苦悩

 離乳食がスタートして、ちょうど2週間が経った。

 最初の1週間は粥だけだった離乳食も、2週目になると少しずつ野菜を煮てすりつぶしたペーストを小さじ1ほど追加で与えられるようになる。次第に増えてくる新しい味に、子供達は興味津々だ。

 まん丸い頰と小さな唇をもぐもぐと動かし、まるで全身で食べ物を味わっているようなその様子はたまらなく可愛く、その味が好みに合った時の目の輝きがまたすごい。「うまっ!!」という声が聞こえてくるようだ。

 逆に、嫌な味の時はこれでもかというほど「ぶえ〜」という顔をするから笑ってしまう。かぼちゃの優しい甘みが二人のお気に入りらしい。

 離乳食の滑り出しは順調だ。来週からは、白身魚などのタンパク質を取り入れる段階に入る。



 8月初旬の土曜の夕方。

 窓を開けると空気は僅かに涼しく、昼間の酷暑はどうやら落ち着いたようだ。

「樹さん、俺ちょっと買い物行ってきますね。離乳食の食材見たり、紙おむつも補充しといたほうが良さそうだし」

「ん、車出さなくても平気?」

「ええ、子供達も今眠ったばかりだし。気分転換がてら自転車で行ってきます」

「了解〜。夕食の準備進めとくよ。気をつけてね」


 心地よい夕風を切って自転車をこぐって、いつぶりだろう。

 何となくショッピングモール内をぶらぶらする時間も気楽で楽しい。思えば、自分ひとりで気ままに楽しめる時間なんて、子供ができた途端にそう簡単には持てなくなるのだ。実際に経験してみて、初めてそんなことに気づく。

