お日様と海

 5月初旬。

 晴と湊は生後4ヶ月目に入った。

 二人の成長のスピードの凄まじさには、ただただ驚くばかりだ。

 ついこの間まで感情のない宇宙人のようだった彼らが、俺や神岡をじっと見上げ、その口元がふわりと笑う形をするようになった。


 うわーーー……。

 溶ける。

 日頃の育児の苦労が、一瞬にして流れ去っていく。

 俺たちの元にこの子たちが生まれてくれたこと、こうして健やかに育ってくれていることを神に感謝する瞬間だ。


 機嫌のいい時は、手足をパタパタしながらキラキラする瞳で俺たちを見つめ、何か言いたそうに口をムグムグ動かしたり、可愛らしい声を発したり。その様子は、はっきり言って親の心と脳味噌を強烈に揺さぶる。普段はむさ苦しい男たちがどれだけグズグズにデレた顔になっても、誰にもそれを咎める権利などないのである。


 双子用の縦並びのベビーカーを購入し、最近は散歩に出ることも増えた。

 これまでは二人とも小さく、とにかくミルクとオムツ替えとでてんてこ舞いで、散歩に出る余裕などなかなか作れなかった。しかし神岡が育休を取得し、子供達もミルクやうんちなどの間隔が開くようになって、ようやくその他のことに手が回る余裕ができてきた感じだ。



 初夏の青空と風が心地良い、金曜の午後。子供達の機嫌も上々だ。

 この陽気を家族全員で楽しみたくて、俺たちは4人で散歩に出る支度に取り掛かった。

 いつもなら俺か神岡のどちらかが家に残り、洗濯物や食事の支度などうんざりするほどの家事を片付ける場合がほとんどなのだが、今日はそういう仕事も一旦脇に置こうか、ということになった。


「いやあ〜。うちの子達、マジ天使。全世界に二人の写真ばら撒きたくなるよなあ♡」

 先ほど湊のエンジェルスマイルを堪能した神岡は、どっぷり満たされたデレ顔をまだ直しきれないまま、大きなトートバッグに紙おむつやおしりふき、タオル等お出かけグッズをうきうきと詰め込んでいく。

 うーん。副社長のこの姿、神岡工務店の全社員にばら撒きたい。


 持ち物の準備が整い、ベビーカーに二人を乗せ、しっかりベルトをしめる。

 4人揃ってエレベーターで一階へ降りると、小さな子供連れの母親二人がエントランスで楽しげに立ち話中だ。

 世間のママ達というのは、どうやらこうしたお喋りの中から身の回りの重要な情報を得ているようである。男たちにはなかなかわからない世界だ。

 そして当然俺たちも、「混ぜて〜」と顔を突っ込む勇気は持てない。


「こんにちは」

 すれ違いながら、軽い挨拶を交わす。


 その場を離れていく俺たちの背中を、何となく執拗な視線の気配が追って来た。

 そして、俄かにボリュームの下がった二人の小さな囁き声。

 その内容までは聴き取れないが——



 世の中には、いろいろな人がいる。

 人間は一人一人違うのだから、当然だ。

 だが、その人間の多くは、「普通」と「常識」にしがみつく。

 そして、そこから外れた物事について、その対象者のいない場所で面白おかしく噂する。——深い事情も知らないまま、そこに強い反感や軽蔑を混ぜ込んで。

 理解や共感に満ちた噂など、ただの一度も聞いたことがない。

 ——結局人間は、他のどんな生物よりも低俗で残酷な生き物だ。



 何があっても、胸を張って歩く。この子たちのために。

 親がそういう理不尽な視線に怯えながら過ごしていて、子供達に胸を張って歩くことなど教えられるか?


 そう思いながらも、周囲から無言の刃物を向けられるとき、人間はノーダメージではいられないのだ。

 心は必ず傷つき、抉られる。


 ベビーカーのハンドルを握る手が、思わず微かに震えた。



「…………まあ、いろんな人がいるさ」


 その時、隣で呟く声がした。

 いつもと変わらぬ、穏やかで優しい声。


 横を見ると、神岡が俺を見てさらりと微笑んだ。



「彼女たちが——例え誰が何を言おうが、僕たち4人の幸せは変わらない。

 彼らの言動程度で、僕たちのこの幸福は左右されたりしない。絶対に。

 ——そうだろう?」



 彼の、温かく強い眼差し。

 強張りかけた心が、柔らかく解れた。

 思わず目の奥がじわりと熱くなるのを、ぐっと抑え込む。



「——そうですね。

 そうでした」



 薄暗いエントランスを出ると、そこには広く深い青空ときらめく風があった。









 その翌週の日曜。

 俺たちは、子供達の4ヶ月健診を受けに藤堂クリニックへ来ていた。

 晴と湊の健診や予防接種は、他の受診者のいない日曜に藤堂が特別に実施してくれるため、俺たちとしては煩わしく付きまとってくる無言の重圧からほっと解放される。


 晴も湊もオムツ一丁の姿にして、診察室の計測台に順番に乗せる。データを取った後は藤堂の診察だ。診察台に順番に二人を寝かせ、関節や背骨の様子、首すわりの具合、お腹の触診などを丁寧に進めていく。

 晴も湊も、この「じいじ」が大好きなようだ。ここへ来る時はいつも二人とも機嫌良く、藤堂を楽しそうに見上げて手足を元気にバタつかせる。普通は病院ではギャン泣きとかするもんじゃないか子供って?


