人生の甘み

鏡水 敬尋

人生の甘み

 薄暗い部屋の中、男は、震える手にスプーンを握り、その先に小さく盛られた、白い粉を摂取しようとしていた。

 その粉を口内に運び入れると、甘い感覚が身体を包み、脳がとろけるような快感に支配される。

「ああ……ああ……」

 一頻り快感を味わうと、男は再び、スプーンの上に白い粉を落とし始めた。

 バタン!

 唐突にドアが開き、部屋の中に、数人が雪崩込んできた。

 何が起きたのか分からない内に、男は捕らえられ、身体の自由を奪われていた。

「糖質取締法違反の容疑で、逮捕する」

 数秒の後、男は状況を理解し、観念した。現実は甘くなかった。


 2019年、日本で、新たに糖質取締法が施行された。この法律の趣旨は、糖質を含む食物の、所持、譲渡、製造、摂取を禁止する、というものである。

 この乱暴な新法が成立に至った理由は、糖質による被害が、いよいよ看過できない状況になってきたからである。

 2000年頃、研究者達の手により、糖質には、強力な依存性が有り、また、人体への毒性も高いことが証明された。ここで言う糖質には、砂糖などの糖類はもちろん、米や小麦等の炭水化物も含まれる。人間が農業を習得してからというもの、糖質を多分に含む穀物が、比較的容易に、大量生産できるようになり、人類は長い間、糖質の毒に晒されてきた。糖質の摂取により、多くの人間が肥満になり、心疾患、脳血管疾患等を患うようになった。過去数年の、死因トップ10の多くの、真の要因は、実は糖質の摂取過多であったことが判明した。

 しかし、唐突にそれらの事実を発表しては大きな混乱が起きる、と危惧した政府は、情報を小出しにすることで、日本国民が自発的に糖質の摂取を制限するよう画策した。

 様々なメディアを駆使し、糖質の摂取過多は良くない、血糖値を上げないように、と啓蒙をした。糖質制限ダイエットなるダイエット法を喧伝し、糖質を摂取しないことで、魅力的な人間になれることを謳った。

 しかし、そんな努力も虚しく、日本人の多くは、欲望のままに糖質を貪り続けた。「米は、日本人の心だ」などと宣いながら、毎日毎日、致死量すれすれの丼飯を喰い、「仕事の後はラーメンだ」などと叫びながら、毎夜毎夜、致死量オーバーの麺の塊を酒で流し込んだ挙げ句、身体が拒絶した糖質を道端や駅のホームにぶちまけ続けた。何年経っても、日本人は糖質を制限することができなかった。

 政府は、日本人の、食べ物に対する執着を甘く見ていた。日本人は、大抵のことは笑って許すが、食べ物が絡むと途端に狭量になり、自律が利かなくなる。この現実を目の当たりにした政府は、もはや国民の自発性をあてにはできないと判断し、問答無用で、糖質を厳しく取り締まる法律を施行した、という経緯である。

 なお、人工甘味料の類も取締の対象となった。実質的な糖質が0であっても、その甘味が、人間に、糖質への渇望を思い出させてしまうためである。


「下田! 今日は、帰りに寿司食ってくか」

 上司である上田に、そう言われて、下田は、皮肉な笑いを浮かべながら応えた。

「もう、寿司は食えないですけどね」

「ああ、そうだったな」

 上田は、若干、鼻白んだ様子だったが、すぐに笑顔を繕って言った。

「それでもまあ、寿司屋は寿司屋だ。行くだろ」

「おごりですよね」

 上田は大袈裟に舌打ちをして、おどけてみせた。下田は、軽く息を吐いて、笑みを浮かべた。こうして、上司にたかるのが、下田の常套手段であった。

 18時を回ったところで、上田と下田は、タイムカードに打刻をし、オフィスを出た。オフィスの入ったビルを出て、歩道沿いに10分ほど歩くと、店が見えてきた。『彩時記』――二人が、仕事帰りに、よく来ている寿司屋である。

 上田が店のドアを開け、暖簾をくぐると、下田もそれに続いた。

「いらっしゃいませーい」

 威勢の良いかけ声が、店内に響く。

 二人が、案内されたカウンターに着くと、板前が言った。

「らっしゃい。いつもの感じで良いですか?」

 上田が応える。

「ああ。それでお願い」

「はいよー!」

 板前は、両の掌を打ち合わせ、小気味の良い音を立てながら、準備に取り掛かった。間もなく、二人の前に、幅広の笹の葉が置かれた。カウンターの客に対しては、笹の葉の上に寿司を置いていくのが、この店のスタイルだ。

