声も勇気も足りていない
5-①
「休憩しよ」
翌日の放課後には部活が再開され、待ちわびていた夏菜とともに練習にはげんでいた。
僕は立ちあがり、窓から空を見あげる。雲が低い。今にも雨が降りそうな灰色の空。まるで僕の心の中のような天気だった。
結局、昨日はLEENをすることができなかった。もしまだ一緒にいたらと想像し、その答えを知るのが怖かったのだ。それに、普通に話す自信もなかった。
「調子悪そうね」
「ごめん」
「また恋愛のことで悩んでるの?」
ふり返ると、夏菜はファゴットの手いれをしていた。
「優希、本当にその先輩に夢中なのね。すぐ音に出ちゃう」
僕の沈黙を、夏菜は肯定と受け取ったらしい。
「……情けないよね」
僕が自虐めいて言うと、夏菜は顔を上げて、眉間にしわを寄せた。
「どうしてよ?」
「すぐに動揺が表にでちゃうのは、心が弱いってことだと思うから」
昨日のことも図書室でのことも、僕は気にしすぎだった。頭の切り替えができず、そのことばかり考えてしまう。そうすると、さらに悪い方向へと悩みが派生し、思考の悪循環が生じるのだ。
夏菜は僕の目を見て、小さくほほ笑んだ。それは大人の笑みだった。
「いいじゃん。そんなに考えちゃうほど先輩のことが好きなんでしょ?」
茶化しているのではなく、まじめに言っているように見えた。だから僕は正直に答える。
「うん、好き。こんなに人を好きになったの、初めてなんだ」
好きだから、ずっと考えてしまう。なんでも気にしてしまう。それが辛く、苦しい。
すると、夏菜は顔を背けてしまった。
「はずー……私に告ってもしかたないっつの」
「な、夏菜が言わせたんだよ!」
僕が苦情を言うと、夏菜は楽しそうに笑った。まったく、結局茶化すのか。
「で、何があったの?」
夏菜はひとしきり笑ってからそう言った。和ませようとしてくれたのだろうか。
「えっと――」
僕は昨日までのことを夏菜に話した。テスト前から話せていないこと。桝田先輩のこと。
「まあ落ち込む気持ちもわかるわね。桝田先輩っていったら、一年からエースで四番、うちでは有名人だからね。高校野球界では無名の進学校にプロのスカウトが来た、って新聞にものったことがあるらしいわよ」
「そうなんだ」
僕らは楽器を置いて、すっかり話し込んでいた。
「うちみたいな学校はああいう人が珍しいから、余計に目立っちゃってる。
ちなみに、吹部の先輩にもファンが多いわよ。なにせ、私ら吹部は試合の応援に行くわけだからね。これから同級生にもファンが増えるわ」
なるほど、二年生となり、これからさらに人気が出るわけだ。なんだか同じ高校生とは思えない存在だった。
「……すごすぎて、僕なんかじゃ比較できそうにないね」
「しかもイケメンだしね。こっちは童顔。まあこれはこれで好きな人もいるだろうけど」
「はぁ……」
無意識にため息がこぼれる。コンプレックスというものは、やっぱり肝心な場面で自分を苦しめるのだろうか。
「ちょっと、冗談でしょ。ガチで落ち込まないでよ」
僕の反応に、夏菜は少し焦ったように言った。
「それに私はさ、優希に脈ありだと思ってるのよ。毎日LEENするとか、好きでもない相手なら嫌だと思うし。その先輩が大人しい人ならなおさらね」
僕はそのことで自信を持つことができない。僕らが仲良くなったのは、共感する部分が多いからだった。
だから、特別視してくれているとしても、恋愛感情とは別もののようにしか思えなかった。
脈なんてない。あるのは仲間意識と親近感で、あくまでも、臆病な背中を押しあうのが僕らの関係なのだ。
そして、そこにはもう一つ大きな要素があり、それがネックだった。
「……弟みたいに思われてるから」
「弟?」
「うん。だから、僕のことを警戒しないんだろうなって」
