ベキルのモンブラン殺人事件
鈴埜
第1話
たくさんの人間が存在するのに、息苦しさを感じさせない広さを確保している。
作りたての料理が放つよい香りを堪能するための空間。
親しい友人や家族とテーブルを挟んで会話を楽しむひと時。
それが本来の姿である。
だが、今日は雑然と重苦しい空気が立ちこめ、必要以上に小声で話すので異様なざわつきがあたりを支配していた。
「ええ。突然のことで、私たちも何がなにやら」
そういって赤毛の女性は自分の肩を抱く。その後ろには涙で目を真っ赤にした女が二人寄り添うように立っていた。
「警部補! やはり毒物です」
「そうか」
わかりきっていた答えにいまさら感想もない。遺体に直面した瞬間、毒物の名前が脳裏にちらついた。あの独特の甘い香りは過去に何度も遭遇している。
遺体は速やかに現場から移動した。それがホテル側からの要望で、確かに衆目にさらすにはその死はひどい有様だった。亡くなった本人も、美しかった自分のそのような姿を見られることは辛いに違いない。
もう尋ねることもできないのだが。
魔導での移動は、金はかかるが保存状態は完璧だ。下手に現場で劣化していくより最近はこういった手法が好まれる。ただし、費用が高いのでよっぽどのことがない限り行われることはない。
今回はホテル側がその費用を出すと、裏で言って来たのだ。
食べ物を提供する場所でこの事件はかなり手痛いダメージだろう。遺体を移動し、少しでも軽減させようとするのはわかる。警察もそれに乗るまでだ。
「自然に混入するのは難しいな。食べ物はもちろん、ここにある物をすべて調べろ。魔導で仮検査をしてその後本検査だ。封鎖は?」
「魔導検査は始まっています。封鎖も先ほど終わりました」
よろしいとばかりに、警部補と呼ばれた男は部下へ手のひらを向ける。
「それでは皆さん、警官がまず手荷物と衣服を検査します。気分の悪い方はいらっしゃいませんね? 席に着いたまま静かに順番をお待ちください」
ぐるりと見渡しながら、細身の外見とは違った厚いよく響く声で命令を下せば、ほとんどの人間が少し眉をひそめながら神妙に頷く。
それが本来の反応だ。
厄介なことに巻き込まれてしまった。けれど、人が死んでいるのだから、ここで騒ぎ立てるのも人としてどうかと。
それが普通の反応なのだ。
だから、彼が周囲を見回してある一点に目を留めたのは長年の勘とか、刑事たるゆえの観察眼といったそんな理由ではない。
明らかにおかしい少女が一人。
黒い人形のような長い髪に、赤い豪華な外出着は白いレースとの対比が美しい。まだ十三、四にしか見えない薄紫の瞳をきらきらと輝かせた少女。
人が一人死んだ場所にはそぐわない表情。
目が合うと、さらに彼女はきらきらを増した。
外見とは裏腹に、実はアレはまだ五、六歳の世の中の常識、分別がわからない子どもなのか? と迷う。何をあそこまで期待しているのだろう。苦しみ抜いて死んだ女の断末魔を、きっと聞いているだろうに。
彼の視線に気付いたのか、一緒の席に座っていた男たちが彼女の腕を引き、頭を抑えてこちらから見えない方へ彼女を向けさせた。保護者が二人。そのどちらも少しだけ慌てたような、そんなしぐさで、一人は愛想笑いを浮かべて頭を下げた。思わず同じように軽く頭を動かす。
「おい、あのテーブル要注意だ」
犯人だとかではなく、とにかく事態をややこしくさせそうな、そんな気がする。
「了解です」
トーンを押さえた命令に、彼の横で次の指示を待っていた部下が小さく返事をした。
「それじゃあ、検査を始めよう」
鶴の一声で、現場は動き始める。
この、ホテルウィンザーパークは、大陸の要所要所にいくつものホテルを構える中流より少し上の宿泊施設だ。大きな都市にはだいたい併設されているので、会社の規模としてはかなりでかい。
