△9二前旗《ぜんき》

「……手間が省けるのはこちらには有難いが、本当に、将棋コレで勝負を決めてもいいのかね? いやしくも私は……自分で言うのも何だが、この分野においては万人に第一人者と認められている者だぞ?」


 余裕ヅラを取り戻した第一声がそれか。僕の意図は、覚悟は充分伝わったのだろう。その上で、この勝負を自分の楽勝と思っていやがる。


 だが、そうでなければだ。そうでなければコイツの心の芯までを折り殺すことは出来やしない。


 後はダメ押しだ。こいつを追い込むところまで追い込んで、完膚なきまで、すり潰し殺す。そのためには……この、「思考の奇襲戦法」しか無い。


 僕は、先女郷サキオナゴウの発言を無視するかのように、自陣の左香をつまみ上げると、肩越しにふんと背後に向けて投げ放った。


「……!?」


 立ち込める不穏な空気。再び顔を歪めた先女郷に、僕は決然と言い放つ。


「……九冠に、香車を引いて勝つ」


 瞬間、先女郷の広い額に血管が浮かぶのが見て取れた。表情の抜け落ちた顔の中で、目だけが虚ろに、それでいて獰猛に光っている。しばらくして、押し殺した声が響き渡ってくる。


「……正気か? 貴様の生命を、ひいてはこの世界の人間共の運命も託す対局ということを、理解しているのか?」


 理解はしているさ。だがこうまでやられたら、流石のお前も正気ではいられないだろ? 


 ……そして、その上で詰みまで追い込まれたのなら、真の「投了」を、認めざるを得ないはずだ。


「……盤上ここにある駒で、対局を申し込む。持ち時間は『六十分切れ負け』。承諾してくれるのなら、その対局時計を押してくれ」


 僕の落ち着き払った声に、一瞬、気圧されたかのように見えた先女郷だが、メンタルで優位に立とうと考えたのだろう、殊更に余裕な笑みを浮かべると、こちらを挑発するかのような顔貌で、虚空から現出した青い対局時計のボタンを押し込む。


「……貴様の棋力など、たかが知れている。痴れ者め。じわじわと嬲り殺しにしてやろう」


 こいつのメンタルもありがちで噴飯ものだが、僕は自分の気持ちを揺らすことなく、言い放つ。


「僕は……独りじゃあない。全世界の人たちの『次の一手』を集約して、貴様に挑む。いわばこれは『二次元人』と『地球人』の……代理戦争だ」


 そう、いまこの瞬間、僕の意識は、この世界の将棋を指す人々全員のそれと繋がっていた。


 全ての将棋人の意見をまとめて、多数決を以て、次の着手を行う。


 つまり地球の命運は、地球に存在する全ての将棋指しに託されたわけで。


 指し手の代理人である僕は凪いだテンションのまま、実に92%の支持を得た初手「3四歩」を着手し、相手の出方を待つ。


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