第36話

 智者も千慮に一失あり、という言葉がある。


 どんなに賢い人でも千回に一度くらいは間違える、という意である。


 結子はそんな格言は知らなかったが、もし知っていたら、まさに今の自分のことだと思ったことだろう。


 周囲の空気がピリピリと帯電していた。父が運転する車の後部座席である。放電しているのは、結子の隣に座っている男の子、愛しのカレ、恭介だった。結子は身じろぎできない。何かを間違えたことは分かったが、何を間違えたのかが分からない。


 ほんの五分前のこと。


 いつもの待ち合わせ場所で、結子は恭介を拾った。父の車に乗せたのである。


 家を出がけに、結子は、


「ちょうどいいから、お父さんにわたしのカレシを紹介するわ」


 父に向かって言った。


 つまりはそれが結子の思いついた名案だった。学校まで送ってもらうその途上でカレシを乗っけて、そのとき彼に父を紹介する。ようやくカレシを家族に紹介できる。恭介にとっては、多少、不意打ち的な行為にはなるが、頭痛のために学校まで送ってもらったそのついでなのだから、言い訳も立とうというものだ。にやり。結子は頭は痛いが気分は良いという得がたい経験をした。


 一方、唐突にそんなことを告げられた父の狼狽ぶりは見るも哀れであった。父は、歯医者を嫌がる虫歯の子どものごとく、ずらずら理由をつけて娘のボーイフレンドとのファーストコンタクトを拒否しようとした。しかし、もちろん結子は許さない。


「さっき、見定めてやるって言ってたじゃん、お父さん」


「『今度』とも言ったぞ。断じて、『今すぐ』とは言ってない」


「今日できることを明日に回すなってお父さんの口癖でしょ」


「いや、違う。明日は明日の風が吹くというのが父さんの座右の銘だ」


 結子はカッとした。頭が痛いときにグズグズ言われるのは非常にストレスが溜まる。


「それ以上うっとうしいこと言うなら、もうお父さんのこと、嫌いになるからね!」


 結子の口から衝動的に放たれる言葉。


 この「パパのこと嫌いになるよ」発言は、往時、父に対して絶大な威力を発揮していた。この攻撃で幼少時、様々な無理を通してきたものである。とはいえ、今は中学三年生、さすがにかつて持っていた愛らしさも衰えを見せ、効果が低くなっているのではないかと危惧した結子は、念の為に、次弾を装填して、


「もうお弁当も作ってあげないから!」


 発射した。


 どちらの攻撃が効いたのかは分からないが、父は、「分かった」と諦めたように言った。その父が、重たい気分をアクセルペダルに乗せて五分ほどのろのろと運転していった先に公園があり、その門前に綺麗な立ち姿があった。


 カレシを紹介された父は、娘に恋人がいるということをその目で認めたくなかったのか、出発前はさんざん駄々をこねていたわけだが、いざ恭介が挨拶すると、理解ある父親を演じてくれた。


「娘がいつもお世話になっています」


 とにこやかに温かい声で言ってくれる父のことを結子は見直した。しかし、その日の夜、父はこの時のことを、


「彼が挨拶してくれた時、まるで結婚申し込みを受けたような気分になった」


 と寂しそうに語った。それに対して結子は、


「将来の予行演習ができて良かったじゃん」


 血も涙もない娘であった。


 一方、ガールフレンドから父を紹介してもらった恭介は、多少の緊張を見せたものの、おろおろすることもなくはっきりとした声で自分の姓名を告げたのち、


「ユイコさんと真剣にお付き合いさせていただいてます」


 と静かな朝の空気を破るような力強い声で言って、結子を赤面させた。


 その後、一緒に父の車に乗って登校する運びとなり、車内は父と恭介の会話で色づき、笑声があふれ、楽しい時は瞬く間に過ぎ去る……。それが結子の夢想であり、そうして事実その通りになった。父の問いに恭介はハキハキと答え、いつも以上の好青年ぶりを見せていた。


 全てはお釈迦さまが手の平の上で孫悟空を遊ばせるようにたやすくいくものと思われた。カレシが父と面識を持ったことを皮切りに、そのうち母と、ついでに弟にも会わせ、小宮山家公認となる。自動的に今度は、結子が恭介のお家にお呼ばれして、


「あら、なんてステキなお嬢さんなのかしら」


「ハハ、恭介。お前も隅におけんな」


「わたし、ずっと結子さんみたいな綺麗なお姉ちゃんが欲しかったんですぅ」


 歓迎の雨嵐に打たれ、その後晴れて両家公認のラブラブカップルができあがるはずであった。


 誤算である。


 結子はちらりと隣に座っている恭介の顔をうかがった。父と話をしているので表情自体は柔らかい。しかし、何ごとか結子に対して含むものがあるようだ。というのも、一緒に車に乗ってから恭介は一度も結子と目を合わせようとしなかった。どうやらこのサプライズを喜んではいないらしい。


 やがて車は校門近くで止まり、二人仲良く一つの車から出てきた結子と恭介はそれなりに注目の的となった。父に丁寧に礼を言って好感度を上げた恭介は、「じゃあ、行こう」と短く言って、しかし結子の首元辺りに視線を向けて直接カノジョの顔を見ようとせず、大股で校門をくぐった。結子は頭痛も忘れ、恭介の後を追った。

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