異世界ピンボール

黒羽カラス

第1話 異世界の始まり

 午前五時頃、夜の仕事で疲れ切った死人の群れがドリンク剤を手にレジへと並ぶ。服部雄吾はっとりゆうごは愛想笑いを顔に被せて熟練の技で乗り切る。

 その後、弁当に殺到する会社員をさばき、ようやくファミリーなマートの仕事を終えた。バックヤードで制服を脱ぎ、私服のポロシャツにジーンズ姿で店を後にした。

 最寄りの駅には七分で着いた。ICカードのイッスカで自動改札を抜けて二番ホームに向かう。

 時刻は午前九時半、通勤ラッシュを過ぎているのでホームに人は少ない。雄吾は最前列に立った。

 定刻通りに電車が到着した。開いたドアから疎らに人が降りる。駆け込む必要はなく、鷹揚おうような態度で車内に乗り込んだ。

 座席は空いていたが座らなかった。ドア横に立ち、自らの手で肩を揉んだ。首を回していると紺色のスーツを着た男性に目がいく。座席に項垂れる姿でいた。目頭を親指と人差し指で頻りに押している。

 雄吾は同情にも似た笑みで何度も頷いた。相手に見せ付けるように肩を迫り出し、叩いて見せたが気付く様子はなかった。

 明るい電子音が発車を告げる。ドアが閉まり、軽い振動で電車が走り出した。

 目はドア窓に向かった。巨大なモノリスのようなビル群が流れてゆく。あの中では優秀な人々が日々、しのぎを削っている。その一員でもある雄吾は人知れず胸を張った。正しくはビルのテナントで働くアルバイト店員なのだが、本人は考えないようにしていた。

 駅を迎える度に文明が退化していくようだった。沿線の建物が摩り下ろされたかのように低くなる。緑に浸食され、古びた民家が目立つようになってきた。

 車内の人々も様変わりした。一様に目が小さく、背中は丸い。若々しさは失われ、整骨院の待合室と化していた。

 雰囲気に呑まれ、雄吾の表情が陰る。やや背中が丸くなった。

 アパートがある駅に着いた。

「……三十は青年……三十は青年……」

 元気になる呪文を呟いて雄吾はホームに降りた。青年らしく階段を駆け上がり、僅かに息を乱した。無理に作った笑顔が変質者に見えなくもない。周囲に人がいない事が幸いした。

 真っ先に自動改札を抜ける。突き当たった小さなロータリーを左手に曲がった。前方に急な石段がそそり立つ。そちらには興味を示さず、併設されたエスカレーターに大股で向かう。

 入口にはシャッターが下りていた。貼り紙には素っ気ない文字で『点検中』と書かれていた。

 雄吾は未練がましく後ろを振り返った。もう一方の道はなだらかな斜面で距離がある。行き着く先は同じ国道となっていた。

「三十は青年」

 今度は呪いの言葉となって雄吾を縛る。嫌々ながらも石段を選択した。

 一段ずつ、踏み締めるように上がる。微妙な段差のせいで二段は厳しい。地道に歩を進めるしかなかった。

 最初の石段を踏破した。道は左に曲がって、その先には最後の石段が待ち構えている。越えれば国道で運が良ければ立ち止まらずに横断歩道を渡れる。その確率は低い為、験担げんかつぎに使えた。

 雄吾はゆっくりと歩き出す。道なりに曲がっていくと最後の石段がそびえ立つ。

 その手前に丸い円が描かれていた。近づいて見ると魔法陣であった。二重の真円で間にはヘブライ文字に似た物が密に書かれていた。中央には重厚なペンタグラムが描かれ、芸術作品と見紛う程の出来であった。

 見ていて飽きが来ない。落書きの一線を遙かに超えていた。

「……異世界の扉」

 呟いた途端、慌てて周囲に視線を飛ばす。人影はなく、安堵あんどの息が漏れる。

 改めて魔法陣に目を向けた。真剣な表情を急に緩めた。手を左右に振って自嘲めいた笑みを浮かべる。

「そんなこと、ない、なにぃ!?」

 否定が驚きに変わる。魔法陣が輝き出したのだ。目を細めていないと直視が出来ない。考えられないような現象に遭遇して雄吾は激しく動揺した。

「こ、これは、本物? 踏み出せば俺の未来が、いや、そんなバカな……」

 言いながらも右足が僅かに浮いた。その状態で小刻みに震える。あと一歩が踏み出せない。

 魔法陣の光が弱くなってきた。焦りの表情で全身が不自然に揺れる。

「好きにしろ!」

 跳ぶようにして踏み込んだ。

 瞬間、光が溢れ出す。周囲の光景が白く燃えた。意識まで白に埋め尽くされた。


 この世界から雄吾が消えた。

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