死にたいという気持ちが収まったわけではなかった。呆然自失で城下町までおりていくと、昇二は自分がいつの間にかお濠にかかる朱色の橋の上で、思い詰めた表情で水面を覗き込んでいることに気がついた。やがて、そのまま引きずり込まれるようにしてお濠に落ちた。

 どぷんと水がはねたあと、水面はたっぷり三十秒静かだった。

 突然、昇二はシンクロナイズドスイミングの選手のように水面に勢いよく飛びあがって悲鳴をあげた。脚にワニが咬みついていた。

 石垣を掴んで這いあがろうとすると、たまたま通りかかった観光案内の市民ボランティアが手を貸してくれた。

 市民ボランティアは昇二の脚に咬みついている生物を見て驚いた。それはワニではなかった。ワニに似た魚でアリゲーターガーという肉食の外来種だった。どこかの身勝手な飼い主が、飼い切れなくなってお濠に放したのだ。市では、この魚のせいでお濠の鯉が減って困っていたのである。

「人に咬みつくことは珍しいのに」

「まだ咬みついてます」昇二は痛みをこらえながら言った。

「お、そうか」

 市民ボランティアは枝を使ってその巨大魚の口をこじ開け、昇二の脚から引きはがした。体長は八十センチほどもあった。その魚は、噛み跡から完全な歯の模型が作れるほどくっきりとした歯型を昇二のふくらはぎに残していた。

「おかげで捕獲できた。きみはこのお濠の鯉たちの救世主だ。役所に電話しよう。カメラマンにも来てもらって一緒に写真を撮るんだ。お手柄高校生として新聞に出るぞ」

 昇二は、痛む足を引きずって逃げるように立ち去った。

 何かがおかしかった。すべてがおかしかった。もう何もかもおしまいだった。なのに続いていた。昇二は途方に暮れて帰宅した。

「数学と英語のテストが返されたでしょ」母親が開口一番に言った。

 その通りだった。子供の成績にしか興味がないこの母親は、学校で行われるありとあらゆる試験のスケジュールを把握しているのだった。

 母親は勝手に人の鞄を漁って解答用紙を取り出すと、目と指ですばやく○×を追った。

「ここが違ってる。ここが違ってる。ここも。ここも」

 そうやって間違えた箇所を逐一指摘してくるのだった。

 試験のたびに繰り返されるこの儀式は、いつも例外なく昇二を暗然とした気持ちにさせた。間違いが十あろうと、一つしかなかろうと同じことだった。間違いが一つもなかったときに満足そうな顔をするのは、地上でただ一人、この母親だけだった。

 そこへタイミング悪く父親が帰宅した。父親は、まるで神経の昂った人喰い熊のようにいきり立ち、不機嫌を撒き散らしていた。

「お前にはがっかりだ!」

 父親は、昇二のミスに付け込んで大袈裟な言葉で責め立てた。

 昇二はその場に正座させられ、どうすれば挽回できるか言ってみろと威圧的に迫られた。

 まるで頭上に巨大な金床をぶら下げられているような気分だった。解放されるには相手が聞きたがっている答えを言うしかなかった。

 正解は分かっていた。「がんばって勉強して次のテストでもっといい点を取る」と言えばいいのだ。だが、分かってはいても口にはできなかった。一つにはそれが空手形を発行するようなものだからであり、一つにはそれがあまりにも薄っぺらく、的外れで、型にはまったバカげた発言だからだった。

「どうすればいいか言ってみろ!」

 父親は今にも殴りかからんばかりに脅しつけた。

「分からない」

 それがぎりぎり妥協できる答えだった。

「分からないとはなんだ! 自分で考えろ!」

 父親は、昇二の葛藤などまるで理解せず、自白を強要する能無し刑事のようにわめき散らした。

 まるで拷問だった。昇二は、何度か消え入るような声で「分からない」と呟いたあと、楽になりたい一心で父親が聞きたがっている言葉を言わされることとなった。

「がんばって勉強して、次のテストでもっといい点を取ります」

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