ずっと思っていたことだ。でも話せるのならそれでいいと思っていた。それなのに、図書室の二人の姿を見てから、僕は不安になった。
「元々ね、弟くんに似てるって言われてて、それで知り合ったんだ。多分、僕を恋愛対象にだなんて考えられないんじゃないかな」
考えられないから、普通にしゃべることができる。僕はそれを役得のように思っていたけれど、これからのことを考えれば辛かった。
「春奏さんが桝田先輩と一緒にいるところを見てると、そう思い知らされた。結局、僕のことを男として見られないから、親しく話してくれるんじゃないかって。
それに、僕の気持ちを春奏さんが知ったら、裏切られたような気持ちになるかもしれない」
気を許していたのに、実は自分のことを狙っていたなんて。そんな気持ちを想像すると気が重くなる。
「じゃあ諦めんの?」
夏菜は少し怒ったように言った。僕は首を横に振った。
「諦められないよ。だからこんなに苦しいんだ」
そう言うと、夏菜は怒気を弱めてくれた。
「こんなに誰かを好きになったの初めてだから、どうしようもないくらい苦しいよ。
そうして自分の弱さを自覚したら、なおさら春奏さんにふさわしくないと思ってきて、自信がなくなってくる。……ずっとそれの繰り返しで」
涙で精神が不安定になる自分。人見知りで臆病な自分。恋をすると、自分の弱さが浮き彫りにされる。
恋はちょっとしたことで僕の心を舞い上がらせ、また、おとしいれる。僕はその消耗の激しさに耐えきれる自信がなくて、すっかり弱気になってしまっていた。
「……私さ、あんまりアドバイスとか上手なほうじゃないと思う」
ふと夏菜を見ると、少し落ち込んでいるような顔をしていた。僕がさせてしまったのだ。
「ごめん、なんか弱気なことばっかり言って」
「――でもさ、人を見る目には自信があるのよ。あと、耳にも」
人を見る目、だけじゃなく耳も。不思議だけど、夏菜が言うと説得力のある言葉だった。
夏菜は体ごと僕のほうへ向く。僕も倣ってそうすると、夏菜はガシッと強めに僕の顔を両手で挟んだ。冷たいのに温かい手。
夏菜はジッと僕の目を見る。吸い込まれそうな感覚だった。
「……優希って見た目を裏切らないのよ。かわいい顔してかわいい性格してる。まっすぐで善人で、嘘なんてつかないんだろうなって思わせる。
それでいて、調子良いときはすっごく色っぽい音を出す。だから私は好きなのよ」
好き、という言葉に、僕は動揺を隠せなかった。でも夏菜の顔は冗談を言っているようには見えず、だからといって照れるというわけでもない。ただ真剣だった。
夏菜はそのまま前に乗り出してくる。キスされるかのような距離の縮まり方だけど、僕にはなんの抵抗もできない。
しかし、予想と反して、それは鼻のてっぺんが当たりそうな距離で止まった。
「私も彼女と一緒であんたを警戒してないと思うけど、このくらい近づいたらドキッとするわよ。男としてなんて、これからでも見てもらえる」
「そうなの……かな……」
こんなに近くで目が合っているのに、僕は目が離せなかった。
まっすぐという言葉は、きっと夏菜のほうがふさわしい。夏菜の言葉には嘘偽りがないと思うから。
夏菜は手の力を強める。唇がギュッと絞られて、口が動かなくなった。
「……私がこうして恥を晒してまで褒めてるの。自信を持たなきゃって思うでしょ? 優希ってそういう子だから」
そういう子って、同い年なのに。でもそのとおりなのだろう。夏菜は見抜いている。
僕は顔を縦に振る。それしか可動域がなかったからだ。
すると、夏菜が手を離し、解放してくれた。スッと気が抜ける。夏菜だけの世界から戻ってくると、そこはただの学校の廊下だった。
ふと、夏菜の奥に何かが見えた。ずっと夏菜に集中していたため、他の人がいるかもしれないという思考が抜け落ちていたようだ。
