パパと父さん

「おっっしゃあああーー当たりいっ!!」


 神岡が育休に入って約1週間が経った、3月末の夕方。

 リビングに神岡の叫びが響いた。と言っても、子供たちを起こさない配慮の加わった音量だが。


 神岡は変人的にじゃんけんが強い。だから今回はその不公平をなくすため、敢えてあみだくじにしたのだ。

 なのに……それなのに。

 こんなクソ強運な相手が伴侶というのは、こういう勝負の時に生涯を通じて俺がほぼハズレくじを引くという運命を与えられたのと同義だ。くっそお。


 え、何のあみだくじか早く言え?

 そうだった。これはもう本当に今後ずっとついて回る「あること」を決める勝負なのだ。


 それは、俺たちの「呼び方」だ。

 子供達に、俺と神岡をそれぞれを何と呼ばせるか。

 男女の親ならば「パパ、ママ」で全く問題ないのだが——もちろんうちはそういうわけにはいかない。



「僕がパパ、君がママで問題ないじゃないか? そもそも君はもうその辺のママたちよりダントツ美人なんだし」


 この問題を提示するたび、神岡はまるで他人事のようにしれっとそんなことを言う。

 そんな彼に、俺はいつもムキになってくってかかる。


「そういう言葉で適当に丸め込もうとしないでくださいっ!

 そりゃあなたは出産してないしおっぱいも出ないし、パパを主張する理由がありますよ。でも、だからと言って俺だってママって呼ばれる気はこれっぽっちもないんです!! 

 仮に、あなたが出産した側で、今後子供達から『ママ』と呼ばれることになったらどう思いますかっ」

「んーー……君がその辺のママたちよりダントツ美人なのは真実なんだが……まあ、そう言われればちょっと納得いかないかな」

「でしょ!? でも、どっちも『パパ』でうまくいくわけはないし……うーむ……」


 こうして俺たちはしょっちゅう「呼び方」で揉めては、まだ晴と湊が喋らないのをいいことにこの問題をずるずる保留にしてきていたのだった。



 そして、生後2ヶ月目も終わりに近づいたこの日。

 とうとうこの問題に決着をつけるべく、俺たちは本気で向き合った。

 いずれかを「パパ」、もう一方を「父さん」と呼ぶというのはどうだろうか、と。


「ね? いろいろ考えましたが、もうこれ以外ない気がするんですよ」

「確かに……これが最も妥当な案だよな」

「で……どっちがどう呼ばれることにします?」

「んーーー……柊くん、君はどっちがいい?」

「え……俺は……どっちかといったら『パパ』かな……なんかこっちの方が早く覚えてもらえそうだし」

「実は僕も『パパ』がいいんだよな……」

「は!? また衝突ですか……」

「だって、子供の舌足らずの『パパ』って、もうほんと最高じゃないか……じゃあここはひとつ、じゃんけんで」

「そうはいきませんよ。あなたが異常にじゃんけん強いの知ってるんですから。今回はあみだくじでいきます」

「……いいだろう」

「じゃ、当たりを引いた方が『パパ』を勝ち取るってことで」


 で、結果は……さっき言った通りだ。


「悪いな柊くん〜♡ 僕が『パパ』、君が『父さん』だね♪」

「…………そのクソ強運っぷり、さすがヘンジンですよね……」

「えーだってこればっかりはしょうがないでしょ?」

 ニマニマ顔の彼を、俺はぎりっと睨みつける。

「でもね。残念ですが、息子たちがいつまでも『パパ』と呼ぶと思ったら大間違いですよ。そのうちあっという間に『オヤジ』に移行しちゃいますからね。俺は『オヤジ』だったら『父さん』の方がいいなあ〜」