そして、ガードラントの地方都市レイムスにあるこのホテルにはもう一つ目玉があった。
ランチバイキングである。
確かに、同じようなことをしているホテルは多いが、ここのランチバイキングは質が高く種類が豊富な上に、さらにもう一つこのホテルならではのポイントがあった。
こういったイベントでは何につけても女性の気を引くのが重要である。口コミ、噂、そういったものはほとんどが女性から発信され、受信される。また、男女で来た場合、女性が満足すれば男性もその満足そうな女性を見て良しとすることが多いのだ。
そして、女性の八十パーセントは、可愛らしくきれいで甘いスイーツが大好きである。
有名なパティシエ・ベキルが手がけた五十種類のデザートがこのバイキング会場には並ぶ。平日で人も少なめだという支配人の言葉。それでも百人近くが目と腹を満足させるためにやってきていたのだ。
「うんざりするな。これだけの人数を大人しく抑えておく方法があれば教えてほしいよ」
最初は不安から皆席についているだろうが、時間が経てば自分には関係ないことと、この拘束を疎ましく思い始める。そして騒ぎになるのだ。
「人を動かすのは過去も未来も金よ」
部下や、鑑識の人間が駆け回る中、ふと漏らした独り言に返事があり、彼ははじかれたように辺りをみる。だが、誰もいない。
「こっちよ、おじさん!」
少しだけ笑いを含んだその声は、下から聞こえてきた。そのまま視線を落とすと、――要注意少女がしゃがんでいた。
目が合うと立ち上がり、にっこりわらう。可愛らしいえくぼが現れる。
こっちもにっこりと笑い返してやった。
保護者出て来い。
「お嬢さん。退屈だろうが席についておいで」
先ほどのテーブルを見ると、男二人のうち愛想笑いを浮かべていた一人の姿がない。もう一人は近くの警官となにやら話をしている。
「退屈だから座ってられないのよ! ねえねえ、こう、ぱぱっと、犯人はお前だっ! って指差し確認みたいにできないの?」
見張れと命じた部下がいないのは、たぶん消えた一人を追っているのだろう。他のメンバーはみな魔導の痕跡がないことを確認し、次の段階、毒物混入の有無を調べているところだ。人手が足りない今、必然的にこの厄介者を処理するのは自分の役目となる。
まずは、
「まだお兄さんなんだよ、お嬢ちゃん。こう見えても三十でね」
しゃがんで彼女に視線を合わせた。子どもを相手にするときのお約束だ。ただ、視線を合わせるのなら中腰にならなければならない。それはきついので彼女の方が上になる。
「セイラよ。ヨロシクね、警部補さん」
お兄さんに対してはスルーの方向らしい。階級は先ほどから呼ばれているのを聞いていたのかもしれない。ということは、最初のおじさんはわざとか。要注意人物から危険人物に格上げせねばならないようだ。
「これはご丁寧に。レイムス警察署のエグバート・エイゼンです。ここは危ないのであちらの席に座っていただけませんかね」
ホテル側から、店で買ってきたお茶が振舞われている。毒物の摂取経路がはっきりするまで、このホテルにあるものは口にしないほうがよいだろうとの配慮からだ。
それを飲んで大人しくしていて欲しい。
「でもね、せっかく途中下車して噂のバイキングを食べにきたのに、台無しだわ。悔しくって、わーって暴れてまわりたいぐらいよ」
「それは困るね。静かにしていてもらわないと」
子どもの叫び声にイライラする人種もいるだろう。自分もその一人だ。
すると、セイラはエグバートの言葉に深く頷いた。
「そういった気分は人に伝染するものね」
口の前で人差し指を立てる彼女は、外見に似合わない大人びた表情を見せる。まるで貴方の考えていることはすべてお見通しだといったように。
すべてお見通しなら大人しく座っていて欲しいものだが、それは通じないらしい。
「だからね、警部補さんは私を退屈にさせないようにしないといけないの」