チラッと見える後ろ姿には見覚えがあった。まさかと思った。
「なに? 誰かいたの?」
「え? ……ううん、大丈夫」
部活中の校舎にいるわけがない。きっと違う。でも心臓はバクバクと音を立てていた。
「自信、持てたでしょ」
僕はなんとか平静をよそおって、夏菜との会話に戻る。
「力技すぎるよ」
でも嬉しかった。夏菜は僕のことをそんな風に見てくれてるんだ。
僕は人の期待を裏切るのが最も怖い。夏菜は僕のそんなところをわかっているから言ってくれたのだ。
「ありがとう」
僕は素直にお礼を言った。でも、夏菜は無視するみたいに言葉で覆う。
「優希、もう彼女に告白しちゃったらどう?」
「……え?」
急転直下。さっきから考えていたのか、思いつきかはわからないけど、夏菜はいきなりそんなことを言い出した。
「ライバルに先を越されちゃうわよ」
確かにそれは怖かった。桝田先輩みたいな人の後に自分が告白して勝てるわけなんてない。
「そうだけど、でもまだ……」
「毎日LEENしても男として意識されてないなんて、絶対におかしい。
もし本当にそうだとしたら彼女はかなり鈍感だから、ちゃんと言ったほうがいいわよ」
夏菜は少しいら立ちを見せながら言う。
「いや、それはその……僕がこんなだから……」
「あんたがいくら女々しくたって、好きだからLEENしてるわけでしょ。普通は気づくわよ」
そうなのだろうか。夏菜にけおされた僕は「そうかな」と中途半端に同意した。
「優希の気持ちを知ったら、もう弟扱いなんてされないと思う」
「でも、告白しちゃったらもう話せなくなっちゃうんじゃ……?」
夏菜はキッとした目を向けてから表情を緩め、呆れるように言う。
「それって優希だけの問題よ」
「僕だけの……」
「告られたからって嫌わないでしょ。付き合うかどうかはともかくとして、好意を持ってる人に好きって言われたら嫌な気なんてしない。むしろうれしいわよ」
思わず顔が熱くなる。それって夏菜の思い込みなのではないだろうか。
「好意とか……ないよ」
僕はその部分だけ反抗することにした。夏菜の見解が知りたかったのだ。
「恋には満たなくても好意はあるのよ。恋愛感情はないとしても、彼女はあんたのことを好きだと思う。弟みたいに見られてるって、結局そういうことよ」
夏菜が言うならそうなのかもしれない。そう思わされるほど、はっきりと断言してくれた。
「そ、そうなのかな……」
「だからこそ、僕は異性としてあなたが好きです、って訴えなきゃなんないの。そうしなきゃ弟扱いのまま。
逆に、言ったらちゃんと意識してくれるわよ。返事が来ようが来まいが、その状態でまた仲良くなる。そこからが本当の勝負ってこと」
まずは男として見てもらうために告白する。しっかりと異性として見てもらえる状態になってから、今度こそ付き合うためのアピールをする。今の僕の場合、たしかにこのほうが正しい手順なのかもしれない。
「とりあえず、また話せるようにならなきゃ。優希はちゃんと魅力的。彼女にも好かれてる。
弱気になって諦めるなんて、私は許さないから。これからはちゃんと向き合いなさい」
「……うん」
夏菜の言葉には嘘がない。……しっかり自信を持たないといけない。それが夏菜の期待に応えるということだから。
「あの、ありがとう。アドバイスくれて」
あと、好きって言ってくれて。それは、口には出さなかった。
すると、夏菜は呆れるように口の両端をまげた。
「お礼はいいから、今からはまた色っぽい音をお願いするわ」
「……善処します」
そうして、ようやく部活は再開される。僕は夏菜のためにいい音を出そうと、オーボエのリードをくわえた。
○
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