△4一奔王《ほんおう》

 見知らぬ、白い天井だった。開けようと意識したわけじゃなかったが、乾きに乾いたまぶたが、ひび割れるように開いて、僕は自分が覚醒したことを悟る。


 寝かされていたベッドは簡易的なものらしく、辺りを見回そうと首を左右にひねっただけでギシギシと音を立てた。そして首を動かした瞬間、喉元に鋭い痛みが走って、呻き声を上げつつ僕は再び仰臥する。


 保健室……みたいな白が大半を占めている静謐な空間だ……八畳くらいの。消毒薬っぽい、意識がまた遠のきかけるような透明感のあるにおいが漂っている。


 体がやけに軽かったので触って確認すると、やはりバネ仕掛けのギプスが外されていた。いつも夜寝る時も装着していたから、逆に違和感がある。思い切って腹筋に力を込めて上半身を起き上がらせてみた。入院患者が着させられているような薄いブルーの前開きのガウンみたいなのを身に着けていることに気付く。


 あれ制服は? と見渡すと、白い壁が巡る小部屋の片隅に置かれたハンガーラックにきちんと吊るされているのが見てとれた。引き出しのある背の低い物入れの上に、ギプスやらリストバンドやらも丁寧に置かれている。


 気絶した僕はどうやらこの簡易的な医務室のようなところまで運ばれてきたようだ。


 もしやミロカさんとか、隣にいた少女が僕の体をッ!? と、原始レベルの精密さを持つ嗅覚で、自分の体の隅々の残り香を知覚しようと試みるも、その痕跡は残念ながら収集すること叶わなかった。


 その時だった。


「……気付かれて良かったです。さっきはごめんなさいでした」


 可憐な声が部屋に響く。己の体を嗅ぎまわる作業に没頭していたため、部屋の扉が開かれていたことに気付かなかった。そしてそこからトレイを手にした、先ほどの黒髪ポニーテール少女が入室してきていたことにも。慌てて僕はベッドの上で居住まいを正す。


 先ほどの臙脂ジャージに下駄という突拍子もない恰好から、今は、紺色のブレザーに明るめのブルーのチェックのスカート、足元は黒のハイソックスにローファーという姿に変わっていた。普通の、そして可愛らしく似合っているその出で立ちに、僕は少し安堵し、そして脈動が波打つ。


「……ミロカって、色恋ごとに慣れてなくて、告白されたのだって初めてだったみたいで」


 黒ポニ少女は、少し遠くを見ながら、トレイを僕に手渡してくる。いやあの世迷言は僕にも意味不明でしたし、あれ告白にカウントするのはいかがなものかと。


「……返事はちょっと待ってくださいね。考えたいって言ってたので」


 どうぞ、と僕に促してくる微笑みは、これまた可憐きわまりなく。


 トレイに乗っていたのは、いい感じのとろりとした卵でとじられた親子丼と吸い物、それとその隣の見慣れたシェイカーに満たされていたのは、混濁し少し泡立っている魅惑の液体、我らが主食のプロテインドリンクであったわけで。


 素晴らしい。壁に掛けられていた時計の針は7時ちょっと過ぎを指している。食欲をそそる香りに、空腹感が押し寄せて来た僕はありがたく箸を取る。


 いや、でも「返事」て。あれはもうあの場で収束/終息するのが、正解なんじゃないかと、この僕なんかは思ってしまうんですが。


 何となく、この本日の何時間かで展開された「世界」についていけてない僕は、しばし無言で咀嚼に集中する振りをする。そうだ、聞いておきたいことがあった。


「……キミも、戦うヒト?」


 緊張のあまり、カタコトになりつつある言葉で、問いかける。女子とふたりきりで話すのは久しぶりのことなので、頭蓋骨の裏側までこわばってる感じがしているが。


「はい。『オニクダキ ナヤ』、です。よろしくお願いします、鵜飼ウガイさん」


 そう言いつつ、スマホの画面を僕の目の前に提示してくる。プロフィール画面だろうか、「鬼砕 薙矢」という厳めしい勇ましい名前が表示されていた。鬼を砕く……今の雰囲気からは全然だけど、先ほどの手慣れた恫喝を鑑みるに、名前負けしてない迫力はあったよな、と僕は思い返している。


 ナヤさん、とそう呼ぶことにしよう。


「さっきはあんなに怒鳴ってごめんなさい……でも私、あそこまで自分を作って持って行かないと、『戦う』って感じになれないんです。だからあんな感じになってしまって、恥ずかしい」


 言いつつ、はにかむ様子は、何だろう、全然いいじゃあないか。久しく触れられていなかったそのまとも感に、本日だけで相当がんがんに殴りなめされた僕の精神は今、かなりの癒しを感じている。


「……でもここの一員になって良かったとは思っているんです。学校では正直、地味子だし、家ではずっと、出て行ったお母さんの代わりみたいな役割を演じているから。でもここでは自由な自分が出せる、そんな気がしてたりするんです」


 ナヤさんの可憐ながらもどこか憂いを帯びた声と言葉は、僕の心の奥底にある汚泥のような澱みにさくりと入り、一瞬、かき混ぜたような感じがした。


 似ている、のかも知れない。自分の現状に抗いたくて、いつも、もがき続けてながらも、でも如何ともしがたい現実に押しつぶされそうな自分に絶望を少し感じている自分。


 僕は俯いてしまったナヤさんから視線を外し、シェイカーのフタを捻り開け一気に煽る。この風味……パイナップルか? ホエイの獣臭を微塵も感じさせぬこの酸味……こ、これどこに売ってんの? と、僕はそちらの方に気を取られてしまい、今その質問するか? というような事を訊いてしまう。


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