が見えてきた。

 春の彼岸の時期ということもあり、駐車場には何台か車が止まっている。寺の隣の公園からは、昔と同じように小さな子供たちの遊ぶ声が響く。幼い頃、ここでよく祖父母に遊んでもらったものだ。


 運転してくる間に眠ってしまった晴と湊を静かに双子用ベビーカーに乗せる。先ほど車内で離乳食を済ませたばかりの二人は、気持ち良さそうに昼寝の最中だ。

 寺に備え付けてあるバケツに水を汲み、柄杓ひしゃくと熊手を借りて祖父母の墓へ向かう。寺の傍の小さなスーパーで買ったお供え用の花束から、フリージアがいい香りを放っている。

 母の実家の姓は「星野」だ。星野家の墓石とその周辺はこざっぱりと綺麗になっており、墓前の花もまだ瑞々しいものが活けられている。この近くに母の兄夫婦が住んでいるから、彼らがちょいちょい掃除やお参りに来ているのかもしれない。

 公園から風に吹かれて舞い落ちる桜の花弁を熊手で履き、墓石を綺麗に磨き、花立てに新たな花を供える。墓前の二つの湯呑みに綺麗な水を満たし、線香の束に火をつけた。

 春の午後の日差しに、線香の煙が静かに立ちのぼる。

 穏やかな香りの中、二人で手を合わせた。 


 閉じた瞼に、祖父と祖母の姿が生き生きと戻って来る。


 二人に報告したいことが、本当にたくさんある。

 大学院まで何となく進んで、社会に出る手前でふと自分の人生に疑問を感じたこと。

 見たこともない世界を見てみたいと思って踏み出した先に、神岡がいたこと。

 自力ではどうしようもない激しい波に呑み込まれ、揉まれ、時に溺れそうになりながら、それでも彼と支え合い——今こうして、家族4人で二人に会いに来られたこと。


 ここまで、結構頑張ってきたじゃん自分、って思うよ。

 おじいちゃんも、おばあちゃんも、「よく頑張った」って、言ってくれるよね?

 あの優しい笑顔と、温かな声で。昔みたいに、俺の頭に手のひらをポンと置いて。


 抑え難い熱さが、目頭にぐっと湧き上がった。

 誤魔化したくて、零れそうな滴を慌てて指で払った。



 顔を上げ、静かに息を一つついた神岡が、穏やかな眼差しで俺を見た。


「今、柊くんがこうして僕の隣にいてくれること、お二人に深くお礼を言わせてもらったよ。

 そして、僕たちのことと、僕たちの子供たちも、これからもどうぞ見守ってくださいって。

 願い事が多い男だな、って、笑われたかもしれない」


 そう言って困ったように微笑む神岡に、笑顔で応えようとしたのに——せっかく堪えた涙がとうとうどっと溢れ出てしまった。









 ベビーカーを押して、寺の隣の公園へと歩いた。

 カラフルな色合いのジャングルジム、小さなブランコ。水色の象の形の滑り台。昔と何一つ変わらない。

 そして、小さな公園を囲むように植えられた桜が、満開の少し手前の花を一杯に咲かせていた。ベンチにはお年寄りが憩い、子供連れの母親たちが数組シートを敷いたりして桜を楽しんでいる。


 もう寝足りたのか、いつもと違う風の匂いに刺激されたのか、子供たちがモゾモゾと目を覚ました。

「お、起きたな。晴、湊」

 覗き込む俺たちを見て、そしてその後ろに咲く花を見て、子供たちの意識ははっきりと目覚めたようだ。

「あうぅ……ぱ!」

 湊が、神岡に向けて手を伸ばす。

「あえ、ぱあ、とお!」

 晴も、桜を指差すようにして愛らしい声を上げた。

 二人は、最近俺たちの呼び方を覚え始めた。以前に決めた通り、神岡を「パパ」、俺を「父さん」と教えているので、現段階では神岡は「ぱ、ぱあ」、俺は「とお」みたいに呼ばれている。

「綺麗だろ、晴。『さくら』っていう花だよ」

「あう、あー」

「そう、『さくら』」

 二人の目にも、桜の華やかな風景が分かるのだろう。どこか興奮したように、潤う瞳を大きく見張って周囲を見回している。

「降りたい!」という感情表現に、持ってきていた小さな靴を二人に履かせ、ふっくら丸い身体を抱きかかえて地面へ下ろした。

 その小さな足でしっかりと土を踏み締め、彼らは危なっかしいながらも一歩一歩を踏み出して、薄い草に覆われた公園を歩き出す。

 時々よろめいて草に手をついたりしながら、目の前の未知のものに触れようと一心に前進していく。降り注ぐ暖かな光の中を。

 俺と神岡は、その小さくも逞しい二つの背中を見守る。


「ここからも、こんなふうに明るい光に満ちた風景を、たくさん見られるといいですね」

「うん。

 ——何が何でも、4人で歩こう。明るい日差しの中を」


 晴が、地面の小さな出っ張りにつまづいてポテっと転んだ。

 湊は、もうだいぶ遠くまで歩みを進めている。どうやら象の滑り台が目標らしい。

 俺たちは笑顔を見合わせ、小さな二人を援護すべく踏み出した。



 小さな、何気ない春の一日。

 こういう幸せな時間をスターティング・ブロックにして、俺たちはまた新たなスタートを切るのだ。



 頭上の枝いっぱいに揺れる桜の花。

 その奥の青空を流れるちぎれ雲を仰ぎ、俺は大きく一つ深呼吸した。



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