第61話

 負けないからと言われても、明日香アスカと何を競っていた覚えもない結子ユイコとしては、どう反応すればいいのか分からない。全くのノリで、


「うん、わたしも負けないからね。正々堂々ガンバロウね!」


 などと言って、明日香とがっちりと握手でもしてやろうかとも一瞬思ったが、どうやらそういう軽はずみを許してくれるような雰囲気ではないらしい。明日香の瞳の奥には鋼のように鈍い光が宿っている。決意の光である。


 結子は、一体何の話をしているのか、とゆっくりと問いただした。


 明日香は一度深く呼吸すると、大和ヤマトのことよ、と静かな口調で答えた。


「ヤマトがどうしたの?」


 結子が訊くと、


「さっき、あなたのことを突き飛ばした」


 と明日香。そんなことは言われなくても、突き飛ばされた本人が良く分かっている。結子は、それが一体何なのかと重ねて尋ねた。


「わたしよりもあなたのことを大事にしている証拠でしょ」


 そう言いながら明日香は迫ってきた。結子はちょっとあとじさった。すぐ後ろに自宅を囲う塀がある。結子は本心から言った。


「ゴメン、言ってることが全然分からないんだけど。突き飛ばされたわたしの方が大事にされているってどういうこと? 普通、逆じゃないの?」


「逆じゃない」


「何でよ。どう考えたって、大事にされてるのはアスカの方でしょ。ちゃんと守られてさ」


「ヤマトには覚悟があるのよ」


「覚悟?」


「もしあなたが怪我をしたら、それに責任を持つ覚悟が。そういう覚悟があるから、わたしじゃなくてあなたを突き飛ばしたのっ!」


 明日香は結子より一回り小さい体の全エネルギーをほとばしらせるような勢いで言った。そうして、結子を睨みつける。まるで百年の敵でも見るような目である。


 結子は息を吸って、口を開いた。


「あのさあ……」


「なに?」


「考えすぎなんじゃないの?」


 途端に下から、がんっという音が上がって、結子はびっくりした。明日香が自分の足の裏を地面に打ち付けたのだ。どうやら大分ヒートアップしているらしい。それに反比例するように、結子の頭は冷めている。明日香の言っていることは、ほとんど妄想じみている。きっと大和に対する想いが強すぎて、返って大和の行為が信じられなくなっているのだろう。結子はまだ至ったことはないが、これが噂に聞くところの恋の熱病の末期症状である。


「その状態になるともう治らないみたいだよ。アスカ、可哀想」


「ふざけないで」


「ふざけてるのはそっちでしょ。その被害妄想みたいなのやめてくれない。ヤマトがあなたじゃなくてわたしを突き飛ばしたのは簡単なリクツよ。知りたければ教えてあげるけど」


「言ってみなさいよ」


「わたしの方がガンジョーだからよ!」


 結子は開き直って胸を張った。自ら女の子失格のようなことを言わなければいけないのが悲しくて仕方がない。


「肩貸してくれる? ちょっと泣かせて」


「ウルサイ。この鈍感女!」


「カッチーン! 今、それが一番聞きたくない言葉なのに!」


「鈍感! 鈍感!」


「なによ! この……この……えーと、なんだろ……」


 結子は怒っている明日香の顔を見ながら罵りの言葉を考えたが、思いつかず、代わりに怒っていても美少女は美少女である、という普遍の真理に目覚めた。早々に言い合う気をなくした結子は、


「それで、結局あなたはどうしたいの?」


 と尋ねた。


 明日香はすぐさま答えた。


「あなたにヤマトは渡さない。それを覚えておいてもらいたいだけ」


「分かりました。覚えました」


 結子は胸に手を当てて宣誓する真似をした。「……ひとつ良い?」


「なによ?」


「そういう風に考えるのって疲れない? いちいちヤマトの行為をわたしと結び付けてさ」


「考えちゃうんだから仕方ないでしょ!」


 結子は、肩の力を抜くようにすると、


「アスカはもっと自分に自信を持った方がいいんじゃない。せっかく可愛くて、服を見る目もあって……まあ、後はどんな子かは知らないけど、とにかく自信を持ってさ、わたしのことなんか無視すればいいんじゃないかな」


 素直な気持ちで言った。


 それを聞いた明日香は、一瞬呆けたような顔をしたあと、憎々しげな目を結子に向けた。


「……無視なんかできない」


 ぼそりとした声。


「できるよ」


 結子は励ますように言った。そうして、自分のことを無視するようにと他人を励ます人間って一体何だ、と疑問に思ったが、それはいったん置いておいた。今は明日香のことが先である。先にして良いくらい今日はお世話になりました。


 明日香は下を見ながら諦めているように頭を横に振っている。


 結子はなおも、「キミならできる。You can do it!」と励声を浴びせ続けたが、ついに明日香は首を縦に振ることをせず、顔を上げた。そのあと、桃色の唇を震わせるようにして、


「わたしからしたら、あなたの方が綺麗だから。そんな人が好きな人の傍にいるんだから、無視なんかできない」


 言うと、「え?」と驚く結子をしり目に一つ息をついてから、


「とにかく負けないから!」


 キッとした目を向けて言ったあと、決然と身を翻した。


 結子は茫然としたまま、明日香が速足で立ち去るその背を見送っていた。

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