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翌朝、昇二が叫び声をあげながら恐ろしい夢から目覚めると、相も変わらず自分が醜くて哀れな高校一年生であることに気がついた。昇二は問答無用に両足を掴まれ、地獄に引きずりこまれるようにしてベッドから引きずり出された。
「着替えろ!」父親が命じた。
母親が制服一式を用意していた。
昇二はトイレに逃げ込んだ。
「学校行くとお腹が痛くなるからいやだ!」
昇二は切実な思いで訴えた。
それは本当のことだった。昇二は小学校の頃からずっと授業中に急激な腹痛に襲われるという謎の症状に悩まされていたのだ。
腹痛が起きると、彼はいつも授業中にトイレに席を立つという恥ずかしさを避けるため、脂汗をたらしてぎりぎりまで堪えたのち、結局我慢できずに挙手してトイレに行きたいと申し出るのだった。背中に笑い声を浴びせられながらトイレに駆け込むと、いつも決まってひどい下痢便が出た。
そんなことが毎日のように起きるのだった。ひどいときには一日に二回も三回もだった。
昇二はもう何年にも渡って両親に惨状を訴えていた。
「お腹が痛くなるなんて誰だって同じだ!」
それが父親のいつもの回答だった。
父親は、自分以外の人間が体調不良になるとあからさまに不機嫌になったし、どんなに根拠がなかろうと大声で言えばそれが真実になると信じていた。
「五体満足で生まれただけで幸せ」
それが母親のいつもの回答だった。
母親は、普段は障害者などこの世に存在しないかのような態度を取っているくせに、感動物語に仕立てあげられた障害者のドキュメンタリーを見ると気分よさそうに涙を流すような人間だった。
「病は気から!」
両親は口を揃えて言った。
もう何を言っても無駄だった。
昇二は授業中にトイレに行かなくて済むように自分であらゆる努力をしてみたが、何をやっても効果は得られなかった。家ですべてを出し切ってから登校してもダメだったし、休み時間のたびにトイレにこもっても何も出なかった。何も食べないという手段に出ても、それでもなお下痢になった。
手の打ちようがなかった。授業がはじまると決まったように腹痛に襲われ、そして、いったんそうなってしまうと百パーセントの確率でトイレに駆け込むことになるのだ。授業に集中するどころではなく、学校で気の休まるときなど片時もなかった。
何しろ話は下のことであるから、威厳の保ちようもなかった。昇二はどの学年にあってもクラスのいい笑いものとなり、「うんこ」とあだ名された。あまりにも露骨でみじめなあだ名だったが、当の本人にさえそれが妥当だと思えた。歴代のすべての担任教師が昇二を嘲笑った。
下痢をめぐるこうした闘争で、昇二はとことん負け癖をつけさせられていた。
「学校はいやだ。病院に行きたい」
昇二はトイレに立てこもったまま訴えた。
急激な下痢以外にも、彼はこれまで様々な原因不明の症状に悩まされてきた。
謎の湿疹、何週間も続く咳、何週間も続く微熱、突然の発汗、食いしばり、偏頭痛、過呼吸、チック、自分の体が臭くて仕方ない気がすること、爪を噛むのがやめられないこと、人の視線を感じると極度に緊張してしまうこと、閉じ込められると強い圧迫感を感じること、慢性的な気持ちの落ち込み、手足の震え、耳鳴りなどなど。
数え上げたら切りがなかった。
聞きかじりの心療内科的知識から、昇二はどれもこれもストレスが大きな要因であるに違いないと考えていた。これまで何度となくその手の病院に連れていってほしいと頼んでいたが、両親はいつも彼が訴える症状を小バカにして笑うか、逆に我慢が足りないと言って怒り出すかするだけだった。彼は今まで一度として医師の診察やカウンセリングを受けたことがなかった。
昇二には、これまで散々自分を苦しめてきた症状に名前がつくことに対する強い憧れがあった。両親は説明が二行になると言い訳だと決めつけたし、三行になると臭いものに蓋をするように見て見ぬふりをした。一行あるいは一語でなければダメなのだ。一語ですべてが示せる病名がどうしても必要だった。名前がないと自分自身に対してさえ自分の身に起きていることをうまく説明することができないのだ。
少しの間、ドアの向こうが静かになった。
父親が逆上すると巻き添えを食わないようにさっさと姿をくらませる母親が戻ってきて、二人で何事か相談しているようだった。
「開けろ」父親がドアの向こうでやや声を落として言った。「病院に連れて行ってやる」
「ホントに?」
「いいから開けろ」
昇二は、電気ショックを与え続けられた実験用のネズミのように震える手で鍵を開けると、ドアの隙間からそっと外を覗いた。
途端にドアが勢いよく引き開けられた。昇二は無理やり引きずり出され、制服を上からすっぽり被せられ、フレームが曲がったメガネをかけられ、通学鞄を押しつけられ、拉致されるように車まで連れていかた。
父親は車を急発進させた。
車はあっという間に病院を通り過ぎた。
「びょびょびょびょびょ、病院は?」
昇二は強制という名の拘束着を着せられていた。あまりにも度が過ぎていたので、その服はほとんど目に見えるかのようになっていた。
「病は気から!」父親は威嚇するように言った。
「連れていくって言ったのに!」
「お前には我慢が足りない!」父親は自らの怒声に興奮してさらに言い募った。「お前の悩みなど悩みのうちにも入らん! 他のみんなの方がよっぽど悩んでいる!」
「学校に行くのが当たり前」
いつの間にか後部座席に同乗していた母親が言った。
得意の常套句で訴えを無化された昇二は、無間地獄へ落ちていくような気分で座席に深く沈み込んだ。彼にあるのはもうどうしようもないという無力感だけだった。
いやなことにひたすら耐えること。そして、それに対する見返りは何一つないこと。それが昇二がこの両親に繰り返し叩き込まれてきた現実だった。生まれてきたのがそもそもの間違いだった。
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