第63話
「迫っている」と言っても、まだまだ時間はある。あり過ぎるほどある。つまり、全然迫ってなどいない。なにせ、約束は明日の朝十時であり、現在その前日のお昼の三時なのだから。いったいこのあり余る時間を何に使えば良いのか、結子は暇を持て余した。
――アスカの勧め通り、髪切って来ても良かったかな。
結子は寝転がった状態で、前髪をつまんでみた。何の加減か、結子の髪は栗色がかっている。その栗色の髪を指先でつまみ上げるようにすると確かに伸びていた。それもそのはず。この前切ったのがもう二カ月ほど前になるからだ。そろそろ行かなければならない時期である。一般に女の子の場合、長くしている子も多いので、二カ月に一回美容室に通うというのは頻繁な方かもしれないが、結子の場合はショートにしているのでそのくらいの割で通わなければいけない。
――それとも、伸ばしてみようかな。
結子はずっとショートカットにしている。むかーしむかし幼稚園時代はそれはそれは長く伸ばしていた。背を覆うほど豊かな栗色の髪は、幼稚園の女の子たち全員の羨望の的だったのである。それをあるときバッサリと切った。それから何となく今まで伸ばさずに来たのだ。思いきりよく髪を切った理由は覚えていなかった。覚えていないのだけれど、とてもつまらない理由だったような気がする。ということは、おそらく大和と関係があるということだ。結子に関係のあるつまらないことは全て大和に起因する。彼が全ての元凶である。大和と出会わなければもっとずっと清らかな人生を送ることができていたはずであると、結子は信じるものである。
結子はベッドから起き上がって立つと、机の上にある鏡に向かった。ちょうど顔と同じくらいの大きさの鏡である。鏡の中に映し出されたその顔は、結子の審美眼からすればとっても綺麗であるとは思えないようなものであり、まあ、百歩譲れば、
――鼻の形はいいと思うけど。
とかろうじて言える程度のものである。それをどうして明日香が評価してくれたのかはやはり分からないが、それはそれとしてもう置いておいて、結子はおもむろに、むうっと唇を突き出してみた。鏡の中に変顔が現れる。この顔で迫られたら男の子はどう思うだろうか、と考えてみて、あまり良いイメージが浮かばなかったので、結子はがっかりした。
仮に
結子はベッドに、ぼふっと勢いよく腰を下ろすと、腕を組んで考えた。練習が必要である。練習相手として友達の顔をほわほわと想い浮かべてみる結子。しかし、どうやらキスしたい相手はいないようだった。これは問題である。まあ、いたらいたで、それもまた別の意味で問題になるかもしれないが。仮にいたとしても、
「ちょっとキスさせて」
と言ったらどんな反応が返って来るか、と考えればあまり良い想像は浮かばない。最悪、危険人物であるとみなされて、夏休み明けから敬遠される憂き目にあうかもしれない。中学校生活はまだ半年も残っているのに、それはマズイ。いっそのこと弟で練習してみようかとも思ったが、そこはそれやはり可愛い弟である、変なトラウマを与えることになってもいけないので断念した。
「そうすると、あんたしかいないわ、むさ吉」
結子は、ベッドの片隅に転がっていたウサギのぬいぐるみを手に取った。ウサギにしてはずんぐりむっくりとしていて、茶色の毛がゴワゴワとして、いかにもむさくるしい。そこから、結子は「むさ吉」という名前をつけて可愛がっていた。数年来の付き合いである。結子はじっと、むさ吉の目を見つめた。無機質なボタンの瞳になぜだか焦りの色のようなものが見て取れた。
「観念しなさい、むさ吉」
そう言ってから結子は、ぬいぐるみの顔を恭介の顔に見立ててみた。恋する乙女の力だろう、むさくるしいぬいぐるみが愛しいカレシの顔に早変わりする。結子は、目をつぶった。しかし、何も起こらないので、「何やってんだろう、キョウスケは」と思ったが、それもそのはずだと思い直し、というかそもそもその練習のためであるということを思い出して、自分からぬいぐるみの口のあたりに唇をつけてみた。じっくり一秒、二秒、三秒のあいだ、そのままじっとしていてから、唇を離す。
結子はぬいぐるみの目をじっと見つめてから、ポイッとベッドの隅に放り投げた。それから口をすすぎに行くために、部屋を出た。どうやら、むさ吉は洗った方が良いようであるということに結子は気がついた。
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