ひどく真面目に言い切るので、思わずそれが正しいような錯覚を覚える。だが、次の瞬間勢いよく立ち上がった。
「おーい、保護者さん、このお嬢さんをあまりふらつかせないようにしてくれ!」
すると警官と話していたグレーの髪の男がそれこそ飛ぶようにやってきた。
「申し訳ございません。お嬢様、行きますよ」
「いやよぅ! 退屈だもの!」
つかまれた腕を振り払おうとする彼女を、見事な早業で担ぎ上げ、一礼する。
「ご迷惑をおかけしました。それでは」
「ちょっとクライド! レディに何をするの!」
「レディは静かに席で待っているものです。彼はどうしたのですか?」
「ん? ああ」
セイラは担がれたままの体勢で、器用に手をぽんと打った。
「ジュリアンは、私が何が起きてるか知りたいって言ったら、それじゃあ探ってきてあげよって出て行ったわ」
「レノックス様は、お嬢様に甘すぎますね」
そのやりとりに、エグバートは瞑目した。余計なことをされないように、部下がきっちりと捕まえていることを祈る。
そこへ、資料の束を持った鑑識がやってきた。
「ざっと調べたところ、やはり被害者が食べていたケーキ以外には毒物の混入が見られません」
「となると、そのときの状況か……」
担がれて足をばたつかせるセイラを見ながら、被害者のいたテーブルを眺める。
山盛りに盛られたデザート類。彼女たちのバイキングは終盤に差し掛かっていたようだ。ケーキは、いろいろな種類が食べられるようにと小さめに作られている。だが、その中でひときわ大きなケーキがあった。
それが、被害者を死に至らしめたモンブランだ。
ベキルのモンブランはたくさんあるケーキの中でも特に有名で、普通はケーキも毎日少しずつラインナップが変わるのだが、これだけは必ず出て来る。そして、並べられると同時にあっという間に皆の胃袋へと送られることで有名だった。それだけ美味しいのだろう。
甘いものが好きなエグバートにこの現場はなかなか苦痛であった。できることなら客として来たかった。
今日もモンブランはすでに三回目の入れ替えが行われている。その三回目に、件の毒物入りが紛れ込んでいたのだ。
「無差別殺人か、それとも特定の誰かを狙ったか。そこが問題ですね」
「だな。……で、うちの部下は一緒じゃないのか?」
姿を消したにやけた一人。例の少女の言から彼がそのジュリアンなのだろう。濃いグレーのスーツに渋茶のネクタイ。がっしりとした身体はそれなりに鍛えているようだ。しかし、動作がどことなく柔らかで、威圧的な印象は受けない。
まさかとは思うが、部下がどこかの空き部屋で伸びているなんてことはないだろうか。
「彼いいですね。なかなか優秀だと思いますよ。あれだけ上手く尾行されてしまうと、頑張って巻きたくなります」
「君はいったい何なんだ?」
「しがない歴史学者です。ジュリアン・レノックスといいます。よろしくお願いしますね、警部補」
右手を差し出されたので握り返す。物腰に似合わずがっしりとした手だ。それでいて指先は繊細。きっと器用に動くのだろう。
「殺人現場を許可なしにうろうろしてもらっては困るんだ」
「それは重々承知しております。が、僕の第一使命はお姫様を退屈の国から救い出すことにありまして……」
どこまでもふざけた男だ。とっととテーブルへ追いやるに限る。
権力を振りかざし、回れ右とばかりにジュリアンを移動しようとしたとき、彼がエグバートの肩越しにテーブルの上を指した。
「そのモンブランが配られたときの様子、はっきりとお話できますがいかがですか?」
にやりと笑う。
「警部補さんは、無差別殺人だと思っておられるのでしょうか? 僕は違うと思います」
この男――、
「無差別では、面白くない」
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