 二人の笹の葉の、向かって右の端に、黄色いものが乗せられた。ガリだ。上田が、早速、ガリの一枚を箸でつまみ上げ、口に放り投げる。

 数回咀嚼した後、上田が言った。

「不味いな」

 情けない表情で、板前が応える。

「そう言わないでくださいよ。なんせ、砂糖が使えないんでね。ガリにも甘みが付けられないんです。ただの酢生姜ですよ」

「そうは言っても、不味い。ああ、もう二度と、あの美味いガリを食べられないのかねえ」

 少しうんざりしながら、下田が嗜めた。

「わざわざお店に来て、不味い不味い言うの、やめてくださいよ」

「しかし、不味いぞ。お前も、これ喰ってみろ」

 言われて、下田は、喰いたくもないガリを口に運び、咀嚼した。

「うわ……不味い。今日のは格別に不味いですね」

 二人のやりとりを聞いていた板前が、顔に諦観を浮かべながら言った。

「やっぱり、駄目ですか。実は、酢が変わったんですよ」

 二人は声を揃えて、聞き直した。

「酢?」

「ええ。なんせ、豆類を除く、ほぼ全ての穀物の所持が禁止されてしまったので、今までと同じ酢は作れないんですわ。店に残っていた酢を、だましだまし使ってたんですがね、いよいよそれも底を突きまして、2日前からリンゴ酢を使うようになりました」

 それを受けて、下田が応える。

「今のところ、果物はセーフなんですよね。もはや、甘い物はみな、悪魔の食べ物だと言わんばかりに、人工甘味料すら規制した割には、果物が規制対象外というのはよく分かりません」

 つまらなそうな顔で、ガリを咀嚼し続けていた上田が言った。

「理屈が分かったところで、不味いものは不味い。いっそのこと、リンゴの果汁をそのまま入れたほうが、美味くなるんじゃないか」

「なるほど。今度、試してみますわ」

 と、少し虚ろに返事をしてから、板前は急に元気を取り戻して言った。

「はい! まずはイワシから!」

 二人の笹の上に、イワシの握りが置かれた。上田が、待ちきれないとばかりに、それを右手で掴むと、醤油を付けて、口に放り込んだ。シャリシャリという咀嚼音が、下田の耳まで届く。

「イワシは美味いけど、やっぱりシャリがなあ」

 上田は、心底残念そうに呟いた。下田は、目の前のイワシの握りをつまみ上げて、まじまじと眺めた。当然ながら、シャリは酢飯ではない。大根である。ツマのように細く切られた大根が、シャリの代わりに、ネタの下に居座っている。

 下田も、その風変わりな、しかし今となっては一般的な握りを口に放り込んだ。

 シャリシャリと音を立てる、無駄に歯応えが良いシャリを咀嚼し、口の中のものを飲み込んでから、下田は言った。

「そう言えば、醤油は大丈夫なんですか?」

「お、よくぞ聞いてくれました。米麹が使えなくなってしまったので、豆麹でなんとか作ってるんですよ。あと、幸い、うちの醤油は、昔っから小麦を使ってないんです。一般的な濃い口醤油は、小麦を使ってるものが多いんで、今じゃ製造不可能みたいですが」

 辛うじて小さな自信を保っている板前を見ながら、下田は考えた。刺し身と醤油で、美味く喰えるだけ、寿司屋はまだましだ、と。

 他の外食店は、糖質取締法により、壊滅的な打撃を受けていた。特に、ラーメン屋の惨劇などは、正視に堪えないものであった。小麦が使えない以上、麺を作ることができないのだ。さらに、砂糖も料理酒もみりんも使えないため、スープはただただ塩辛いだけの脂汁になってしまい、あっという間に客足は遠のいた。一部の店は、麺の代わりにこんにゃくやしらたきを使ったが、悲しいかな、スープが全然美味しくないので、流行らなかった。一部の店は、チャーシュー専門店へと鞍替えをして、特大のチャーシューを塩辛い汁に浸して食べるという新しい食べ物を作り、こちらは少しだけ人気を得た。そば屋とうどん屋は早々に店を畳んだ。インド人の振りをしたパキスタン人が営む、インドカレー屋もほぼ全滅であった。ライスも、ナンも、チャパティも、カレーも、全て穀物ベースである。カレー屋は、店で出すものが無くなってしまった。一部の店はラッシー専門店となって生き残りを図ったが、砂糖の入っていないラッシーは日本人の口に合わず、惨敗を喫した。焼肉屋は、タレが使えなくなったものの、塩胡椒とワサビで食べるスタイルは、規制に関係なく継続できたため、他の飲食店よりはマシな状況であった。