「うん、二人とも順調だな! 肌も特に湿疹などもないし、健康状態は良好そのものだ。この時期は表情にも動きが出てくるし、一気に可愛さが増して来る頃だろう?

 晴、湊〜。ますます男前になってきたぞお前たち」

 藤堂は、診察を終えた二人を愛おしげに見つめながら、明るく笑う。

「はい、本当に。時々ふわっと笑うような二人の顔を見ると、もう育児疲れが全部吹っ飛びます。感情や表情の有無って、こんなにも心理に大きく働くものなんですね」

 俺は、神岡同様目尻がでれっと垂れ下ることを抑えられない。

 藤堂は、そんな俺を微笑ましげに見つめ、穏やかに答える。


「うん。そうだな。

 そして、それはきっと乳児に限ったことじゃない。

 側にいる相手からそうやって温かい表情や感情が返ってくるからこそ、その人と共にいる幸せを感じられる。成人したって、それは全く変わらない。

 相手に対して無表情、無関心、というのは、その相手をどれほど寂しく孤独な気持ちにさせているか……私たち大人も、そういうことをちゃんと感じなければいけないんだろうな。


 ——側にいる人を大切にするっていうのは、その人への愛情をちゃんと表情や態度で届け続ける、ということだ」



「……そうですね。本当に」


 いつも心に深く響いてくる、藤堂の言葉。


 俺の側には、誰より深く温かい愛情を持った人がいてくれる。

 神岡も、藤堂も。



「……ところで、神岡さんは」

「え……外の待合椅子で待ってると思いますが……」

「うん。それならいい。次は君の診察なんだが……彼にバレるととんでもなく恨みを買いそうなんでな。

 実は、君の母乳の具合が、ずっと気になっていてな。胸の様子の診察と触診をさせて欲しいんだ。

 早速シャツの前を開けてもらえるか」


「……」

 そりゃ神岡にバレちゃダメなやつだ。俺だってとんでもなく恥ずかしいんだし。


「じゃ、ちょっと触るよ」

 彼は、医師の眼と手つきで両方の胸を慎重に押したり、乳腺を辿るように触れたりしながら、感動した声を出す。

「すごいな……男性の体で母乳を作る機能が働くと、こうなるのか……胸が張ったりする痛みなどもないか?」

「ええ、ほぼないです。時々少し溜まったかな、という感覚があるくらいで」


「……うん。乳首とその周辺の皮膚の柔軟度も驚異的に上がっている。

 生物の身体は、その環境を受け入れ、しっかりと適応できるよう柔軟に変化していくものなのだな。……しかしこれほど短期間に、ここまでとは。生命の可能性はやはり無限だ……素晴らしい」


 彼はもう医師としての好奇心を丸出しにして、そんなことをぶつぶつと呟いている。先生、その辺はとてもゾワゾワする場所なので触診はほどほどにしてください。


 ……もしかしたら。

 俺たちと藤堂は、この上なく温かなもので結ばれていると同時に、この上ないギブアンドテイクの関係でもあるのかもしれない。

 この名医に心から感謝しつつ、俺はふとそんなことを思った。







 健診を全て終え、神岡と俺で晴と湊をそれぞれの腕に抱き、藤堂の前に座る。


「先生、診察ありがとうございました」

 神岡が、藤堂に深く頭を下げた。

「神岡さん、育休を一年間取得したそうですね。素晴らしい決断です。

 子育てとは、本来そうして両親が力を合わせて向き合うべきものですよ」

 満足そうに微笑む藤堂に、神岡も心から嬉しそうに答える。

「はい。僕も、思い切って取得して本当に良かったと思っています。

 こうしなければ決して味わえなかった子供達を育む苦労や幸せが、自分にとってこんなにも価値のあるものだったと——実際に経験して、初めて実感しています。

 こうして柊を隣でしっかり支えられることも、僕にとって最高の喜びです」



「——君たちは、相変わらず幸せそうだな。

 君たちのその幸せがある限り、子供達は間違いなく幸せだ」



 俺たち二人が幸せなら、子供たちは幸せ——。

 藤堂の温かなその言葉に、思わずぐっと胸が詰まった。



「おお、そうだ。今日はな、君たちと双子たちにプレゼントがあるんだ」


 藤堂が、机に置いていた紙袋を俺に渡す。

 中には、明るく元気な色の溢れる小さな絵本が二冊入っていた。


「私と妻で選んでみた。

 彼らが文字を読むのは、まだ先だけどな。二人が眠る前などに、読み聞かせをしてやるといい。

 一冊はお日様のストーリー、もう一つは海のストーリーだ」


 晴と、湊。

 お日様と、海。

 藤堂夫妻は、そんな気持ちでこの二冊を選んでくれたのだろう。



「——先生。

 ……ありがとうございます……」


 神岡も、少し詰まったような声で、礼を伝える。


「ははっ。まあ単なるジジババ根性ってヤツさ」




 太陽のように、明るく。

 海のように、深く広く。




「…………」



 必死に堪えたものがもはや抑えきれず、慌てて俯く。

 礼も言えないまま、俺は湧き上がる涙を必死に手の甲でぐしぐしと拭いた。




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