塔の崩落

韮崎旭

塔の崩落

 朝になった。日の出だった。ときにきみ、食パンの上の卵、早く焼かないと腐るよ? それはそうとして君、存命の有効期限の更新はお済みですか? お済みではなく、なおかつ存命の継続を希望する方は、293年3月10日までに、近くの役所に規定の書類を、既定の書式で、既定の郵送方式で、既定の消印で(当日消印有効)、既定の郵便局から(その自治体以外の郵便局以外から送付する際は、領域外郵送届を同封し、3月6日までに(当日消印有効)投函すること)送付してください。卵が生焼けで朝日のような生臭さが絶妙に不快感を覚える。アメリカの90年代末期の写実派のタッチもこんな感じに生々しかった。あああああああああああああ……日の出を過ぎても、笠川経一の部屋は遮光カーテンで外界の騒音や有害な光から守られている。聞くはずのない他人の悲鳴を、聞かなくてもよい権利。遮光カーテンは夜のような深い灰色。美しミミズクの毛皮のように、ふっくらとやわらかく、人間の疲弊した精神を包み込む。結局その日はグリニッジ標準時の11時になっても笠川は床に敷いた布団で眠っていた。誰かが執拗に玄関の呼び鈴を鳴らす、その侵襲的な音声が静かで優しい部屋の空気を乱す。昨日津田紅茶の残りが机の上で錆びている。こんな早朝に本当に何の用だろう、西海岸では今頃原爆記念館の取り扱いに関して地元の議会で何かと紛糾委しているっていうのに、こんな部屋にわざわざきて、しかも、手間をかけて何度も呼び鈴を鳴らすなんて正気とは思えない。たぶん、正気ではない。


 その頃西島芦野は書店で、「ああ短編集が出ていない、まだ? 見澤棟次の短編、文芸誌には時折、というか結構な頻度で掲載されているし、SF専門誌に至っては、連載まで持っているというのに、何が悲しくて出版社はあきらかにストーリー重視のメディアミックスとかされるために書いているどころかもはや脚本家になればいいのにどうして脚本家ではないのかいやそんなことはどうでもいい心底どうでもいい私は関心がないだけだ、確かに、売れているだけで、商業的な出版とはいえ、あまりにも文化の担い手、別に文化にも関心はないが、文盲だから。模様が見えているけれど、その意図するところは全く読み取れない。違う。そうではない。はっきり言って、ベストセラーも脚本もどうでもいいのだが、とにかく、旧作を探すとない。新作も出ていない。文庫にしなくてもあらゆる書店にあるくらい重版されている作品が文庫化される一方で絶版。2年前に出たばかりで! いずれにせよ本屋に本がない、買いたい本が一切ない。探してみるんだ、シオランの著作の邦訳とか。ない。非常に悲しい。ニーチェの箴言のまとめ解説付きなどを置く暇があるならほかの人間の著書もおいたほうが有益だろう解説がないとニーチェを読まない人間とか別に解説があっても読まないから置けばいいのに、シオランとか克誠堂出版などを。何もかも嫌になる。本当に。わしはまだ書店に期待しているんだ。でもそんなことに意味はない。生きることにも意味がない。死亡願いなんか出すまでもない。今日中に死のう。」と考え当日中に部屋で首をくくった。銃がなければ、一向に身近な自殺方法。


「こんな時間に一体……」私はもう疲れてしまった。私はほかのものになるのは死ぬほど嫌だ。いまさらそれとして生きられない。いまさら人間のふりはできない。いまさら誰が人間だって? いまさら人間として生きるだなんてご都合主義ですこと。あきれてしまう。自らの楽観に、雑なあきらめに、嘆きを通り越して笑ってしまう。西日のさす教室で、すべてが色あせていくこと、僕が消えてゆくこと、長良川などのアユが不漁であること、農業経営者の自死、「こんな時間に一体……」私はもう疲れてしまった。読み書きをすることに。文化的なふりをすることに。本来は石斧を振り回す体力がないだけ。いまさら、人間の霊峰を学ぶだなんて。お前が郵便局の何を知っているっていうんだ! 知らないなら貴様に人間を嘲笑う権利などない、そう、ないんだ……少なくとも、日差しが傾いている間だけは。いまだけは、未分化なままでいさせて。忘れさせてよ。悪い夢だったんだ。そう思わせてくれたっていいじゃない。また日が昇れば私は消えてしまう。だったら、人間のふりをするなんてとんだ三文芝居だったんだ。「こんな時間に一体……」私はもう疲れてしまった。人間の組織の維持に、人間の外観の整備に、私がいつから人間だったのであろう、維持管理のコストが尋常ではないとが知られていたこの不便なひな型を使いたがった気が知れないけれど、それよりも私は、その社会性という方式に疲れ果ててしまったのだ。遠足の日に晴れることを願うように強要する社会性、給食を残さないマナー、店舗で、店舗で、店舗で、外食先で、だれが、オーダーメイドだとでも思いこんでいるのこの痴愚神様方は、多めに出すに決まってんだろカス脳みその代わりに生ごみでも詰めてんのか? 残飯の!「こんな時間に一体……」私はもう、遮光カーテンはやさしく空間を包み込み、ミミズクの柔らかな声で眠らせるべくたたずんでいた。窓際の花は枯れていた。23週間も放置すればそれはそうなる。


 もう、「おやすみ」ということもないのだろう。時間のない部屋で、眠りに落ちる。

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塔の崩落 韮崎旭 @nakaimaizumi

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