 ここ数ヶ月の間に、外食店を襲った未曾有の惨劇を振り返っていた下田が、ふと我に返った時、上田はワインを飲んでいた。

 酒も、大半のものが規制された。米をベースにした日本酒は全滅。麦が原料のビール、ウィスキーなども禁止され、サトウキビを原料としたラム酒などは以ての外であった。選択肢として残されたのは、ワインやシードルなど、果実を原料にした酒と、芋焼酎など、分類上、野菜に属する原料を使用した酒のみであった。

 ワインが回り、早くもほろ酔い状態の上田が言う。

「寿司にワインってのもなあ! ああ、日本酒が飲みてえなあ」

 その時、店のドアがガラガラと開けられ、制服を着た警察官が入ってきた。彼は、店の中まで入ってきて、銘々の客が口にしているものを、丹念に見回した。規制された食品を食べている客が居ないか、店がそのような料理を提供してないかを確認しているのだ。

 酔っ払った上田が、カウンターに向いたまま、警察官に聞こえるよう、大きな声で言った。

「あーあ。ガリは酸っぱいだけだし、酢飯は喰えねえし、日本酒も飲めねえ。なんで俺は、寿司屋に来て、ワイン飲みながら刺し身大根喰ってるのかねえ!」

 店内の空気が一気に張り詰めた。周囲の客らも黙り込み、皆、視線は向けずとも、上田と警察官のやり取りに意識を傾けている。

 上田は、椅子に座ったまま、警察官のほうへと向き直り、怒りを露わにした。

「米を喰ったり、日本酒を飲むのが、そんなに悪いことなのかね」

 表情を固くしたまま何も言わない警察官に、上田が続けて怒声を浴びせた。

「喰ってみろ! この不味いガリをよ!」

「いちいち、不味いって言わないでくださいよ」

 情けない顔で、懇願するように板前が言った。

 警察官が、上田にほうへと歩み寄ると、上田は身構えた。

「何だ? やろうってのか?」

 警察官は、右手を伸ばすと、素手でガリを一枚つまみ上げて、口へと放り込んだ。数回の咀嚼音の後、警察官の顔が苦痛に歪む。

「無言で不味そうな顔をしないでくださいよ」

 情けない顔で、懇願するように板前が言った。

 上田は、さらに続けて、怒りをぶちまけた。

「俺らは、この先、一生こんなもんしか喰えないのかよ! 糖質を摂るってのは、そんなに悪いことなのか?」

「知っての通り、糖質摂取は違法になったんだ。ご理解願いたい」

「あんたらだって、去年の今頃は、寿司やラーメンを喰って、日本酒で一杯やっていただろう? それが今じゃ、糖質摂取者を麻薬ジャンキーみたいに扱いやがって」

「糖質は、身体に害が有ると、科学的に立証されたんだ。あなたの健康の為にも、摂らないに越したことは無い」

「この先、また違う喰い物も、実は身体に悪かったとか言い出して、俺らが喰うものは、その内、全部規制されちまうんじゃないのか?」

「それを、私に言われても困る」

「喰いたいものも喰えずに、ただ長く生きることが、そんなに素晴らしいことなのか?」


 政府が、糖質取締法の施行に踏み切った理由は、確かに、国民の健康を促進するためではあったが、それは、国民の幸福を考慮してのことではなかった。糖質の被害により、働き盛りの国民が病気になり、生産性が落ちる、あるいは働けなくなるといった、労働力の低下を防ぐことが主目的であった。

 しかし、数年後、政府は糖質取締法の撤回を余儀無くされる。自殺率が急増し、糖質取締法の施行前よりも、労働力の減少が懸念される事態に陥ったためである。規制の前後で、労働環境は変化しておらず、日々、新たに発生するストレスの量は変わらないにも関わらず、ストレスを発散する手段だけを減らされてしまったからだ。また、この先、生涯を通じて、ろくに美味いものが喰えないことに、多くの日本人は絶望し、生きる意味を見失った。

 政府は、日本人の、食べ物に対する執着を甘く見ていた。

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