「ん……ちょっと待って、そういうこと? え、どうしよう、やっぱり『父さん』の方が……」

「もう遅いですっ!! それに樹さん、結構『オヤジ』って似合いますよ」


 そんなことを言いながら、同時にぶふっと笑い合う。



「つまり、どっちがどっちだっていいんだよな。僕たちがしっかり晴と湊の親の役目を果たせるなら。

 でも、僕たちは、お互い今までのまま呼び合おう。——いいよね?」


「……んー……子供達の前だと少し恥ずかしい気もするけど……

 でも、俺もそれがいいなって、ちょっと思ってました」


 微妙にもじもじしつつ答える俺を、彼は不意に腕の中に引き寄せる。

 抱え込むように俺を胸に抱くと、その頬を優しく額に摺り寄せた。 



「……柊くん。

 本当に良かった。

 君が、また以前のように明るい表情を見せてくれるようになって」


「——俺も。

 今、最高に幸せです。

 あなたがいない間と今とでは、本当に地獄と天国ほどに違いますから」



「何が移り変わっても、僕たちはずっと変わらない。


 愛してる——柊」



「……ん……」



「……ふあっ、ふあ……っっ!!」

「……」



 こうして甘い空気が流れ始めるタイミングでベビーベッドから泣き声が上がるのはいつものことだ。









 ベッドでは、晴がぐずり出していた。

 湊も、兄の泣き声に反応して間もなく起き出すだろう。

 二人とも順調に成長しており、もっともっととミルクを欲しがる。赤ちゃんらしいふっくらした丸みと艶やかな肌は、まさに珠のようだ。

 ぐずる晴を抱き上げると、むぐむぐと小さく口元を動かしながら顔を胸に擦り寄せる。お腹が空いたサインだ。

 まだその瞳や表情からは感情らしきものは伝わって来ないが、ミルクや入浴の際の美味しそうな顔や心地よさげな顔は、見ていてはっきりとわかる。はあ〜〜。マジ天使。


「おお、晴、おはよう! これからは僕が『パパ』になったぞ〜。お腹空いたんだな? じゃ、こっちおいで。ご飯の前にオムツ替えちゃおう」


 神岡は俺から晴を受け取ってすっぽりと胸に抱き、その柔らかな頬を指でくすぐるようにしながら溶けそうに甘い声で話しかける。子供を深く愛する父親にしか出せない声だ。

 その声に、晴がふっと微かに表情を動かす。今まであまり聞こえてこなかった神岡の声に反応しているようなのだ。


「あうぅ……」

 神岡にオムツを外され、お尻を綺麗に拭き取られながら、晴のまん丸い手足がパタパタと元気に動く。

 俺はその間に授乳のスタンバイだ。誰かの手があるというのは、こういう時のストレスが天と地ほども違う。


 子供達の入浴やその他洗濯、食事の支度なども、神岡が休みになってからは母乳以外の全ての仕事を二人で分担して行っている。仕事も仮眠も、できる時にできる方がやる、というように。

 こう眺めると、二人でもなかなかに手一杯の分量なのだ。


「……ふあ……!!」

「あ、湊もお目覚めか! 湊、今日はお兄ちゃんがご飯先な、ちょっと待ってろよ」

「ふぎゅ……っ!」

 オムツを替え終わった晴を俺に手渡すと、神岡は湊のベビーウェアのスナップも手早く外していく。そうしている間にも湊の顔がくしゃっと大きく歪み……


「んぎゃ、んぎゃ……っ!!!」


 待たされるのが分かるのか、こういう時の彼らの泣きは激しい。

 オムツを替えた湊を胸で必死にあやしながら、神岡も苦しそうに顔をくしゃっと歪ませた。


「柊くん、これは本当に一人じゃ到底無理なヤツじゃないか……

 どうしてもっと早くSOSを出してくれなかったんだ?」


 晴を胸に抱き、乳首をその口に含ませながら、俺は少し考える。


「……でも。

 俺の場合、やっぱりこれしかなかったかもと思うんです。

 自分でできることなら、自分で乗り越えたい。周囲を見渡しても、誰もがそれぞれに大きな責任を抱えているんですから。

 結局、どうやっても一人では無理だと理解できてからでなければ、俺はあなたに手助けなど求められなかったと……今になっても、そう思います」


「……そうか。

 責任感の強い人ほど、そういう気持ちで自分自身を追い込んでしまうのかもしれないな……育児は当然母親がやるべき厄介ごと、という冷ややかな空気しかないもんな、今の社会は」


 腕の中で激しくぐずる湊を見つめ、神岡は真剣な表情で呟く。


「——育児は、誰か一人でこなせればそれでいいというタイプの仕事じゃないよ。

 これは、家族や周囲が参加し、協力しながら行っていくべき、大切な仕事だ。……そのことに、やっと気づいた。


 この高齢化と少子化が進めば、いずれ日本は間違いなく急速に衰退していく。

 新たな命を家族や周囲が協力し合いながら育むことの意味とか、辛さや難しさ、幸福感。そういうものに気づき、共感や理解をしていくことが、もっと必要なんだ。……だって、『繁殖』は、本来生物が本能的に最優先にしてきた仕事のはずだろう? 

 社会全体が努力して『育児は会社などよりも優先される大切な仕事』、という位置付けに変えていけるならば——質の良い育児を何よりも優遇する、そんな環境が作れれば。

 新しい命を産み育て、愛おしみたいと思う人は、きっと増える。

 我が社も、スタートラインに立ったばかりだ。今後一層そういう方向へ推進するには——」


 大企業の経営者として社会を見つめる視点が、神岡の中には常にあるのだろう。

 そういう真摯な取り組みが、社会全体に浸透していけば。

 何とかここで少子化に歯止めがかかるならば。

 そんな思いが込み上げる。



「……んぐ!」

「……いっ、ててっ……!! 晴、あんまり強く引っ張るな、痛いって!!」


 その時不意に乳首を晴に強く咥え込まれ、俺は現実に引き戻されつつ声を上げた。どうやら吸っても母乳が出なくなったようだ。

 こういう瞬間の痛みは、子供達の「もっと!」という声が聴こえるようで堪らなく愛おしい。

 次は粉ミルク、神岡の仕事だ。急いで神岡に晴を渡す。晴と交換するように受け取った湊に、今とは反対側の乳首を含ませた。


「んく……んく……」


 やっと回ってきた食事に、湊は無我夢中でありつく。

 ぎゅっと胸にしがみつくように俺を見上げ、一心に母乳を吸うこの息子達の姿は、一生記憶に輝き続けるのだろうとその度に思う。



 晴に哺乳瓶でミルクを与えつつ、俺の横でそんな湊をじーっと見つめながら、神岡がぼそりと呟いた。


「……いいなあ……」


「あなたは一番後回しですっ!!! その前に洗濯物が山ほどありますからねっ!?」


 一気に赤面してそう叫ぶ俺に、彼は楽しげに笑った。



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