 とは言え、子供達もいつまでも眠ってはいないし、夕方からやるべきこともたくさんある。神岡一人に任せきりにはできない。

 俺は離乳食用に鱈の切り身とささ身を1パックずつ、そして紙おむつをカゴに入れ、レジへと向かった。



「よいしょっと」

 マンションへ帰り着いて駐輪場に自転車を止め、両手に荷物を提げてエントランスへ入る。


 ふと、後ろから人の足音が近づいた。

 ——そう感じた瞬間、自分の肩がぐいっと強い力で掴まれた。

 エントランスを入ってすぐ脇に、住人の郵便受けを一箇所に集めたメールコーナーがある。

 あっという間に、俺は何者かによって真っ暗なその扉の中へ引っ張り込まれた。

 人気ひとけのないメールコーナーの照明が、人の入室を感知してパッと点灯した。


「……な……っ……!」

 あまりの驚きに激しく動揺しつつ、まだ俺の肩を解放しようとしない相手の姿を必死に確認する。


 真っ直ぐに通った鼻筋に、男らしく凛々しい眉。涼やかな目元。

 髪も短く爽やかにカットされている。

 二十歳くらいだろうか。シンプルなTシャツとジーンズに包んだ、何かスポーツで鍛えたことを思わせる引き締まった身体。すらりと長身の青年だ。


 彼は、メールコーナーのドアに細長くつけられた小窓の外を覗きながら、小さく舌打ちをする。


「——ったく……

 あんなとこでグダグダ立ち話してんじゃねーよ」


「…………あの」


 まさに怯え切った俺の呟きに、彼はすぐ横の俺の顔を改めて確認するやバっと肩から手を離し、ビュンと一歩大きく飛び退いた。


「あ……っっ、えーーっとあの、ごめんなさいっっ!!」

「……何なんですか……この状況、全く把握できないんですが?」


 とりあえず、有無を言わさず腕力を以て何かを強要してくるとかではなさそうだ。それに、彼自身も何かこの状況に慌ててるようだし。

 あわあわと取り乱す彼を、俺はぐっと見据えた。


「いえ……これは、その……

 あの人たちに、あなたを会わせたくなくて……咄嗟に」

 どこか困惑したような表情を浮かべながら、彼は再び小窓の外を見る。

 それに合わせ、俺も窓から見える状況を確認した。

 エレベーターの乗降口近くで、女性が二人立ち話をしている。

 その後ろ姿は、いかにも経済的に豊かな家庭の奥様といった装いだ。


「右側のあの人、俺の母親です。

 で、その横の人は、数戸離れた近くの部屋の奥さんで……わんさといる母のババア仲間の一人です。

 あの二人特に仲良くて。いっつもつまらない世間話ばかりしてます」


「……」

 ババアって。

 突っ込みたい思いを、ぐっと引っ込める。


「今日は郊外の新しいショッピングモールへ二人で出かけたいから乗せて行ってくれと頼まれて。今日は暇だったし、二人を乗せて今帰ってきたところだったんですが……

 あの人たち、車内でもずっと他人の噂話や陰口ばっかりで。運転席でそれを散々聞かされて。

 ——あなた方の噂も、そこにちょいちょい混じって。

 その内容が、あまりにも下品で……


 あのババアどもが、今のあなたを見たら、また陰で何を言うかわからない。あなたがエントランスを入っていく後ろ姿を見た瞬間、そう思いました。

 あんな話を撒き散らす人たちの視界に、あなたを入れたくなかったんです。絶対に。

 ——驚かせてしまって、すみませんでした」


 そう言うと、彼は申し訳なさそうに深く頭を下げた。



 思ってもみなかった話の内容に些か心のざわつきを感じつつも、俺は目の前で小さく俯く誠実そうな彼の表情を見つめた。


 もしかしたら、この青年は——見ず知らずの他人にさえこうして咄嗟に手を差し伸べたくなるほど、家庭内の侮蔑的な空気に苦しんでいるのかもしれない。



「……ありがとうございます。

 俺たちに深く配慮してくださった行動だったんですね。

 嬉しいです、すごく」


 俺は固まっていた表情をほぐし、どぎまぎと佇む彼に頭を下げた。


「——いえそんな、あなたからお礼を言われるようなあれじゃないんで全然!」

 彼は慌てて両手をブンブンと顔の前で振りながら、ホッとしたように微笑んだ。


「あの……

 もし失礼だったら、許してください。

 あなたは……もしかしたら、今の家庭内の環境に、深い悩みを抱えたりしている……とか?」


 俺の問いかけに、彼は一瞬表情を固くしてぐっと押し黙った。



「————」


「——済みません。

 立ち入ったことを聞いてしまいましたね。どうか今の言葉は忘れて……」

「いいえ。図星です」


 言いかけた俺の言葉を遮り、眼差しを真っ直ぐに上げて彼は小さく答えた。



「うちは両親とも、とてもよく似ています。他人を蔑み、嘲笑い、事あるごとにつまらないマウントを取りたがる。

 中学生の時、仲の良かった友達の家庭を蔑むような両親の会話を聞いて……その頃から、俺の中の両親への嫌悪感は少しずつ膨らみ出しました。

 それでも、これまでは俺が耳を塞いでいれば何とかなると、どうにかやり過ごしてきました。


 けど……俺、少しずつ、気づき始めて。

 自分が性的にマイノリティのがわにいることを。


 その自覚が次第にはっきりすればするほど、耳を塞ぐだけでは耐えられなくなった。

 二人の考え方や言葉が、そのまま俺自身を攻撃するように刺さってくるんです。


 家庭内でのそんな苦しみが強くなると同時に、あなた方お二人のような人生の選び方をできる人たちが、本当に輝いて見えて。お二人が楽しげにお子さん達を連れて外出される様子を以前お見かけして以来、何か前を向く力をもらったような気がしていました。

 なので——あなたとこんな風に偶然お話ができて、俺、すごく嬉しいです」


 彼は、何か込み上げるものを押さえ込むように、力一杯笑った。



 彼のそんな必死の笑顔に、俺の胸の奥底がギリギリと強烈に痛んだ。

 次の瞬間、俺は口を開いていた。


「あの。もし良かったら、連絡先、交換しませんか?」


「…………」


 俺の唐突な申し出に、彼は虚を突かれたように俺を見つめた。


「あっ、えーと、あなたが嫌でなければですよ、もちろん。

 もし苦しい時に、その思いを受け止められる場所があったら、少しは苦しみが和らぐんじゃないかと……もし、俺たちにそんな役割が少しでもできたら、と。

 あ、でも今うちも育児にてんてこ舞いなんで、すぐに返事返したりとかじっくり悩みに答えるとか、そういうことはなかなかできないかもしれないけど……あなたの気持ちを聞いて、受け止めることはできると、そう思ったりして」


 慌てて言葉を付け足す俺に、彼はどこか信じられないというような声で小さく聞き返す。


「…………ほんとですか……?」


「うん」


「——……

 ありがとうございます」


 そう微笑む彼の瞳が、一瞬じわっと潤んだように見えた。



「あ、名前、言ってなかったね。俺は三崎 柊です。パートナーは神岡と言います。今は彼も育休取ってくれてて、毎日家で一緒に育児やってるよ。男の子の双子っていうのは思った以上に腕白で」

「そうなんですか……いいですね。本当に羨ましい。

 俺は、須和すわ 翔吾しょうごと言います。大学3年です。どうぞよろしく。

 ……あ、あの人たちもいなくなってるし。やっと部屋戻ったか」


 互いのスマホを取り出しながら、俺たちはその時初めてまともに挨拶を交わした。









「ただいま……」

「おかえり!! 良かったーー! 思ったより時間かかってる気がして、ちょっと心配してたんだ」


 玄関を入ると、神岡が不安にざわついた顔で廊下を走り出てきた。


「済みません、ちょっと予想外にいろいろあって」


「え、予想外……って、何?」 



 買ってきた品物を冷蔵庫へしまいながら、俺は今しがたあったことを全て神岡に話した。


「……そっか、確かに予想外の出来事だったね……

 でも、その子の心が救われるのは、僕たちにとってもこんなに嬉しいことはないね。君の判断は、やはりいつも最善だな」

「そうですよね!

 あーー良かった、もしあなたの顔が曇ったらどうしようって、内心ドキドキしてたんです。よく知りもしない他人と連絡先なんか交換するな!って」

「え。柊くん、僕のことをそんな冷たい男だと思ってるの?

 須和くんの気持ちが、僕にも痛いほどわかる。まさに僕もそういう時間を過ごしてきたからね。ただ、僕の両親は他人を蔑むような人間じゃなかったという違いはあるけれど」

「そうですね……両親が、自分のような存在を蔑むその言葉や態度を、平気で耐えられる子供なんているわけがありません。

 もし都合が合いそうなら、今度夕ご飯に呼んだりしてあげたら、彼すごく喜びますねきっと」

「……ちなみに。

 その子、どんな子? イケメン?」

「ええ、イケメンですよものすごく。長身細マッチョな凛々しい男前です」

「……」


 俺の情報に、神岡の顔が一瞬ムワッと不安げに曇る。


「……ぷふっ」

「笑い事じゃないぞ。仮に君が何も感じなくても、もしも彼が君に特別な感情を……!」

「あはは、そんなに心配ですか? 彼は今21ですよ、いくつ歳が離れてると思ってます?」



 そんな話もやがて冗談めいた空気に変わり、俺たちはいつものように子供たちを風呂に入れる準備に取り掛かった。



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